木漏れ日のアトリエ2
あっという間に左右にあるはずの瑞々しい葉を茂らせた木々は離れてしまい、心なし、車越しにもむわっとした生ぬるい空気が感じられなくもない。
自分は地面に足をつけてなどいないのに、勝手に進んでいく道。
森林公園と謳いながら、日に日に木々が削られて出来上がっていく、何もない開かれた広いスペースと化したところを目安に、心を切り替える。
反射的に俯き、素早く意識を無にしてなるべく音と景観が入ってくるのを防ぐのだ。
それなのに小刻みに揺れる車がスムーズに走り出し、知ろうとなんてしていないのに、周りに緑の鮮やかさが失われたことを、勝手に教えてくる。
きっと窓の外を見れば、高層ビルや大きな建物がコンクリートの道を囲んでいるのだろう。全く動かない車の列に、自分が今乗っているこの車も必然的に列を成して、ゆっくりとゆっくりと進むに違いない。
そうなると、きっと、歩いた方がよっぽどに早いというのに。
「……さん! 水無瀬さん!」
すると、無にしていた自分の意識にねじ込まれたのは、見慣れた、使い古された黄色い布袋に入れられた自分の彫刻刀のセット。
「えっ?」
驚いて声漏らしながら顔をあげると、ため息をつく野々村さんと目があった。
「……全く。本当に人の話を聞かない人ですね」
「これ、なんで野々村さんが?」
ぴっちりと七三に分けた黒髪に、髪色と全く同じ色のスーツに、真四角の大きな黒縁の眼鏡。それをカシャカシャとかけなおしながら、野々村さんはわざとらしく息を漏らして、言う。
「……私の説明を聞いてませんでしたね?」
「え? ああ、すみません。それで、コレ……。彼女に会ったんですか?」
自分が彼女の部屋に忘れてきてしまった、彫刻刀のセット。
なぜ、野々村さんが持っているのだろうか。
そこに割り込んでくるのは、がはがはという、威勢のよい笑い声。
「君は本当に、彫刻と彼女のこと以外、興味がないね」
「……はい」
特に上手い嘘もつけずに、そのままに返事をする。威勢のよい笑い声の主は、整えられた白髪に似合う上品な袴を着ていて、運転手兼秘書の野々村さんをわざわざ後部座席に座らせて、自らが運転するちょっとした変わり者。
「だからずっと言ってたじゃないですか。アトリエの前に置いてありましたよって」
野々村さんの声に合わせて、「えっ?」と声を漏らして、ずっと差し出されたままだった彫刻刀の袋を受けとる。
「……持ってきて、くれてた?」
また横でため息が漏れるのが聞こえてきたけれど、そんなことは気にしない。ミラー越しに木村さんが微笑んでるのが見えたような気がしたれど、それは見なかったことにする。
じっとその袋を握りしめて、来てくれた嬉しさと、気づけなかった寂しさを噛み締める。
「……新しくできる森林公園の奥に、アトリエを……移したんだ。一本道だから迷わない……場所。なんか……ゆくゆくはそこに別荘を建てていくらしくって……特別に先に建てさせてもらえたんだ。……赤い屋根のところ……周りが木々で囲まれてて、落ち着くんだ。……木漏れ日が、いい感じで……」
誰にも教えたことのない、場所。
誰も招いたことのない、アトリエ。
誰にも踏み入ってほしくない、領域。
「……そうなんだ。あなただけの特別な場所なのね。木漏れ日か……素敵ね」
「うん……アトリエには、誰も入れたことがないんだ。……集中したくて」
この前の会話を思い返しながら、右ポケットに手を突っ込む。
そこから取り出したのは、ひとつの磨き終えた木彫りのストラップ。
君が好きな、ウサギの、形。
左ポケットには、カメの形の木彫りのストラップのついた、鍵が入れられている。
同じ木から作ったもので、木の模様も含めて、ウサギとカメを繋げるとひとつの絵柄になるんだ。
それでさ、木で作られたものだから、一点もの。
どれだけ同じ模様に彫ったって、カメとかウサギの顔は変わってくるし、何より、木の模様はやっぱりひとつひとつが違うから。
世界にひとつだけの、ペアのストラップなんだ。
誰にも教えてない場所を、君にだけ教えて。
口下手だけど、どれだけ素敵な場所かを力説してみて。
誰も入れたことないけど、君だけはいいんだと、遠回しに伝えてみて。
もし来たいって言ってくれたら、鍵を、渡そうと思ってたんだ。
もしかしたら、会いに来てくれたりしないかなって、場所を伝えて、期待してたんだ。
けれど、どれだけ経っても、君はあまり興味を持ってはくれなくて。
自分から、不便な場所に来てほしいとも、言えなくて。
ストラップをつけることなく、アトリエの合鍵は、机の中の引き出しにしまわれたまま、孤独を募らせる。
君は自分の足で歩かなくとも、いとも簡単に車を操り、電車に乗り、あっという間に消えてしまう。それで、車も電車も乗る必要のない高層ビルの中でさえ、自分の足で臆することなく、歩き回る。
その中でも特に精巧に造られた完璧なビルの中で、たくさんの人に囲まれて。君はその優しい笑顔を、みんなに振り撒くんだ。そう、俺だけでなく、みんなに。全員に、平等に。
普段はふわりと朗らかに笑うのに、たちまち、絵画や彫刻の説明になると、その瞳の奥底に情熱を宿して、美しく微笑みながら、ほんの少し、声色を変える。
彼女がもつ柔らかさはそのままなのに、その高めの声が、ワントーン落ち着いて。表情に妖艶さが加わって。彼女の内から外へと、声と表情が放たれる。情熱的に、愛情深く。
その情熱的な様はまるで、作家が宿ったかのよう。
それなのに、やっぱり、語っているのは彼女なんだ。
ひどく耳に心地のよいその声と話し方は、眠たくなってしまうくらいに安心するのに、しっかりと情熱が籠るから、みんなを夢中にさせて、眠らせてはくれない。
大嫌いな都会へと向かうのは、美術館には行きたいから。
だけど都会は、いつもどこかで騒音がして、落ち着かない。
コンクリートの足ざわりが、滑らかなのにどこまでも硬く、その違和感が自分から何かを奪うかのようで、歩くのが嫌だ。
それで歩けばすぐだというのに、何故か人々は車や電車へと乗って、小さな狭い空間に大勢が身を寄せ合って、移動する。車や電車の移動はコンクリートの足ざわりを感じさせないのに、それ以上に自分の足で歩けないのが、もっともっと、嫌なんだ。
それで嫌いな移動に集中しないとダメなのに、ああ、またどこかで音がする。
いつも人に何かを伝えるのが、どうしても上手く、できない。
どうしてそんなに速く話せるのかが、分からない。
目の前を鳥が羽ばたいているのに、みんな平気で話し続ける。
俺はそっちに目が、いってしまう。
水が美しく滴り落ちる様に日の光があたるのは、一瞬一瞬が違った色味をみせ、いつまででも見てしまえる。
けれど誰もその様を一瞬しかみずに、綺麗だと、言う。
俺にはそれが、理解できない。
みんな仕事がない時間でもずっと、忙しいらしい。
周りの会話の間隔は短くてついていけないけど、この間隔が普通らしい。
俺も景色をみるのに忙しいのに、暇そうだと、言われる。
返事を考えているのに、間隔があきすぎると、意見がないと、見なされる。
別に暇そうと言われるくらい、どうってこと、ないけれど。
別にそこまで強く主張する意見なんてないから、待ってくれなくても、いいけれど。
本当は、全部が、全部、全部、嫌だ。
だけど俺は、コンクリートの道を歩いてしまう。
そこに赴かないと、生きるための仕事や買い物が、できないから。
だけど俺は、電車や車に乗ってしまう。
それに乗らないと、やっぱり、生きるために必要な移動というものが、できないから。
だけど俺は、どうってことないって言いながら、暇そうというレッテルが心の奥底で引っかかってる。
だって必死に、景色を見て、鳥の囀りを聞いて、その感動を五感に焼き付けているのに。
だけど俺は、別にいいと思いながら、たくさんの言葉が腹の中に溜まってる。
だって必死に、頭を動かして、心を動かして、言葉を紡ごうとしていたのに。
だけど何よりも、嫌だと言いながらもそれをしてしまう自分が、もっと嫌だった。
だけどやっぱり、平気だと言いながら、心の奥底で平気ではない自分がいるのが、もっともっと嫌だった。
だから俺は、彫る。
なるべく木に触れていたいから。
だから俺は、彫るんだ。
なるべく森で過ごしていたいから。
だから俺は、彫る。
どれだけ見つめていてもいいから。
だから俺は、彫るんだ。
何も言葉がなくてもいいから。
どうやったら都会に行かなくて済むかをずっと、考えてた。
どうやったら人と関わらなくて済むかをずっと、考えてた。
けれど君と出会って、彫刻だけの自分の世界に、いられなくなってしまった。彫刻だけの自分の世界に、いたくないと思ってしまったんだ。
「この彫刻は新人作家の方のものです」
新人と聞くと、それだけでみんなが一瞬で興味を失っていく。
みんな、そんなもん。
そう思っていたのに、彼女はやっぱり平等に、芸術を語ってくれるんだ。
「こちらの表情を、ご覧ください。この角度からみると、とても寂しそうにも見えるのに、そうです。お客様のそちら斜め左側からご覧ください。今度は嬉しそうにも、見えるんです。そして……」
造った自分よりも冗舌に、それを伝えてくれて。
自分が造ったのではないのに、情熱をもってそれを語ってくれるんだ。
彼女の表情と声につられて、みんなが興味を持ってくれる。
自分の苦手な都会で、自分では逃げてしまうであろう大勢の人の前で、自分の代わりに、伝えてくれる。
この彫刻を造るのに、どれだけのものと見つめあって、どれほどの言葉を詰め込んだかを。
そしてその事実に、彼女はほんの一瞬ではなく、ひたすらに向き合ってくれる。
仕事でほぼ毎日、同じものを観るのに、飽きることなく、彼女は絵画を見て笑う。
仕事でほぼ毎日、同じことを説明するのに、生き生きと、彼女は朗らかに語る。
その様は、動いて見逃すことのできない、たったひとりの芸術だった。
人は絶対に誰かのものにはならない。だって、人だから。
けれども、どうしても、その誰にも手にすることのできない芸術を、手元に置きたいと、願ってしまった。一瞬でも長く、見つめられるように。
動く彼女が、美しい。
話す彼女が、愛おしい。
だからずっと、見ていたいんだ。
だからずっと、聞いていたいんだ。
ああ、君の傍に、いたいんだ。
あれほどまでに行くのが嫌だった都会に、ソワソワとして早く行きたくなった。
君に会えるから。
あれほどまでに人と話すのが嫌だったのに、少しでも多く仕事がしたくて人と会話をするようになった。
君と並びたいから。
だけど、人の忙しいという感覚が、分からないから。
君を真似て、数週間くらい彫刻と向き合って、これくらい働いたら、君に会いに行ってもいいのかなと、君の家を訪れる。
だけど、人との会話の間隔を、間違えたくないから。
君を真似て、これくらいの頻度でなら連絡をとってもいいのかなと、慣れないスマホを操作する。
本当はもっと一緒にいたくて、本当はもっと連絡がとりたい。
だけど、どれくらいが普通の感覚で、どれくらいが適切な間隔かが自分には分からなくて、ただ真似ることしかできない。
君には暇な奴だと思われたくないから。
君には意見のない奴だと思われたくないから。
君だけには勘違いされたくないんだ
君だけにはちゃんと伝えたいんだ。
どうやったら君のように都会に住めるのだろう。
都会から近いあの場所にアトリエを建ててみる。
なんとかして君の横に並んで歩きたい。
彫刻が認められ始めて、食べていけるようになった。
でも、完全に都会には行けない。
でも、これから先も彫刻でやってけるかの保証はない。
だけど、芸術しか、ないんだ。
芸術しかしてこなかったから、他の生き方を、知らない。
あのアトリエが限界で、都会に馴染むことができない。
やっぱり芸術の仕事以外では緊張して、人と上手く話せない。
ぼんやりとストラップを見つめていたら、突然にウサギが動き出して、はっとする。
「水無瀬さんってっば。つきましたよ」
気が付けば野々村さんに肩を揺すられていて、いつの間にか車は駐車場へと停められていた。

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