一定のスピードで進むコンクリートの道が色を変えたその瞬間に、それに合わせて車が小刻みに揺れる。
反射的にハンドルを強く握り、素早く瞬きをして、しっかりと周囲を見逃さないように目を見開く。
いつの間にか左右には瑞々しい葉を茂らせた木々が立ち並んでおり、心なし、車越しにもひんやりとした空気が感じられなくもない。
都心部からそこまで離れていないというのに、道を一本逸れるだけで、大きな建物や高層のビルは徐々に姿を消し、現れるのはほんの少し切り開かれた森。
それらは今度開園予定の森林公園として、まだひとっこひとりいない大きなスペースとして君臨した。
その森林公園に見向きもせずに進み続けると、さらに森へと近づくようになっている。
今自分の視界には木々しか映っていないのに、それでも確かに小刻みに揺れながらも進むことのできるこの道は、小さな岩と土で、コンクリートでないにしても車が一台は進めるくらいに整備されている。
「あった……」
視界のその先に、葉の緑に交じり、赤い屋根が微かに映り込む。その屋根がある処から姿を現すのは、木々に溶け込むように建てられた一軒の木のコテージ。
その前方には車一台分くらい停められる整備された土と小さな砂利が敷き詰められた空間があった。
けれどもそこまでは進まずに、きっと誰もこの道は通らないだろうから、コテージからギリギリ見えない、道が広がりつつあるスペースに車を停める。
なるべくそっとドアをしめて、降りてそのままに導かれるように視線をあげていく。
眩いばかりに力いっぱいに日の光が降り注がれているはずなのに、太陽がとても優しく感じられる。耳を澄ませば小鳥の鳴き声がすぐ傍で聞こえ、また別の鳥の鳴き声がどこか遠くの方で響いている。冷たいのにどこか心地の良い風が吹き、それらは挨拶のように自分の頬をそっと撫で、歓迎するかのごとく木々を揺らしていく。
どれだけ上を見上げても、空はしっかりとはみえない。けれども、決して暗さも感じさせはしなかった。
空が見えないくらいに大きな木々がこの辺りを囲んでいるのに、木々の隙間から絶妙な加減で太陽の光があふれているから。
木々が時に強すぎる太陽の光から優しく守り、その温かさだけを優しく届けてくれていた。
「こういうのを……本当の木漏れ日っていうのね」
そっと目をつむり、この優しい空間を味わう。
そして、目を開くと同時にみつめるのは、ほんの少し先にある小さな木の家。
車に比べれば音なんてしないけれど、それでも、なるべく音を立てないようにそっと歩き進める。
目の前の赤い屋根のコテージは、一心に、木漏れ日を浴びていた。
森の中にある人工物であるというのに、それらを感じさせないくらいに馴染んでいて、あたかもずっとその森にあったかのようにその周りを小さな鳥たちが飛び回り、時折、リスのような小動物が動き回るのだ。
「すごい。まるで、このアトリエ自体が木みたいね」
道に面するように大きな窓が取り付けられており、その横に取っ手の部分まで木で作られた扉が取り付けられていた。
「……っつ」
歩き進めるうちに、窓のその向こうに彼の姿を捉える。前髪を器用に木で作ったヘアピンのようなものであげていて。ぐっと力強く上げられた眉に、澄んだように美しい黒目の中に、目の前の木彫りを映らせていた。木彫りと真剣に向き合うその瞳も、瞳の中に映り込む木彫りが反射してみせる光も、鼻の角度から少し厚めの唇まで、その全てが……美しかった。
彼の長い指が、彫刻刀までもが自分の指であるかのようにそれらを滑らせていく。
斜め上の方向にほんの少しずつ長い指の角度を変えながら。
その手の動きはとても優しいのに、定期的に手を止めては木彫りを見つめるその瞳がとても真剣で力強くて。彼が顔を動かすたびに、窓から入り込む木漏れ日が彼を照らしては、時折絶妙に窓に光を反射させ、私にその姿の全てを見せさせない。
彼が普段見せることのないその表情は、一瞬で自分を虜にした。
どんな絵画よりも、どんな彫刻よりも、どんな建造物よりも、彼自身が美しい。
彼の生み出す彫刻は、とんでもない市場価値がある。
精巧で、力強く、それでいてどこか、温かさが感じられるから。
けれどもやはり、彼自身が一番にこの世で価値がある芸術なのだろう。
それは彼が素晴らし彫刻を生み出すからではなく、素晴らしい彫刻を生み出す彼がとても美しいから。
瞬きをせずにその姿を見つめていたいのに、ひどく心臓が締め付けられて、それを許さない。
彼をずっと見ていたらきっと、息が続かないから。
彼をずっと見つめていたらきっと、瞬きを忘れてしまうから。
彼をずっと見続けていたらきっと、時間がどれだけあっても足りないから。
だから仕方なく目をつむって、小さく深呼吸して、自分の音を消して。
彼の忘れ物を木漏れ日のアトリエの扉の前に、置いていく。
ドアノブにかけようとして、それさえもやめたの。
なんだかドアノブであったとしても、彼の世界に触れてはいけない気がして。
「初めて来ちゃった……」
本当はもう一度窓から彼の姿を覗き見たい気もするけれど、それさえもなんだかいけない気がして、ぐっと堪えて車へと戻る。
ジーンズのポケットから車のキーを出そうとして、もう一つの鍵が音を立てずに土の道へと落ちていく。
「…………」
無言でその鍵を拾って、またジーンズのポケットへとしまい込み、振り返ることなくその場を後にする。
本当はもっとこの場にいたいはずなのに、あまりにも彼の姿が自分を惹き込んで、彼の世界に立ち入ってはいけないと思うくらいに自分との違いを気づかせるものだから、一刻も早くここを去りたくなった。
心地の良いひんやりとした空気は、出迎えは手厚いのに、お見送りはあっさり。
ほんの少し慣れた車の揺れは、突然に新鮮さを失い、必然と現実を思い起こさせる。
コンクリートに変わってしまった道を走りだすと、聞かずともナビがしっかりと自分が戻るべき道を教えてくれた。
「仕事まではカフェに寄ろうかな」
都会の空気に馴染みきるため、あえて数センチ窓を開けて、大きな建物や高層ビルが並ぶ車が何台も列を成す道を、騒音をBGMに否応なくゆっくりと進む。
彼は一度アトリエに籠ると、数週間から数か月単位で、次はいつ会えるのかも、何なら町の方へいつ帰ってくるのかさえも、分からない。
彼の彫刻を求めてたくさんの人が連絡をするから、彼はいつもスマホの電源は基本的にきりっぱなし。時折連絡をくれるけれど、あまり気にさせたくないから、なるべく返信もゆっくりと期間をあけて、こちらからは必要以上にしないようにしている。
仕事が終わるとふらっと現れて会いに来てくれるけれど、それを続けることが正しいのか、自信がなかった。彼はあまり多くを語らないから。
例えば、本当はもうずっと、アトリエの方にいたいのかも、とか。
もしかしたら、本当はもうずっと、ここに来るのがしんどいって言えなかったのかも、とか。
この間会いに来てくれた時に私の家に忘れていったのは、小ぶりの彫刻刀のセット。
町の方へと会いに来てくれるときは、シンプルな数日分の着替えの入った荷物と共に、この小ぶりな彫刻刀のセットを必ず彼は持ってくる。
一度休みになると、数日から一週間くらいは私の家で過ごしてくれる。そしてその間も、彼はきっと手元が鈍らないようにだと思う。制作で作るものとは別に、箸置きとか子どもむけのおもちゃとか。木製の小物を作っては誰が作ったかを言わずに寄付したり、小さな町のイベントにこっそりと出品したりしている。
いつ頃休みになるかを言ってくれれば私も休みを合わせたいのに、決して言ってはくれず、突然に現れるか、「今休みなんだけど会える?」と休みに入ってから連絡がくるかの、どちらか。
だから彼が休みであっても、私は仕事へ行かなければならない。
本当の意味で休みが被るのは、一日か二日程度。
日頃ほとんど連絡を取らず、数か月に一度しか会えない時だって、あるっていうのに。
けれどやっぱり、彼にとって彼の作品を作る時間が、彼の生きる時間で。
彼の作品が多くの笑顔を生み出すことを知っているから。
それでやっぱり、私にとって仕事に行くことが、私の生きる時間で。
日々の仕事の繰り返しがどれだけ私の生活を支えているかを知っているから。
だからきっと、これが一番いいのだと、分かっている。
それにきっと、私はたぶん、彼の恋人であったと思うから。
けれど……
「なくなっちゃったな、繋ぐもの」
焦点の定まらない視界の向こうで、たくさんの人が行き交う中、絶対にいるはずのない人の姿を求めて、ぎゅっとポケットの中の鍵を握りしめる。
この鍵は忘れていったの? それとも置いていったの?
いつでも彼が来れるようにと渡した、私の家の合鍵。
彼が望んでくれて作ったものではあったから、言葉の少ない人だったけれど、それを信じていたの。
けれど今日、彼が制作に取り組む姿を目の当たりにして、分からなくなった。
初めてみる表情。
初めて訪れる場所。
それは私が見ていい姿なのだろうか。
ここは私が来ていい場所なのだろうか。
「……アトリエには、誰にも入れたことがないんだ。……集中したくて」
この間にそう言っていた言葉が離れなくて、声をかけることができなかった。
口数の少ない彼の意思表示かもしれないと思うと、鍵を渡す勇気がでなかった。
信じたい想いと、一縷の望みをかけて、彫刻刀だけを届けてみたの。
けれども彼からの連絡はどれだけ待っても、来なかった。