あくる日。
私はいつもよりも急ぎめで朝を告げる光を世界に注ぎ始めた。もちろん、ミアが気になって仕方なかったからだ。無事に家へと帰れたのだろうか。そう思うとまだ誰もいないであろうに、自然と視線が例の坂道へといってしまう。
しかし、私の目には思いがけない人物が目に止まったのだ。昨日の少年である。深くフードを被り何やら袋を片手に腰を屈めながらゆっくり、ゆっくりと坂道を上っている。この時間、とっくに魔法族の子らは帰宅しているはずだ。
一体、何をしているのだろう。注意深く観察を開始する。そうして分かったのは、その手に次々に鋭利な枝やゴミを握っては、それらを袋へと運んでいるということ。どうやら、清掃をしているようだ。何故、そんなことをしているのかは分からない。なにせ、魔法族の子らは夜に活動するので、私はどうにも彼らのことは詳しくないのだ。もしかしたら、ボランティアかもしれないし、何かの罰則かもしれない。だが、いずれにしても、私が完全に姿を現す前に帰宅した方がよいだろう。少年のことは心配だが、清掃自体は大変有難い。清掃後ならば、ミアも練習しやすいのは間違いないのだから。さすれば、今日こそ飛べるかもしれない。そう思うと、私は朝から夕方が待ち遠しくて仕方なくなってしまった。けれども、あまり早く出すぎては少年に悪いと思い、私はゆっくりとゆっくりと顔を出すように努めた。
そして夕方。
今日もミアはこの坂道へとやってきた。まだ痛々しそうに足に包帯を巻いてはいるが、顔色も歩き方もいつも通りで、大事には至らなかったであろうことが見て取れる。私はほっと息をついた。
そして、ミアがいつも通りに練習を始めた頃、今朝みかけた少年がまた、建物の陰からじっとその様子を見ていることに気がついた。そこでようやく、彼はきっとミアの為に清掃していたに違いないと確信したのだ。そう思うと、なんだかミアの頑張りが認められたような気がして、私は嬉しくて、気分が高揚して、ますます身体の色を濃くしてしまった。
その少年と共にミアをじっと見守り続けたが、今日も特別な成果は得られなかった。けれども、清掃のお陰で、大きな怪我はもちろん、いつもよりミアは傷を増やさずに済んだような気がした。
さらにあくる日。
私は目を覚ましてすぐ、例の坂道へと視線を向けた。すると、ちょうど坂の真下あたり。私を見上げるように昨日の少年が既にそこに立っていた。そして、その傍らにはパンパンになったゴミ袋が一つ。今日も、きっと清掃をしてくれたのだろう。
しかし、今朝はそれだけでは終らなかった。彼は詠唱を始め、風の魔法を練習し始めたのだ。正直、その様子をみる限り、彼にとって風の魔法は難しいものではなさそうだった。むしろ、かなり優秀なように感じる。けれども、彼は何度も何度も、息が切れるまでひたすら風の魔法を練習し続けた。初めは強く、そして、今度は弱く。細かく、細かく、風力を調整しているかのように。
私は今日も少年が帰宅するまでゆっくりとゆっくりと顔を出すように努めた。
さらにその日の夕方。いつも通りミアが練習を開始すると、少年もまた現れたのだ。しかし、昨日と同じように特別声をかける訳でもなく、ミアの様子を物陰からじっと見つめているだけであった。
そんな日々がかれこれ一週間くらい続いたある日。私はとても寂しい朝を迎えた。
どれだけ目を凝らしても少年の姿が見当たらないのだ。けれども、坂道には鋭利な枝はおろか、ゴミひとつ落ちていない。その様子からして、清掃を済ませてくれているのは間違いないだろう。
それなのにどうして少年はいないのだろうか。夕方、彼は来るだろうか。
私はミアのことだけでなく、いつの間にか少年のこともこんなに気にかけるようになっていた。きっと彼のことを、ミアを見守る同士のように感じてしまっていたのだろう。
ああ、あの少年がいないと、何だか落ち着かない。どうか、最後までミアを見守ってやってほしいと思ってしまうのは、エゴだというのに、どうしようもなく、そう願ってしまう。やっと、ミアを理解してくれる友人ができたと安心していたのだから。
その日の夕方、私はいつもより緊張した赴きで身体を橙色に染め始めた。例にも外れず、ミアが今日も気合十分に坂道へと現れた。彼女は一人だろうと、何だろうと、真っすぐと突き進む。
ああ、ああ。そうだね、これだけ頑張っていたらいつかきっと成功するよ。あきらめないで。
そうミアに微笑みながらも、私はついついもう一人の姿を探してしまう。けれども、どの建物の陰にも少年の姿は見当たらなかった。
そうか、そうか……。仕方あるまい。
そう思い、がっくりと肩を落とすと、まるでそれを合図にしたかのようにミアが練習を開始した。
タタタッと気持ちのいい助走の音が響く。足が地面から離れると同時にミアは大きく羽を広げた。とても思い切りのよい踏み切りだった。けれども、そこからなかなか上手に風を読むことも、羽をバタつかせることができないでいる。徐々にミアの身体が傾きかける。
ああ。今日もあの痛々しい鈍い音を聞くのだろうか。私は何もしてやれないのだろうか。
私が悲しみに暮れそうになり、ミアの眉が険しくなり始めたその時、坂の真下から、透き通るような綺麗な声が響いた。
「ウィンド!!」
その声に合わせて、大きな風が吹き、ミアの羽が僅かに風に乗る。そして、まだぎこちないながらも羽をバタつかせ、何とか体勢を整え直した。結果、いつもより少し長く宙を舞うことができたようだ。さらには、転ぶことなく、風が止むのにあわせて坂の中腹あたりにすっと足をつける。
すごい、すごいぞ、ミア!
私は喜びのあまり、いつもに増して、光を放ってしまった。坂の真下で、少し苦しそうに、声の主が目を瞑る。私が気持ちを落ち着かせ、光を抑えると共にその逆光から姿を現したのは、いつもの少年。あの少年だった。
彼はフードを深く被りながらも、姿自体は隠すことなく、堂々と立って私とミアをまっすぐと見上げていた。
その視線に応えるようにミアも少年を見つめ返す。彼女たちは互いに声をかけることなく、そのまま黙って視線だけを交わしていた。そして、少年が小さく頷くと、ミアは再び、ゆっくりと坂道を上り始めた。その表情は、いつもの悔しそうなものとは違い、希望に満ちたものだった。
「ウィンド!」
ミアが坂を飛び出し、身体が傾きかけると、また少年の透き通った声が響いた。それに合わせて優しい風が舞い起こり、羽を広げ、その風にミアが乗る。そのままぎこちなく羽をバタつかせ、小さく飛行しては、落ちることなくミアは自分の足でしっかりと地面に降りる。そして再び地面を蹴り、私を目指してミアがふわりと浮かんでくる。再び響く少年の声。その声に合わせて今度は中くらいの風が吹いた。さらにその風に合わせて、ミアが羽をバタつかせる。
ああ、素晴らしい。
二人は黙ったまま、何度も同じことを繰り返した。回数を重ねる毎に風は弱くなり、代わりにミアの飛行距離は伸びていった。
そして、いくどめの挑戦だっただろうか。もう、回数なんて分からない。
勢いよく坂を踏み切ったミアは、それはそれは綺麗に、宙に舞ったのだ。彼女の黄色い羽が私の放つ橙色の光と混じり、美しく輝く。坂の下に伸びるその影は、立派な鳥族のそれだった。転ぶこともなければ、一度も足をつけることなく、ミアは自力で長い長い坂道を飛びきったのだ。そして、ふわりと細かく羽を揺らして、堂々と地面へと着地する。
そんなやり切った少女の前には、一人の少年が嬉しそうに微笑んでいる。
「手伝ってくれて、ありがとう。私、ミア」
「僕、ウィル」
二人は握手を交わし、一緒に坂のてっぺんまでやってくると、肩を並べて、楽しそうに語らい始めた。
その二人の背中はとても可愛らしく、二人から伸びて一緒になる影はいつまでも眺めていたいくらいに愛おしかった。私は泣きそうになったものの、今泣いて、雨を降らせるわけにはいかない。じっと上をみて、涙を堪える。
そして、今日は、少しだけ。そう言いながら月にウィンクして、私は頑張った二人のために、いつもよりもゆっくり、ゆっくりと眠りについた。
今晩はきっといい夢が見られるような気がする。