【読み切り番外編】ナタリーとキースの魔法茶屋~タクとアンジーと雨の日~
数秒ためては、右に、左に。彼女はブルネット色のふわふわとした尻尾を揺らしている。これは構ってほしいの合図。それも、彼女の中でとても嬉しいときのものだ。
「はは、よかったな、アンジー」
「ミャー」
額を撫でると目を瞑り、鼻でちょんとタクの掌を軽くつついて、アンジーが嬉しそうに鳴いた。そうなの、とタクの呼びかけに返事をしたみたいに。
「俺の方が先に恋したはずなのに、アンジーの方が実るのは早そうだ」
けれど、これには慰めに膝にでも乗ってくれるどころか、返事さえなく、アンジーはタクの手をすり抜け、ひょいとソファーの上へと跳び上がる。気まぐれな鳴き声の代わりに聞こえてくるのは、いつの間に降っていたのだろうか、雨粒が地面や建物へとぶつかる音。その雨粒はタクの自宅の窓ガラスへも容赦なくぶつかっては、いくつもの雨粒を残していく。そしてそれらは、まるで涙が伝うかのように、そのうちの一滴が雫となっては垂れ、また次の一滴が雫となって垂れ、ガラスに模様を作っていくのだ。
アンジーはすでに、窓際に設置された専用のクッションに横たわり、寛いだ様子で手を舐めている。自分が上手くいけば、タクの恋の話なんてまるで興味がないらしい。タクが呆れたようにため息をつくと、アンジーは大きな欠伸を返してくる。
「……薄情だな」
アンジーはもう眠る体勢で、タクの呟きに返事をくれるのは、外の雨音だけ。そう言えば、まだ実る見込みのない恋に落ちた日も、こんな風にいつの間にか、雨が降っていた気がする。
あの日のことを思い出し、タクは次に零れ出るはずだった溜息を、ふっと思い出し笑いに変える。
✶✵✶
あれは、近くの幼稚園の子どもたちとの交流授業の日のこと。
「さ、さ、さ、猿」
明らかにタクの方を向き、ニヤリと嫌な笑みを浮かべながら、中央に立つ鬼役が言った。
その言葉を聞き、子どもたちはきょとんとし、他の学生やその場にいた先生たちは明らかに嫌そうな顔をした。
今は遊戯の時間。日本で言う、フルーツバスケットのような遊びをしている。
人数よりも一人分少なくして円形に並べられた椅子。鬼が中央に立って何かお題を言い、それに該当する者が移動していき、最後の一人、座り損ねた者が次の鬼、という遊びだ。
こんなにシンプルなのに、この手の遊びは世界共通で、盛り上がる。現に、子どもたちだけでなく、タクたち大学生もかなり楽しんでいた。
「さるー?」
「ここにはいないよー?」
そんな中で出された『猿』というお題。あれだけ盛り上がっていたのに、子どもたちにとっては訳の分からないお題であり、タクたち他の学生や先生たちにとっては気分の悪くなるお題で、その場が静まり返る。明らかに、空気が悪くなりつつあった。
その一方で、中央に立つ鬼役の友人の何人かが、ついに声を漏らして、噴き出すように笑い出す。顔をみれば全員、よくタクに絡んでくるグループの奴らだった。
またか。
そう思うも、タクは反応に困った。この場にいるほとんどの者が、明らかにこのお題に嫌悪感を抱いてくれている。もちろん、そのお題を言った者から明確な悪意が感じ取れるからだ。
けれど、そのことをこの場で声に出して反論したり怒ってしまっては、その言葉を悪意のあるものとして、タクに向けられた言葉として肯定してしまうことになってしまう。それも、まだ何も知らない純粋な子どもたちの前で。
誰も、何も言うには言えない状況なのだ。
この場を収めるために、自分がお題に該当する者として立つか否か。頭の中で考えを巡らせるも、すぐに答えは出せなかった。
周りの空気に合わせて悲しげに前に出るのも癪だし、怒りながら前に出るのもまた、相手の思う壺で、その言葉を受け入れてしまったかのようになってしまう。何より、まだ理解の追い付かない年齢である子どもたちにこんな形でそれらを見せるのは、何だか違うような気がした。
けれど、反応しなければしないで、奴らの言動はさらにエスカレートしていくだろう。
冗談っぽく、あだ名だと子どもたちに言いながら自分が立とう。
そう思って腰を浮かせた瞬間に、タクよりも先に立ち上がった者がいたのだ。驚いて、反射的に浮かせた腰を再び椅子へと降ろす。
立ち上がったのはちょうど正面にいた女子学生で、そのブルネット色の瞳にはしっかりと意志が定まっていて、瞬きもせずに、堂々と立っている。
「え? お姉ちゃん、猿なの?」
「ええ~、お姉ちゃん、猿じゃないじゃん!」
「あはは、お姉ちゃん、間違えてるぅ!」
ガヤガヤと子どもたちは騒ぎ出し、質問や女子学生が間違えて立ったのだと笑うような声が混じり始める。
彼女はいったい、何て答えるのだろう。
タクはもちろんのこと、子どもたちも他の学生も、先生も、お題を出した鬼役の者でさえも、その女子学生の回答に注目していた。
けれど、彼女は質問をした子どもたちに向けて、そのしっかりと意志の定まったブルネット色の瞳を、今度は優しく揺らしながら、ニコリと微笑んだのだ。
「ほら! みんな立って!」
彼女の反応は、誰もが予想外のもの。全員が訳が分からず固まっているのに、彼女は「ほら、早く!」と手招きをして、強くみんなを呼ぶのである。
「えー? なんで?」
「知ってる? サヘラントロプスとかアウストラロピテクスとか、ホモサピエンスって言ってね、私たち人間は進化してきたの。だから遡ったらご先祖様はみーんな猿なんだよ?」
そう言い切って、彼女はクスクスと楽しそうに笑ったのだ。それをみた子どもたちの何人かも、とても嬉しそうに笑いながら、勢いよく立ち上がる。
「僕、知ってるー。ダーウィンのやつ」
「わ、すごーい! 大正解!」
そんな声に合わせて、他の学生たちも近くの子どもたちの手を引きながら、立ち上がっていく。
「みんな、猿とかチンパンジーから進化したんだぜ?」
「そうなの?」
「ホモピエン……? もう一回言って?」
「ホモサピエンス。ちょっと難しいよね?」
たくさんの呪文のような猿人の種類が飛び交い、楽しげな笑い声が伝染していく。子どもたちにとっては、全員が立ち上がるお題は無条件に楽しかったりする。それがこんな風に新しく知ったことなら、尚のこと。
お題を言い放った鬼役の張本人でさえ、間抜けにポカンと口を開けながら周りにのまれて、慌てて動き出していく。そして、噴き出して笑っていたその友人たちもまた席を立たざるを得ない空気に、戸惑いながらも動き出した。
タクも驚きを隠せないまま、反射的に立ち上がり、その場にいた全員が行き交う中で、空いている席を探して動き回る。
そんな慌ただしい中で、偶然にも最初に立ち上がってくれた彼女との距離が近くなったのだ。
何か、お礼を言わなくては。
そう思うも、せっかくこんな風に空気を戻してくれたのに、お礼を言うのも確かに変で、何をどう言えばいいのかが全くもって分からなかった。
そうしたら、すれ違い様にそっとその彼女がタクに向かって、耳元で誰にも聞こえないように言う。
「その黒のパーカー。あの時、貸してくれてありがとう。直接お礼が言いたかったの」
「え?」
振り返ると、先ほど質問した子どもたちに向けた笑顔と同じように、凛々しい表情を和らげて、フワリと目を細めながら、優しく微笑んでくれたのだ。
その瞬間に、あの子だと分かって、あの時の泣きそうな顔と、立ち上がった時の凛々しい表情と、今まさに見せてくれた優しい笑みが脳内を一気に駆け巡り、タクは思わず立ち止まってしまう。
瞳を揺らしながら、そのまま行ってしまうその子の後ろ姿を見つめる。
ブルネット色の一つに束ねた髪が、駆けていく彼女の動きに合わせて左右に元気よく揺れ動く。
まるで自分の時間が止まったかのように、彼女以外の全てが見えなくなり、何かがタクの記憶と胸にズシリと重く入り込んだ。
途端に、彼女の後ろ姿が、脳裏に焼き付いた。ほんの少し垣間見ただけなのに、彼女の喜怒哀楽が、心に焼き付いた。
急に、息苦しくなったような、そんな気がした。
「あー、次はお兄ちゃんだ」
自由時間に仲良くしていた子どもの声が響いてきて、タクの時間がまたみんなと同じように動き出す。周りを見れば、タク以外の全員が席についていて、彼女の姿に見惚れてしまっているうちに、自分だけが取り残されて、最後の一人となってしまっていたようだ。
自分にとって一番嫌な『猿』というお題で、自分だけが立ち上がるはずが、全員が立ち上がって、それなのに自分が次の鬼となった。
何だかそれが可笑しくて、だけど確かにじわりと胸が温かくなるかのように、嬉しい。
俺は猿で、あの強くて可愛い子も猿で、目の前で笑っている子どもたちも、他の学生たちも先生でさえも、みんな猿。
「ねぇ、今度はなにー?」
そんな声にニヤリと笑って、タクは次のお題を言う。
「……猫が、好きな人」
✵✶✵
ああ、やっぱり、雨の日っていいな。そう思いながら、再び窓の外をみて、一日でも多く、雨の日になりますようにと、心の中でそっとタクは祈る。
あの日から、少し、自分を受け入れられるようになった。
あの日から、君とたくさん話がしたくて、英語を猛勉強している。
あの日から、君に似合う紳士になれるように、マナーを意識し始めた。
いつかお茶に誘いたい。
いつかデートに誘いたい。
いつか君の横に並びたい。
「ミャー!」
まるで喝を入れるかのように、アンジーが少し低めの声で突然に鳴いたのだ。
それに対して、タクはクスクスと笑いながら、すぐに丸まって眠る体勢に戻ったアンジーの頭を撫でる。
「なぁ、シエナも猫が好きなんだって。だから、きっと大丈夫だよな?」
ちょうど課題のグループが一緒になったんだ。俺もアンジーに続けるように、頑張るよ。
世界の子どもシリーズ 毎週土曜AM10時リニューアル更新中!
世界の子どもシリーズ現代編に登場する人物の出会いの物語です。
タクたちにとっては0話に該当するので、初めましての方もこちらからお読みいただいても大丈夫だと思います!
本編ストーリーには直接は関係ない、本当に純粋な番外編となりますので、期間限定でNoに入れず小説・児童文学コーナーで更新しております。
ただ、感情面的な意味では、現代を生きるのならばこその、過去編未来編に合わさるものがあるかなと思い、当時書いた物語になります。
こういうテーマの話はネット上に公開するのは勇気がいると共に、あまりよくないのではないかと悩み、これまでずっと本でのみの番外編にしておりました。
そういう人もいるし、そうでない人もいる。
そういうことは良くないという風潮がある、けれど、そういうことがゼロな訳ではない。
書いた当時からの数年の間にもたくさんの考え方や社会の流れの変化もあり、今であれば、答えを決めつけるとか、本当にそういうのではなく、ひとつの世界の子どもシリーズの番外編の物語として、期間限定で公開させていただけるかなと、更新させてもらいました。
もちろん、黒のパーカーの方の番外編もあります!
こちらも来月くらいにアップできたらいいなと、思っております。
そろそろ、この独り言コーナーもやめようと思っております🌷笑
リニューアルに伴い最新話のこちらでの更新は流石に期間があいてしまうことが予想されるので、これまでお読みいただいていた方に感謝を込めて、数本程、番外編を置かせていただけたらと思います🐈
新しい要素も入れていく予定なので、リニューアル版やその他作品もどうぞよろしくお願いいたします🐚🌼🤖