オリジナル小説

星のカケラ~episode4~

2021年10月10日

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シホのカケラ

 

 カーテンの隙間から日の光が差し込み、しほに朝を知らせる。ゴロリと寝返りを打ち、いつもより少し怠い身体に夢うつつの状態から現実へと引き戻される。

「なんか、いつもよりしんどい」

 そう呟いて、のそりと身体を起こす。そして、ぼーっとベッドの上で固まったまま、光合成をするかのように日の光を全身に浴びる。

 なんでこんなに身体が重たいんだろう。

 そう考えてものの数秒で、昨夜の数々の出来事がフラッシュバックする。

「そっか。お酒を飲んだからだ。それで、あんまり眠れてないから」

 昨日は偶然、店長とコンビニで出会えたのだった。

 重い腰をあげてベッドから離れ、ベランダの方へと行き、カーテンを完全に開く。ほんの少し窓を開けて、部屋に風を通す。まだまだ暑いけれど、風が吹くと心地よくて、カーテンがほんのりと揺れる。

 その隙間から映りこむのは公園で、少し遅めの朝だからか、既にしほ専用のブランコの時間は終了していた。就学前の子どもたちが母親に連れられて、楽しそうに遊んでいる。

「はは、なんか生きてるって感じ」

 慣れないお酒にフワフワして、駆け引きの出来ない恋愛にドキドキして。
 夢かもしれないと眠れなくって、そうしたら次の日、ちゃんと身体が怠いのだ。

 ワクワクして、ドキドキして、ソワソワして、身体が重たい。
 感情も身体も大忙しで、生きている。

 そういうのを感じながらしほは身支度をする。

 けれども、現実が動き出すと、この身体のだるさはとても厄介だった。まだ正式には認めていないけれど、恋する乙女に自分が部類されるのならば、尚のこと。

 足も顔も少し浮腫んでいるし、何より、目の下に大きなクマが出来ている。

 時計を見て、まだ時間があることを確認すると、しほは慌ててシャワーを済ませて、顔や足をマッサージする。
 クマや顔色の悪さを隠すため、ほんの少しいつもよりも化粧は丁寧に。それで、せめて髪型は寝ぐせなく、キレイに。

 服の数なんて少ないけれど、クローゼットの中を覗きながら一人脳内会議をして、昨日のようにはならないように、今の自分に一番合う色の服を選んでみる。

「うん、今日はコレにしようかな」

 選んだのは淡い黄色のボレロ。手前が結べるようになっており、カジュアルなものが好きなしほでも気張らずに可愛らしく着ることが出来る。中のインナーは爽やかな白のタンクトップ。面倒だから夏の間はほぼサンダルで過ごしているのだけれど、ちょうどサンダルも白いから、何となくまとまって見えるかもしれない。

 それで、ちょっと浮腫みがちな脚。これらを引き締めてくれることを願って、紺色のジーンズ素材のスキニーを履いて、しほは準備を終える。

「特に私服は見られることないだろうけど、別にオシャレするのは悪いことじゃないもんね?」

 柄にもなく鏡の前で何度も確認してから、星宙パティスリーへと向かう。
 ソワソワとした気分で、少し期待して。昨日と今日では何かが変わっているかもなんて思いながら。ちょっと浮かれて、足が軽やかに弾むのを感じながら。

 

 今日は金曜日。授業のない日で、朝から夕方まで1日シフトに入っている日だ。一度小さく深呼吸をしてから、従業員専用の裏口の扉に手をかける。

 中に入ると、ちょうど女子更衣室ではみんな着替えているところで、しほもそれに倣って黙って開いているカーテンの所へと向かい、制服へと着替え始める。

「よし」

 白いブラウスに、グレーと茶色のチェック柄の可愛らしいベストとスカート。そのベストを止めるボタンが星型になっている。これに最後、帽子をかぶったら完成。しほはこの可愛らしい制服が、結構気に入っている。田舎育ちのしほには、オシャレな制服というものには縁がなかった。それに私服もシンプルなものが好きなので、こういう柄の入った可愛らしいものを堂々と着られるのが少し嬉しかったりする。

 そのまま休憩室へと行くと、着替え終わったパートのおばちゃんたちが既にそこで待機していた。

「おはようございます!」
「おはよう。あら、しほちゃん、何かいいことでもあった?」

 いつも仲良くしているパートのおばちゃんの一人に尋ねられる。

「え、そんな風にみえますか?」

 すると、おばさんが笑顔で言ってくれる。

「も~、いいことありましたーって顔に書いてあるわよ~」
「ええっー」

 そう言いながら壁に取り付けられている鏡を見てみるも、別にいつもの自分の顔で、だけど心なし頬が緩んでいる気がしなくもない。

 浮かれている理由はもちろん、ただひとつ。昨日の真夜中のお茶会。

 あの何とも言えない店長の大人の雰囲気と私服で出会った特別な時間、少しだけ背伸びしたアルコールの香りとケーキの甘みにフワフワとした心地。デートかもしれない、今度の約束。

 それらを思い出して、再びぼっと頬に熱が籠っていく。

「あらやだ~。その反応! 恋ねぇ~」
「いえ、そんなんじゃぁ! ちょっ、ちょっ、ちょっといいことがあっただけですよ」
「またまた~」
「ほ、本当です。いいことがあっただけなんです~!」

 だって、やっぱり、恋と認めてしまうには自分は子ども過ぎるのだ。だから、普段はなかなか手の出せないコンビニスイーツを店長が買ってくれて、それで、行ってみたかったケーキ屋さんにお互いにケーキが好きだから連れて行ってもらうだけ。本当に、それだけ。

 ちょっとドキドキしちゃうけど。柄にもなく服とか化粧を気にしちゃってるけれど。まだ、恋じゃないはずなんだ。

 だけど、そんなしほの心のうちなどお構いなしに、「大丈夫よ、若いっていいわね」なんて言いながらおばちゃんが肩を叩いて笑う。からかわれているはずなのに、その笑顔がとっても優しくって、しほは自然と頬が緩む。

 そして、思う。例えば、まだ恋だと認めるには勇気が足りなくて、昨日はただ一緒にスイーツを食べただけであったとしても、自分が楽しい、嬉しいという気持ち自体は自由で、それは認めてもいいのかなって。
 こんな風に、笑顔で自分が嬉しそうなことを喜んでくれる人がいるのだから。

 おばちゃんたちから元気をもらって、しほはドギマギした複雑な乙女心を受け入れる。

 うん、恋とはまだ呼べなくてもドキドキするのはいいよね。店長と顔を合わせても、バイト頑張れそう。

 そこにノックの音が響いて、休憩室へと店長が入ってくる。

「みんな、今日もよろしくね」
「「はーい」」

 とても爽やかな笑顔で、店長が全員にそう告げてくれる。そしていつも通り、ひとりひとりと一言ずつ挨拶をかわしていく。最後にしほの番がきて、しっかりと店長と目が合った。

 つい先ほど、店長と顔を合わせても頑張れると自分に誓ったところなのに、その瞳をみた瞬間にその決意以上の緊張と不安がしほに襲いかかる。

 もしかして、恋がどうとか、さっきの会話聞かれてたかな。それで、昨日のことは私の妄想だったらどうしよう。あと、昨日の私は服装以外に変な所はなかったかな。

 いっぱいいっぱいの気持ちを隠すため、しほはぱちぱちと瞬きをする。

 けれども、店長はここでも全くもっていつも通り。定型の店長の優しい笑みで「しほちゃんも今日よろしくね」とだけ言うと、店の方へと向かってしまった。
 その後ろ姿はいつもの白いコックコートで、今からそのひとつに束ねた髪をあのいつもの白いコック帽で隠して、また遠い人に戻ってしまうのだろう。

 あーあ。やっぱり、大人って分からない。それで、遠い。お酒を飲んだからといって、一日で何かが変わるわけではないよね。

 そう思いながら、しほも店長の後へと続いて休憩室を出ようとしたその時、扉に手をかけた店長がぱっと振り返る。

 驚いて首ごとグイっと上に持ち上げて視線を店長へと合わせる。ぶつかる視線は片目だけで、ウィンクをしながら、人差し指を妖艶な唇に押し当てて店長が言う。

「あ、昨日のことは皆には内緒ね?」

 それだけ残して、店長も完全に姿を消してしまった。

「ず、ずるい」

 一人取り残された休憩室で、ムギュっとチェック柄の帽子をかぶる。

 店に出る前にそんなこと言われたら、赤くなった頬を戻すのに困っちゃう!
 やっぱり、子どもだって思われてるのかも。やっぱり、何だかちょっと悔しいかも。

 だけど……

「やっぱり少しだけ、何かが変わったかも……」

 そう呟いて、へへっと一人でニヤつく。けれど、もう時間もなくて、鏡を見ながら帽子を整えて深呼吸をすると、慌ててしほも店へと出る。

 

「いらっしゃいませ」

 それなりに日中も混んでいたけれど、夕方に差し掛かり、列を成して次々にお客がやってくる状態が続く。それを笑顔で誘導しながら、テキパキと注文を聞き、ケーキを箱へと詰め込んでいく。

 今日もみんなが嬉しそうに店長のケーキを買ってくれて嬉しい。
 きっと、買う時だけでなく、家に帰ってこれらを口に運ぶその瞬間まで、ワクワクが続いて身体にこの甘さが溶け込むと共に、以前のしほのように温かい何かが心をも満たすのだろう。

 だから、ただ箱に詰めるのではなく、しほもひとりひとりの笑顔を願いながら詰めるようにしている。

「あの、コレとコレと、あなたのオススメをひとつ」
「畏まりました。こちらとこちらですね。そして、オススメとは……今月のピックアップケーキのことでしょうか? こちら三種類ございまして」

 毎月、季節の果物に特化したケーキを三種類ほど、店側でピックアップして宣伝強化している。そのことだろうと思い、ショーケース越しにメニュー表を出して説明しようとする。

「いえ、違うんです。あなたの好きなケーキを、教えてください。それが欲しいんです」
「えーっと」

 しほの個人的なオススメケーキを紹介してほしいということだろうか。戸惑いながら、お客様の方を再度見て、ぎょっとする。

 雰囲気が柔らかくなっており、髪型が変わっていて気が付かなかったが、よく見ればいつも杏奈を追いかけているグループのリーダーの男ではないか。

 今日はいつもワックスで固めているオールバックの髪を下ろしている。かなり体格が良く、日ごろ険しい表情をしていたのでそういう顔つきなのかと思っていたが、自然に下ろされた前髪の向こうにある瞳はどこか優し気で、眉も穏やかな弧を描いていた。

 思わず、固まってしまう。

「やっぱり、そういうのはダメかな? 難しかったら、お店のオススメで大丈夫なんだけど」

 気まずそうに笑いながら、頭を掻くその姿はただの優しそうな男の子で、しほは戸惑いを隠せなかった。

「驚かせてごめん、でも、本当に何もしないし、ケーキを買いに来ただけ」

 そう言われると、何も言えなくて、後ろに並ぶお客様も気になる。しほは営業スマイルに戻して、続けていく。

「えっと、では、当店のオススメを紹介させて頂きます。今月のピックアップがこちらの三種類で、マロンを使ったもの、イチジクを使ったもの、マスカットを使ったものになります」
「……そうですか、どれにしようかな」

 ははは、と寂し気に笑うので、ぐぐっと喉を詰まらせ、バレないように小さく息をついて付け加える。

「どれもオススメですが、こちらのマロンのものは甘さ控えめで、老若男女問わずお楽しみ頂けるかと思います。コーヒーにもとても合うので、私は好きですね」
「じゃあ、そのマロンのものにします!」
「……ありがとうございます」

 既に二つ並んだケーキの傍に、モンブランケーキをそっと詰める。苺のショートケーキに一番人気のフルーツケーキ。そこに茶色いモンブランが加わって、その箱の中は春が過ぎ、鮮やかな夏が過ぎ、秋が来たとでもいうような並びだった。

「持ち歩き時間は何分くらいでしょうか?」
「えっと、一番長くお願いします」
「畏まりました。1時間分お付けしておきますね」

 そうして流れ作業で会計まで済ませ、ケーキを渡したその時に、言われる。

「どうしても君と話がしたいんだ。バイト終わりに少しでいいから、会えないだろうか。人目がある、店の入り口の所でいい」
「えーっと」

 この人に良いイメージは全くない。追いかけられて杏奈と一緒に逃げたのはいつ頃だっただろうか。確かにあれから大人しくなったし、追いかけられたことはないけれど、正直、行きたくないし、何も話すことなどこちらはない。

「……本当に、ごめん。でも、今日は一人だし、絶対に追いかけたりしないし、人目のある店の前って約束する。頼む」

 それだけ言い切って、その人は行ってしまった。

「私は苺のケーキと、このモンブランを」

 会計が終わったと思った次のお客様が注文を言い始め、しほは慌てて気持ちを切り替えて接客をしていく。

 仕事の合間にチラリと店の外をウィンドウ越しに見やると、先ほどの男の子は本当にそこに突っ立っていた。こちらを振り向くでもなく、ただただじっと待っているのだ。

 あの人がケーキを買っていったのは4時ごろくらい。もうすぐ、5時を迎える。それで、しほのバイト終了時刻は6時。着替え終わったら6時半くらいだろうか。

 うーん。どうしよう。

 あまり長時間外にいたらケーキが傷む。けれど、バイトを抜ける訳にはいかないし、そもそもあの人が勝手に言い切って待っているだけで、同意して約束したわけではないし、しほには行く義理もない。

 バイトの終わりの時間も聞いてこなかったし、そのうち諦めるよね。それに、従業員は裏口から出るから顔を合わさないし。

 そう思いながらバイトを続けたけれど、その人は本当に店の前からしほのバイトが終了する6時頃まで一歩も動かずに待ち続けていた。

「…………別にいいよね」

 着替え終わり、時刻を見やる。6時過ぎ。正直、このまま帰ってしまいたい。裏口からならばバレないのだから。

「お疲れ様でした」

 そう言って数歩、外に出たところでピタリとしほは足を止める。

「あーー、もう」

 こんな自分が嫌だ。だけど、2時間! 2時間待たれたら、正直、無視しにくい。
 それに、今回無視したことで向こうがまた追いかけてきたら?
 杏奈がせっかく彼氏と上手く行き始めたのに。
 またバイト先に来られたら?
 今日みたいにケーキを買って、外で待つだけなら良いけれど、店に来た女の子みんなをナンパされ始めたら堪ったもんじゃない。

 しほはいそいそと裏口から店へと戻る。

「あれ? しほちゃん。忘れ物?」

 休憩室にはちょうど、店長がいた。

「あー、えっと。久しぶりにケーキを買って帰ろうかなって」

 何となく目を合わすことが出来ずに、しほは下を向きながら答えた。

 わざわざ、店長がオレンジを転がしてまで助けてくれたのだ。あの男の子に会うのは気まずいし、けれども、今回はお客とはいえ、店の前にずっといる。それがしほが原因だと思うと、さらに色んな意味で申し訳なくなる。もう、これ以上、騒ぎに巻き込むことはできない。

「しほちゃんがケーキ買って帰るの久しぶりだね。おまけつけるよ?」

 そう言ながら、店長がとびきり優しい笑顔で、ケーキをどれにするのか聞いてくれる。
 こうやって会話をしていたら、目の前の店長に引き込まれて、目下の解決しなければならない問題を忘れてしまいそうになる。

 その笑顔に胸が高鳴って、店長はこちらなんて気にしていないけれど、やっぱりそれなりに私服を厳選してきてよかったなんて思ってしまうのだから。

「やっぱり、季節のケーキの誘惑に負けちゃって」
「そうだよね、スイーツって新作もだけど、期間限定もつい買っちゃうよね。そっか、限定ケーキ気に入ってくれてるんだ」
「はい」

 最近は控えていたけれど、お金を本格的に貯め始める前はこうしてよくケーキを買って帰っていた。
 在庫があれば、こうやって休憩室から注文すると従業員割引で購入させてもらえるのだ。
 それが最初にこの店をバイト先に選んだ理由のひとつでもあったりする。
 今では色んな意味で、ここのバイトが好きだけれど。

 しほはメニューを思い浮かべて、やはりモンブランのケーキをお願いする。先ほど会話していたら、しほもつい、食べたくなってしまったのだ。おまけは何がいい、なんて聞いてくれるから、しほはすかさず付け加える。

「あの、おまけは大丈夫です。昨日沢山食べさせてもらったので。でも……今日は保冷剤をください」
「ん? 保冷剤?」

 ケーキを取りに行こうとした店長が、戸惑うように聞く。

 しほの家はここから近い。いつも保冷剤がもったいないからと、真夏でもつけてもらったことはない。まだ残暑が厳しいとは言え、しほの家までの距離を考えると、本当に必要ないのだが、しほは少しの罪悪感を抱えて言う。

「はい。えっと、今日は少し寄り道してから帰るので」
「ああ、そっか。そうだよね。そんな日もあるよね。多めに入れておくね」

 そう言って、店長がモンブランのケーキを保冷剤と一緒に用意してきてくれた。

「はい。お疲れ様」
「ありがとうございます」
「じゃあ、店が忙しくなってきたから、戻るね」

 笑顔で去る店長を見送って、誰も休憩室にいないことを確認してしほは箱を開ける。

「……店長」

 そこにはモンブランのケーキだけでなく、しほが一番好きな洋ナシのタルトとフィナンシェを一緒に入れてくれていた。
 ジワリと目に涙が溢れるのを感じながら、しほは手早く、保冷剤を引き抜く。
 そして、ふっとケーキを見つめながら笑みを漏らし、箱をそっと綺麗に直していく。

「よし」

 そうして、保冷剤を予備の袋に入れて、しほは裏口から今度こそ店を出る。
 けれど、向かうのは自宅ではなく、星宙パティスリーの正面入り口。

 ケーキを購入したから時刻はもう6時半過ぎになっていた。もし、まだいたら、話をつける。
 ケーキを買いに来る以外の用事ではもう来ないでください、そう一言伝えればいい。

 くるりと角を曲がって、星宙パティスリーの正面に面する道へと出る。すると、やっぱり、先ほどの人は入口の前にまだ突っ立っていた。

 もう帰ってくれてたらよかったのに。

 そう思いながらも、しほは声をかける。

「あの……」

 ばっと振り向いた彼は、驚いたような顔をしてから、とても嬉しそうに目を細めて笑った。その笑顔が想像していた反応とは全く違って、しほは驚く。

「よかった、来てくれないかと思った」
「いえ、流石にここでずっと待たれたら、居た堪れないというか、困るというか」
「そうだよね。君、優しいからずっと待ってたら来てくれるんじゃないかって。本当にごめん」
「あ、えっと、それでこういうの困るので。あと、そもそも杏奈には彼氏がいるので、私に何か言われても困るんです。あと、もう杏奈のことは諦めてください。追いかけないで。それから、店に来るときはケーキを買う用件以外で来られたら困ります……。とにかく、全部困ります」

 一言と思っていたのに、向こうが待たされすぎて不機嫌、というような反応でもなかったので、しほはつい、一気に色々言ってしまった。
 それも困りますの連発。ちょっと言い過ぎたかも。そう思って慌てて相手の方をみると、目を丸くして、こちらを見ていた。

「あ、えっと」

 どうしようかな。怒っただろうか。そう思って居心地が悪くなり、視線を逸らし慌てて下を向く。すると、相手がぷっと噴出したかと思うと、はははと明るい笑い声が聞こえてきた。

「君、普段は大人しくしてるし、声かけてもガン無視だけど、本当はよくしゃべるよね。うん、やっぱりそうだよね」

 何を言われているのか分からずに、しほは相手の方を見上げる。

「ごめん。実は前に会ったことがあるんだ」
「ああ、はい。覚えてますよ。だから、杏奈には彼氏がいて……」

 今度は少し寂し気に微笑んで、彼は言う。

「うん。その時はごめん。そうじゃなくって、それよりも前に、会ったことがあるんだ」
「え? すみません。常連さんは覚えてるつもりなんですけど、ここお客様多いので、気が付かなかったのかもしれません」

 そう言うと、ゆっくりと首を振って、彼は続ける。

「違うんだ。3年前に、夏のちびっこ海空キャンプに参加したことない?」
「……あるかも」
「俺と、俺の弟も参加してたんだ」
「そう、なんだ……」

 大学の夏休みに、子どもたちとの触れ合い企画で、大学生が主体となって行うキャンプの募集があった。しほも経験を積むために参加したのだが……

「私、その時のことあんまり覚えてないの」
「……うん。そうなんだろうね」
「えっと、その時に話したことあったのかな?」
「ううんと、俺はほんの少しだけ。でも弟が、君にすごく懐いてたんだ」
「そうなの?」
「うん。それで、川で溺れそうになってたところを、君に助けてもらったんだ」
「あっ……」

 あまり覚えてはいないものの、川に入ったことは覚えている。

「偶然、この間弟が君をみつけて。声をかけても、反応が初めて会うような感じだったから、ちょっとショックだったみたいで。だから、髪型も以前とは変わってるし、人違いかどっちか分からなくなって、俺も確認したかったんだけど……」

 一瞬、空を見上げ、小さくため息をついて彼は笑う。

「どうも君は覚えてなさそうだから。君のモデルの友達もあのキャンプの時に一緒にいたはずだから、その子に先に確認しようと思ったんだ。人違いか、それか双子でもいるのかなって。それで、モデルの子にはなかなか近づけないから、ちょっと強引な手を使って近づこうとしたら、ああいう風になってしまって」
「そうなの!?」
「いや、本当に君にもモデルの友達にも嫌な思いさせてしまってごめん。最初は友人の何人かが本当にあのモデルの子にちょっかい出してたのがきっかけなんだけど、そこに俺も便乗させてもらったんだ。周りにバレないように合わせてたら、ああいう態度になっちゃったんだけど、何とか顔を合わせたら思い出してくれないかなって」
「どうしてそこまで……」

 彼は気まずそうにまた視線を上へと向けて、頭を掻きながら、寂し気に言う。

「ちょっと、切羽詰まってて……。弟がすごく君に会いたがってるものだから」

 その言葉にはっとする。最初に私に声をかけてくれたのが、その弟君だとして、それを私は覚えていなかったとして。きっと、自分が覚えていないことで、弟君を傷つけてしまっているのだろう。

 色々と聞きたいことがあるけれど、しほはとりあえず、ぐるぐると混乱する頭の中から、言わなければならないことを紡ぎ出して、答える。

「あの、私、川に落ちたのは覚えてて。その後、高熱だしてしばらく寝込んでしまって。そのキャンプの前後のこと覚えてないの」

 川に落ちて熱を出したなんていったら、その子を助けたせいだと言っているように聞こえないか心配になったけれど、まずは覚えていないことを説明する方が先だと、順を追って自分の中でも色々なことを整理しながら、ひとつずつ話していく。

 確かあの時、萌咲はそのキャンプには参加していなくって、杏奈と二人で参加した。後は他の大学から来た学生が何人もいた気がする。

 当時、びしょびしょでいきなり戻ってきて、杏奈には川に落ちたとしか言わなかったそうだ。それで、そのまま風邪をこじらせて、一週間ほど寝込んだ気がする。その時、あまりの高熱でその前後の記憶が飛んでしまった。

 キャンプの思い出がないのは残念だとは思っていたけれど、生きていく上では困らないので、その時のことがこんな風に何かに繋がってくるとは思いもしなかったのだ。

「そうなんだ。それで分からなかったんだ。弟のことを、避けてるとかそういうのではなくて、そもそも記憶がないんだね」
「そうみたい。覚えてなくてごめんなさい」
「いや、そんなの君のせいじゃない。こっちこそ、本当に色々、ごめん。その、どうしても確認したかったんだ。溺れかけて、助けてもらったから、そのことで君に嫌われてしまったんじゃないかって弟が気にしてたものだから」
「そんなこと……」

 ない。絶対に、それで嫌うなんてことはない。だってこのことが本当なら、当時の自分は、わざわざ川に飛び込んでまでその子を助けたのだから。

「本当に覚えてなくて、ごめんなさい。弟君のこと、傷つけちゃったね」
「いや、いいんだ。川に落ちたのはキャンプの最終日のことで、ずっとキャンプの間中、君にベッタリですごく仲良くしてもらってたみたいだから」

 それを聞いて、しほは胸がほんのりと温かくなると共に、何故かジワリと涙が溢れてくる。

「そっか。そうなんだ。覚えてないのは悲しいけれど、そんなに仲良かった子を助けることができて、本当によかった」
「うん。あの時助けてもらわなかったら、弟は今ここにはいなかったと思う。近くに大人は誰もいなかったからね。助けを求めても、すぐにレスキューの人たちが来れるような状態でもなかった」

 そう言って互いに微笑みあう。

「改めてお礼を言わせてもらえないかな。弟の命を救ってくれて、本当にありがとう」

 丁寧にお辞儀までして、そう言ってくれる。

「覚えてないんだけど、私こそ教えてくれてありがとう」

 深々としたお辞儀から頭を上げた彼の目は少し潤んでいて、しほが微笑むと安心したように笑い返してくれた。

「えっと、それで、弟君にはどう説明してもらったらいいかな? 私が高熱を出して覚えてないなんて言ったら、川の件のこと、余計に気にしちゃうかな」

 すると、彼は真面目な顔で言う。

「いや、事実をそのまま伝えるよ。君が記憶を失くしてまで命がけで助けてくれたんだから。だからこそ、ちゃんと伝えなくちゃ。それで、それも含めて君にお礼を言うんだよって」
「……そう、ね。子どもだからって誤魔化さずに、ちゃんと伝えなくちゃね」

 しほにとって、失った時の記憶は戻らない。けれども、こうして誰かの役にたっていたということが、しほの胸に新しい記憶として刻まれて、今こうして話していることで、子どもとしっかりと向き合う、ということについて新たに考えさせられることとなった。

 つい、悪い人と決めつけて逃げ回ってしまっていたけれど、話を聞いてみてよかった、としほは強く思う。もちろん、追い回されていたことは消えないので、彼の新しい、人目のある明るい場所でこうして長い間待ちぼうけをして、話をきいてみようと思えるくらいに行動してくれたからもあるけれども。

 しみじみと感慨深く様々なことに想いを巡らせていると、彼がさらに気まずそうに言う。

「それで、弟が君にお礼を言いたがってて……」
「うん。私も会いたいな」
「その……もうすぐ、手術をするんだ」
「え?」
「弟が手術をするんだ。だから、よかったらその前に一度会ってもらえないかな。といっても、こちらが会いに来るのではなくて、病院まで来て欲しいんだ。弟は今、動けなくって。お礼を言いたいと言いながら、もうお願いになってしまってるんだけど」
「会うのはいいんだけど。でも、手術って……」

 彼は睫毛を伏せ、俯き加減に言う。

「生まれつき肺が弱くて。この数年で悪化してしまったんだ。手術をして、回復したらすぐに、空気の綺麗な自然の多いところに家族で引っ越す予定。だけど、少し難しい手術なんだ……」
「そう……なんだ」
「だから、お礼を言うのも、君に会うのも手術前が最後のチャンスだったんだ。すごく勝手なことばかりなんだけど、会ってもらえないだろうか」

 しほは少し考えて、頷く。曖昧な記憶を頼りに返事をしていいものではないのかもしれない。けれど、もしもこのことが本当なら、あの時に何があったのかをしほ自身も知りたいし、手術前の子を放っておくという選択をしほは下すことが出来ない。

「うん。私でよかったら、お見舞いに行かせて。手術までに日程が合うかな?」

 すると、彼がまた目を細めて、とても嬉しそうに笑った。

「本当にありがとう。来週の金曜日が手術なんだ。この土日と手術前日は検査で予定が埋まってるから、もう日がないんだけれど」

 そう聞いて、しほは予定を考える。月曜日は一日授業で、火曜日は夜までバイト。となると、空いているのは水曜日だけだ。

「面会時間って何時まで?」
「18時までかな。それで、手術の前日は身体を休めないとダメだから、水曜日の15時から面会謝絶になるんだ」
「どこの病院かな?」
「うちの大学の附属病院だから、すぐそこだよ」

 そう言って彼は自分の大学の方向を指差す。しほの大学からは徒歩10分くらいの距離の有名な大学だ。

「そうなんだ。面会に行けそうなのが水曜日くらいしかないの。それで、午前中は授業だから、午後から少しになりそうなんだけど、大丈夫かな?」
「うん。会ってくれるのなら、それだけで元気づけられると思う。弟にとって、君はヒーローみたいな存在だから」

 ヒーローと聞いて、しほは目を丸くする。

「私が、ヒーロー!?」

 すると、彼は笑って言いなおす。

「女の子だから、ヒロインなのかな? でもこの場合はヒーローでいいような」
「えっ、そういう意味じゃないんだけど……」

 自分が誰かのヒーローだなんて、なんだか

「なんか、くすぐったいなって。照れ臭いというか。でも嬉しいというか」

 しほは満面の笑みで言う。

「ありがとう」
「え? いやいや、こちらの方がありがとう。助けてもらって、さらに面会まで……」

 彼が気まずそうに頭を掻きながら、そうだ、と言って下げていたケーキの手提げを差し出す。

「これ、よかったら貰ってくれないかな?」
「え、弟君と食べるために買ったんじゃないの?」

 すると、少し頬を赤らめて恥ずかしそうに彼は続ける。

「その、実は今日君を見つけたのは偶然なんだ。ここのケーキが美味しいって聞いて来てみたら、君がいて。それで、何もお礼に渡すものを持ってなかったら、君の好きなケーキを咄嗟に聞いて、一か八かでここで待ってたんだ」
「それで私の好きなケーキをくださいって言ってたのね。ふ、あはははは」

 しほはお腹を抱えて笑い出す。

「うん、そうだよね。なんか、自分のバイト先のケーキをお礼に貰ってもってなるよね」
「ちが、違うの。い、今までのことでちょっと警戒しちゃってたから、そのごめんね、新手の嫌がらせか何かなのかと思っちゃって」

 困ったように頭を掻く彼を見て、笑い終えたしほは優しく言う。

「うん。でも、私ここのケーキが一番好きだから、ケーキのお礼ならこれが一番嬉しい。ありがとう」

 ケーキの入った手提げを受け取り、そして、ふと思う。

「でも、本当に私関係なくケーキを買いに来たのなら、やっぱり弟君へのお土産だったんじゃないの?」
「うん、でも面会時間も終わるし、何より、君にお礼を言いたかったんだ。だから、貰ってくれたらそれでいいし、君との面会の機会ができるんだから、弟もケーキよりそっちの方が喜ぶよ」

 それを聞いてしほは受け取ろうか悩むも、やはりケーキは貰うことにした。そして、今手に持っているもう一つのケーキ。長い間待たせてしまったので、本来、保冷剤だけあげようとして購入したものだ。偶然にも同じモンブランケーキを購入しているので、この人にあげてもいい。だけど、この箱の中には店長がくれた洋ナシのタルトなども入っていて、それを誰かに渡すのも違う気がする。

「ねぇ、ちょっと待ってて。あと、これ預かっててくれない?」
「え、う、うん」

 彼が帰ってしまわないように、ケーキを預ける。そして、しほは19時には閉まってしまう星宙パティスリーへともう一度、正面の入り口から入店する。

 数名ほど列を成していて、そっと順番を待つ。

「あら、しほちゃん今日はもうあがったんじゃないの?」
「はい。でも、ちょっと友達にケーキをあげたくて」

 夕方からのパートのおばちゃんが小声で気を遣って聞いてくれる。

「裏口から回っておいでよ。ケーキ確保しておいたげるよ?」

 その優しさに満面の笑みで言う。

「いいんです。友達へのプレゼントだから正規の値段で買いたくて。それにちょっと急ぎで裏口まで回る余裕がなくて。あはは」
「そお? しほちゃんがそう言うなら……」
「はい、ややこしくてすみません。それで、オレンジケーキを二つ」
「わかったわ、オレンジケーキね」

 それらを可愛くラッピングしてもらって、しほは急ぎ店を後にする。

「お待たせ。あの、これ」

 黒に白の文字の入った星のワンポイントの紙袋。この中にしほの好きな淡い緑のリボンでラッピングしてもらったオレンジケーキが入っている。それを彼に差し出して続ける。

「オレンジケーキ。焼き菓子だから、明日までもつと思う」
「でも、これ貰っちゃったらあんまりお礼の意味がないような……」
「うん。いいの。これは私から弟君へのプレゼント」
「……だけど、なんか悪いような」
「もう一度、仲良くなるためのプレゼント。水曜日の約束の証」

 彼はふっと力が抜けたような笑みで、緩く微笑む。

「ありがとう……。それじゃあ、弟に貰っていくよ」

 しほはほっとした様子で頷く。

「水曜日ね、ちょっと用事があるから、15時の面会終了時間にそのまま帰らせてもらうね」
「うん、ごめん。急だったのにありがとう。それで……」

 ふと、彼が視線を上げるので釣られて後ろを振り返ると、ちょうど慌てた様子の店長が店内から出てきた所だった。

「しほちゃん! 大丈夫!?」

 何故、大丈夫と聞かれるんだろう。一瞬、そう思うも、すぐさま先日のことを思い浮かべる。店長、また絡まれてると思って、出てきてくれたんだ。

「あ、大丈夫で……」
「…………」
「…………」

 彼と店長が無言で視線を交わす。そのまま店長が自然な流れでしほの肩に手を置き、しほの後ろに立つ。

「うちの従業員に何か?」
「……いえ」

 すると、彼はコレといって預かってもらっていたケーキの手提げを二つほど渡してしほに無言で微笑むと、店長に向かって深々とお辞儀する。

「先日はすみませんでした。今日はこれで失礼させて頂きます」
「…………」
「えっと」

 そのまま彼は後ろを向いて、歩き始める。そして数歩歩いた後に、振り返って言う。

「忘れてた。水曜日、午前中授業だったよね。お昼ごろ、君の大学に迎えにいくよ。それで、きっとみんな心配すると思うから、友達とか、店長さんとかによかったらついて来てもらって。それじゃあ」
「あ、うん。それじゃあ」
「…………」

 彼の後姿を呆然と見届ける。今度こそ振り返ることなく、彼は行ってしまった。少し、しほの肩に添えられた手に力が加わる。どうしたらいいか分からずに、そのまま突っ立っていると、しほの頭上から声が響く。いつもよりも、ほんの少し低めの店長の声。

「しほちゃん、さっきの子とどこか行くの?」
「あ、はい。ちょっと彼の弟君に用事がありまして」
「ねぇ、それって騙されてたりしてない? 危なくない?」
「え?」
「ちょっと雰囲気変わってるけど、あの男の子、この間しほちゃんのこと追いかけてた子だよ? 気が付かなかった?」
「あ、それは分かってます。それにも理由があって、和解したんです。それで……」

 店長がしほの肩から手を放し、額に手を添えて、深いため息をつきながら言う。

「危機管理能力っていうのを、もう少し身に付けた方がいい」
「危機管理能力……」
「弟君がどうとか言ってたけど、それってしほちゃんが教育学部だから適当に嘘ついた可能性だってあるよね? 本当に和解したって言えるの?」
「……はい、たぶん」

 夏のちびっこ海空キャンプのことを知っている人は少ないし、川に落ちたことも辻褄が合うような気がする。

 俯き、そのまま黙り込むしほを見て、店長がさらに深いため息をつく。

「どうしてこんなことになったのか詳しくは分からないけど、すぐに信用してホイホイついていくのは危ないよ」

 何も言い返せなくって、しほは黙りこくる。何だか店長の顔が見られなくて俯いていると、またさらに深いため息の音を頭上で感じた。

「そもそも昨日みたいに薄着で女の子一人、夜に出歩いたら危ない」
「昨日も?」

 顔をあげると、店長がいつになく険しい顔つきで、こちらを見ていた。いつも優しい弧を描いている眉は少し吊り上がっていて、瞳の奥が明らかに怒っているかのように揺れていて、しほは委縮して息をのむ。

 そして、心の中で言い訳をたくさん考え始める。普段は夜にそんな出歩かないし、確かに適当な恰好だったけれど、まだ21時で飲み会の時なんてもっと遅くなるし、それに何より、コンビニまでは3分で近かったから。だから……

「ねぇ、昨日も俺が家の近くまで送ったけど、それだって危ないからね?」
「どうしてですか?」

 危ないから送ってくれたはずなのに。しほは眉を顰めて悩む。

 すると、店長がさらに顔を険しくして、少し苛立った口調で言う。

「そうなんだろうね。しほちゃんにとっては分からないんだろうね。それはもういいよ」
「…………」
「公園だって、しほちゃんは疑わずにそのままついて来て。一緒にお酒飲んだけど、本当はそもそもついてきたらダメなんだよ。もっと、警戒しなくっちゃ。コンビニで声かけたのが俺じゃなかったら、どうしたの? 俺が怖い人だったらどうするの?」

 ぎゅっと胸が締め付けられて、少し泣きそうになりながら、声を絞り出す。

「……店長は、怖い人じゃありません」
「そういうところなんだ。そういうところなんだよ、もっと警戒心を持って」
「……店長は私がまだ子どもで危ないから、この間も今日も、助けてくれたんですか?」

 そう問うと、店長が傷ついたようなそんな顔をしながら、視線を横に背けて言う。

「そうだね。俺が今話していることの意味が分からないなら、しほちゃんは子どもだね」
「……子ども」

 そのままどちらも何も言わなくって、店に出入りするお客さんにチラチラと何度も見られながら、沈黙の時間が過ぎていく。

 夜になり賑やかになってきた、道を行き交う人たちの声や、車やバイクの音。チカチカと光始めた街灯や至るところのネオンの光。それらが、店長のコックコートの白に反射して、俯いているしほの顔を照らしていく。

「ねぇ、しほちゃん」

 先に声をあげたのは店長で、見上げると酷く寂しそうに目を細めて、無理に笑っている店長と目が合った。

「さっきの子と出掛けるのって水曜日なの?」
「あ」

 まだ時間を決めてないから、店長には事情を話して夕方からにしてもらおうと、思っていたのだ。

「否定しないんだね」
「その、時間はまだ決めてなかったから」
「だから、ちゃんとした約束じゃないと思った?」
「違うんです、夕方からにしてもらおうと思って……」
「はは、そっかぁ」
「すみません、私……」
「ずっと一緒にここで過ごしてきた俺よりも、会ったばかりのさっきの子の方がいい?」

 店長はクシャリとコック帽を外して、店の方を見ながら、しほの方を向かずに言う。

「もうクローズだから店に戻るよ」
「すみません」
「謝らせたい訳じゃないんだ。それで水曜日だけど……」
「はい」
「夕方は次の日の仕込みがあるから、行けない。昼間なら行けるけど……」
「そう……ですか」
「じゃあ、気を付けて帰ってね」

 そのまましほと顔を合わすことなく、店長は店内へと戻ってしまった。ウィンドウ越しにもこちらを振り返ることはなくって、厨房へと姿を消してしまった。

「どうしよう」

 何にどうしようと言ったのか分からないまま、しほは歩き始める。今日の夕飯は、もういいや。特に買い物もせず、真っすぐに家に帰り、テーブルの上にケーキを並べる。

「ケーキがたくさん。萌咲でも誘おうかな」

 そう呟いて、スマホを取り出すも、やっぱりやめた。どのケーキも、誰かと分け合うのではなく、しほ自身が食べないといけないような、そんな気がしたから。

 お皿にひとつひとつのケーキを丁寧に並べてみる。あの男の子がくれたケーキは少しクリームが溶けかけてたけれど、まだ十分に食べられそうで、しほはほっと息をつく。

「あ、紅茶がないんだった」

 茶葉は切らしている。それで、冷蔵庫を開けても、店長に買ってもらったペットボトルの紅茶は飲む気になれなくて、悩んだ末に、棚の片隅にあったほうじ茶を取り出す。

「モンブランには合うかも」

 ついでに、昨日から焼いたまま置いていた、星の形のクッキーもお皿に並べて、一人きりのお茶会を開始する。

 少しクリームの溶けかけた苺のショートケーキに、ゼリーの部分が崩れかけのフルーツケーキ。大きな栗の乗ったモンブランが二つに、大好きな洋ナシタルトが並んで、焼き菓子コーナーには綺麗な形のフィナンシェと明らかに硬そうな星の形のクッキーが。その横には紅茶でもコーヒーでもなく、ほうじ茶が湯気を放っている。

「変なの。変な、お茶会」

 まずは一口、モンブランを食べる。何となく、右側から。

「うん。甘さ控えめなのに濃厚で、いい感じ。栗の薫りが強く残ってて美味しい」

 それで、ほうじ茶を挟んで、次に食べるのもまたモンブラン。次は左側の方。

「ちょっと、柔らかい。さっきの方が店長のだな」

 そう呟いて、しほの頬に涙が伝う。

「はは、変なの。何が店長の方なんだか。どっちのモンブランも……」

 涙が止まらなくなってくる。

「作ったのは、店長なのに」

 いつから、こんなに泣き虫になったんだろうか。大学に入ってから? 先輩にフラれてから?

 そう自分に問いかけて、しほはさらに涙を零しながら当たり前のように、独り言をつぶやく。

「あの星のカケラを作らせてもらったあの時から」

 頬を伝う涙が唇の端について、次のケーキを頬張る時に甘いケーキを涙の味に変えていく。

「甘くて、しょっぱい」

 あの男の子から貰ったケーキも、自分で買ったケーキも、店長がおまけでくれたケーキも全部ぜんぶ、甘くて美味しい。
 なのに、後味がしょっぱくて、涙味になって、身体の中にクリームと甘さが溶け込むと同時に胸が苦しくなる。

 泣きながら、しほは何度も何度も自分に問う。

 もしかして、ヒーローみたいって言われて、調子にのった?
 もしかして、手術するって聞いて、情に流された?

 先日のオレンジは、危なっかしい子どもの私を仕方なく、助けてくれたのかな。
 昨日のコンビニは、女の子扱いじゃなくて、子ども扱いだったのかも。

 涙の味に疲れて、ほうじ茶で口の中をリセットする。次に手に取るのは自分で焼いた、硬くなった星の形のクッキー。

 口に運んで、パキッと音が響くくらいに歯に力を入れてようやく割れて。それを咀嚼して、昨夜の焼きたてのようなホロホロではなく、シャリシャリとした食感を舌に感じる。そこに広がる風味はバターや小麦粉の合わさった旨味ではなく、砂糖の甘みだけ。

「まっず」

 ははは、と笑いながらクッキーを一心不乱に食べていく。

 一番不味いのに、一番安心する。だって、自分の焼いたクッキーは馬鹿らし過ぎて、胸が締め付けられないんだから。

 せめて、この星の形の分だけ、何かの希望に繋がったらな。

「だって、形だけはカケラじゃなくて、ちゃんとした星なんだから」

 流石に食べ過ぎて、食後は気分が悪くなってしまったけれど、決してしほは吐かなかった。全部の甘さを、涙とともに飲み込んだ。

 ああ、どうか星が、迷子の自分を照らしてくれたらな。

 

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