秘密の地下鉄時刻表

秘密の地下鉄時刻表―世界の子どもシリーズ―No.8_過去編~その手に触れられなくてもep1~

2024年9月28日

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秘密の地下鉄時刻表―世界の子どもシリーズ―No.8_過去編~その手に触れられなくてもep1~

 

こちら津波や災害を連想させる言葉や描写があります。苦手な方は該当シーンを飛ばし読みするなど、何卒、無理してお読みなさらないでください。

 海風が頬を撫で、先ほどよりも潮の香りを強く感じさせる。不思議と風は止んでいて、ただ自分の足取りに合わせて、髪とドレスの裾が揺れ動いていく。
 神殿から市場までは、途中に緩い坂道を挟みながら、折り返しの階段となっている。下へと近づけば近づくほど、市場の人々の驚きに満ちた声が強くなる。その一方で、ゲンヤが解体している別殿の崩れゆく音もより一層音を大きくしていくものだから、全ての音が互いの音でのまれて、何が何の音なのか分からなくなっていく。
 それでも確かに聞こえるのは星の声で、今度は本当に、市場へと向かうことを勧めるものだった。
 星の声は、外側から聞こえてくるのではなく、自分の内側から、意識を集中させると自然と響いてくる。周りが騒音で溢れかえる分、内側から響く星の声はいつもよりもとてもよく聞こえるような気がした。
 市場の方へと完全に下りきると、ちょうど、私が先ほど最後までは下りきらなかった白い扉へと続く階段が、そこにはあった。もう階段の横には彼が寄こした守衛はおろか、主に中立国で回していたからだろう、どこの国の守衛や警備の者の姿も見当たらなかった。
 そのことに胸を撫でおろすも、誰もいない例の部屋へと続く階段への入り口は、どこか寂しさのようなものを与えた。
 私はじっと、見えるはずのない扉をみようと、階段の続く先を見上げてみる。階段の途中からはやはり雲がかかり、太陽の溢れんばかりの光が反射して、階段がどこへ続くのかを地上からみることを許しはしなかった。あの階段は空よりも高い位置で、特別な部屋へと繋がってる。きっと、なんとか魔法を使わずとも呼吸ができるよう、天よりは低く、空よりは高く、けれども宙まで魔法が届く位置なのだ。
 私はここに向けて走るのだと自分自身に言い聞かし、誓うように息を小さく吸って、吐き出した。視線を市場の方へと戻し、重い一歩を踏み出す。この辺りは神殿と、神殿へと続く階段が壁となり影になっている。だからこそ、露店というよりは倉庫代わりに使われている屋台や荷台が多い。だいたい数十メートルくらいだろうか、無人の屋台や台車をいくつか通りすぎると、徐々に影は薄まり、有人の露店が視界に入りこむ。まるでそれが境界線であるかのように、人の姿が見え始めたところで、日光が強く降り注ぎ、私の姿を露わにするのだ。不思議なもので、私はまだ声をあげていないというのに、周りをのみ込む音の半分、市場にいる者たちの声がピタリと止んだのである。かわりに集まるのは視線で、ここにいる者は神殿や例の階段付近へは近づかないから、私がどこから来たのかなんて、知りもしなければ、推測さえしないのだ。ただただ、私が会議から戻ってきたのだと、そう決めつけて疑いもしないのである。無論、先ほどまでの出来事を、会議を途中で無理矢理に切り上げ神殿へと寄り道をしただけだと言えば、彼らの望む通りの答えにはなるのだが。
 私は彼らが望む答えにしてやるために、あえて何も言わず、会議を終えた後と同様に凛と背筋を伸ばし、姫として緊張感のある趣で歩き続ける。そう、私はいつも通りに。
 すると、いつもは私を無視する周りが、いつもと違う上の様子が気になって、自分たちから声をかけてくるのだ。

「お、おい。う、上の方はどうなってるんだ……?」

 ひとたび一人が声をあげると、視線はそのままに、静まり返っていた市場が音で溢れ出す。

「ねえ、会議はどうなったのよ! あの煙は何!?」
「そうよ、ねえ、上からすごい音がするわっ」

 ひとりが私の前へと進路を阻むように立ち塞がると、それに倣うように何人もがあっという間に私の元へと詰め寄ってくるのである。すると、数秒もしないうちに、私の周りはありとあらゆる者の顔で溢れかえっていた。

「おいっ、あれは何だ!? あれも星詠みとやらの影響なのか!?」
「あの音と煙は一体何なの!?」

 もう言葉というよりは音が、あっという間にゲンヤが解体する音を越えて、瞬く間に騒音としてこの空間をのみこんでいく。
 けれど、今回はこれらの音は拾わずともよいのだ。言葉としてちゃんと聞かずとも、彼らに言うことは既に決まっているのだから。
 私は視線だけを動かし、自身の右側に、特に私のことを目の敵にしていた者の顔を見つけ出す。そして、無表情のまま、ただ背筋を伸ばし、数歩ほどの距離をわざわざつめて、彼の瞳をじっと、みつめる。
 すると、まだ何も言っていないのに、勝手に音がやむのである。なんて便利なのであろうか。

「な、何が起こってるんだ?」

 私から言っても何も聞かないのだから、あえてこの者たちから明確に尋ねさせた上で、私は声色を、姫として命令を下すときのそれと全く同じにして、けれども命令もお願いもせず、ただ事実を言う。

「増設中の別殿の柱が折れた。直に崩れるだろう」

 シンと、その場は再び静まり返り、初めてだと言ってもいいくらいに、私の声がちゃんとサンムーンの市場に響き渡ったのだ。視界に映り込む何人かの喉仏だけが小さく動き、息をのんだのがわかった。そして、それらはそのまま数秒ほどの沈黙として続き、徐々に「柱が?」「神殿の?」と言うようなひそひそとした囁き声へと変わっていくのである。

「な、なあ。それで、ここは大丈夫なのか? さっきから煙に紛れて、いろんなものがとんでるようにみえるぞっ」

 ひとりがようやく、私が待ち望む核心につく問いを投げかけたところで、私はあえてその者の方を見ず、星の声を信じ、目の前の男に問い続ける。

「それで、別殿の建築責任者は誰?」

 男は心当たりがあるのだろう、拳を震わせながら、何も言わずに唾を飲みこんだ。そして、いつもの突っかかるような態度が一転、私から視線を反らし、俯き気味に、けれどもとても丁寧に、改まった言葉で静かに口を開くのである。

「私です。ただちょうど、本日から増設工事は中止したところでした」
「ちゃんと自覚はあるのですね?」

 男は静かに頷き、けれども、ある意味で責任感の強い者なのだろう。何かに気づいたように顔をあげると、目を見開き、私に詰め寄るように慌てて問い直すのだ。

「あ、う、上にいる者たちは大丈夫でしょうかっ。誰も間違えて今日工事に行ったりなんて……。ほ、本殿にいる者たちはっ」

 ここで、私は彼を、建築責任者としてではなく、私の言葉を信じる者としてではなく、目に見えて危険だと分かれば命を大切にする者であると、信じることに決める。だから声を姫のトキのままに、少しだけ、女神が微笑むのを真似て、頷く。

「大丈夫です。ゲンヤ・ワタナベが分かりますね? 彼が異変に気付き、崩れ出す直前に本殿にいる者を逃がしてくれました。……彼の見立てでは、このままでは別殿の天井が本殿へと落ち、本殿も崩れる恐れがあるようです。瓦礫がとぶだけでなく、最悪、神殿と市場を繋ぐ通路が崩れ、土砂がこの辺りに雪崩れ込む。……半刻もありません。あちらの道を通り、街の者も連れて、早く崖の上へと逃げなさい」
「は、い。……俺は……くそうっ。ただ仕事を……なんてことだ」
「……あの神殿はとても素晴らしい。どれほどに便利な魔法や、どれほどに発展した魔法科学にもあの手作業で作られた美しさに敵うことはないでしょう。……崩れてしまったものは戻らない。けれど、私はゲンヤ・ワタナベの技術を廃れさせたくはない。再び復興するトキがこれば、必ずムーからも支援を入れましょう。だから、今はまずは逃げなさい。責任を感じるのならば、周りの者たちに声をかけ、避難なさい」

 瞬く間に、周りにいる者が慌てふためいて、叫びながら我先にと逃げ始める。幾人もの身体が私の肩にぶつかり、その痛みが、どこかこれまでの心の痛みを和らげるような気がした。
 都合よく伏せた事実は、この者たちからすれば、後に私たちのついた嘘となるのだろう。とても私は悪いことをしているはずなのに、普段ならば感じる罪悪感を、今日は感じなかった。するとタイミングよく、ここにいる者たちの騒ぐ声を遥かに上回る、とても大きな音が響き渡り、露店の上に巨大な瓦礫がいくつも降り注いでくるのだ。

「きゃああ、逃げないと」
「急げっ、街の方から崖へと続く道を行くんだっ」

 別殿から響き渡る音は、私の嘘を赦し、事実を肯定し、真実を隠してくれるのである。目の前にいる、私と同じように逃げ惑う者にぶつかられながらも立ち竦む男も、ここにいる私も、とても悪い。とても悪い奴なのだ。都合よく事実を伏せ、危険を承知で別殿の解体を命じる私はとても悪い奴。あの別殿は確かに解体をせずとも直に崩れるだろうが、まだ起こっていない未来を確定させ、するとそれは傍からみればこの者の責任になってしまうのだから、私は本当に、悪い。けれど、この者が多くの人々の安全を顧みず、無理矢理に工事を進め、ゲンヤの仕事を奪ったことは許されることではなく、それは悪いこと。この者もまた、悪い奴。それでも、多くの者が神殿に通い、別殿を望んだその声を聞き入れて工事に踏み切ったそのトキ、この男はきっと、別殿の建築を望む者にとって、工事の仕事を欲する者にとって、良いことをしたのだ。良い奴だったのだ。そして、私も今から来る波から逃げ切ったそのトキ、生きていると実感することができた者にとって、それが直接結びつかずとも、私は良いことをして、その瞬間に再び良い奴に変わるのだ。
 私も目の前の者も、良い奴で、悪い奴。誰かにとって良いことをして、誰かにとって悪いことをして、それらを繰り返して、生きている。

「俺は……その……」

 男が何かを言おうとしたのを、私はズルくなることを覚えてしまったから、あえて言わせずに、自分の事実だけを先に言うことにする。

「私は建築士として、ゲンヤ・ワタナベをムーの王命で起用します。彼を起用する責任はもちろん、私が負います。そこから逃げは絶対にしません」

 例えばこの先、未来で真実が伝わることがあったそのトキ、せめて今は事実を言えずとも、私は逃げないとだけ、伝えておけるように。ちゃんと自分のしたことを私も忘れないと、その責任は負うと、覚悟が伝わるように。私は目の前の男の顔をしっかりと覚えこむ。改めて自分は姫であったということ、姫でなくとも自分の責任はひとつひとつの選択に付きまとうのだと、再認識しながら。
 男はぐっと拳を握りながら、頷いて駆けだした。やはり、彼は彼の中での責任感は強いのだろう、ただ逃げるのではなく、周りの者を誘導しながら崖の方へと向かい始めたのだ。
 私はそれを見届けて、人々が減りゆく市場に残ったまま、静かに魔法陣を発動させる。

「我、時計盤に選ばれし次元の管理者也。我が声をこの地の神殿に、神殿に響く声をこの地の市場と街へと繋げ」

 地面へと浮かびがる黄金色の魔法陣の光が、白い舞踏ドレスがまるで黄金であるかのように、反射する。次元魔法は魔力も体力も持っていかれるが、同じ時空内の空間と空間を繋ぐのであれば、さほど難しくはない。ミアが逃げろと叫んだトキと同じように、私は肺いっぱいに息を吸い込み、皆が避難場所を間違えないよう、声を放つ。

「神殿が崩壊するっ。土砂が雪崩落ちる可能性がある! 崖の方へと逃げよっ! 半刻もない。街の方を抜けて、崖の上へ逃げよっ」

 もう誰もいない神殿に、私の声が響き渡る。すばらしい反響効果は、私の声をとてもとても大きくし、そのまま空間を神殿からサンムーンの市場と街へと移し、届けられていく。
 声が響いては、誰かが走り。声を響かせては、誰かを走らせていった。

 そして、足の裏から微かな振動を感じるかどうかの頃合い、魔法陣を閉じ、全力で例の階段へと私自身も走り出すのだ。
 誰もいない市場の露店の机にはそこまで品は残っていない。逃げ惑う人たちがぶつかりあって、既にたくさんの品々を道中に落としていったからだ。僅かに残った品物はきっと揺れているのだろうけれど、隣り合うものがないから、物と物がぶつかる音を響かせはしない。だから余計に、その不気味な予兆は静かで気づきにくいものとなった。
 けれど、星が走れと、叫ぶのだ。本能が、もう振り返ってはいけないと、急かすのだ。
 私はただ全力で、走り続けた。
 ひとたび星の声を聞き洩らし、恐怖に負けて後ろを振り返れば、もう足が震えて動けなくなるに決まっているのだから。

「あ、あ、ああ。あと、ちょっとっ」

 階段が見え始めた所で、足が徐々に安心と焦りでもつれがちになっていく。気を緩めれば、震えで歯がカチカチとなりそうだった。けれど、階段に辿り着けば終わりなのではない。階段をせめて十八段より上へと駆け上らねばならないのだ。いくら階段の入り口に特別な魔法陣があるからといっても、物質的に階段自体が崩壊すれば、全てに意味などなくなってしまうのだから。

 一、二、四、六……七、八、十……

 冷静さを保とうとしているのか、それとも冷静さが損なわれているのか。私は精一杯、段数を数えながら背後の音と忍び寄る気配を無視しようと努めた。それなのに、もう露店の机にはそこまで物がぶつかり合うほど品は残っていなかったというのに、たくさんの陶器が激しく何かにぶつかっては割れるような音から、ミシミシという露店そのものが壊れる音が、どうしても耳に入ってしまうのだ。すると、焦る心がつい、二段飛ばしで階段を上ろうとしてしまうのである。数えていた数字もとうとう分からなくなり、焦れば焦るほどに息があがり、再び一段ずつを上ろうとして、また二段飛ばしで上りたくなり、足が恐怖に負けて震えてしまったのだ。

「きゃっ」

 転倒し、階段から落ちてしまえばもう何もかもが泡となる。さっと血の気が引いて身体が後ろへと傾いたそのトキ、視界に黒いマントの端が映り込む。

「カイネっ」

 しっかりと掴まれた腕は、力強く、上へと、彼の元へと引っ張りあげられていく。私の視界全てが彼の黒いマントで覆われ、目をあけるとちょうど彼の胸元の、アヴァロンの文様の金刺繍が映り込んだ。それは夜に輝く星のようで、遮光マントの中でもとても美しく、光輝いていた。そのまま彼に体重を預け、耳を彼の胸へとあてる。聞こえてくるのは恐怖の音でも、周りの騒音でもなく、彼の鼓動。私はここまで走ってきたのだから身体は熱いはずなのに、恐怖の方が勝ったのか、いつの間にか手から足の指先まで全てが冷え切っていた。だからとても、彼のマントの中は、彼の体温は、本当に、本当に温かく、ひどく心と身体の両方を安心させた。

「ネロっ。ネロっ!」
「本当に馬鹿だなっ。無理するなっ」

 彼の手が私の背に回され、ぎゅっと力いっぱい抱きしめられる。もう既に彼と触れ合う距離であったというのに、さらに二人の距離が無くなっていく。それはじわじわと全身に、喜びを浸透させていくのだ。本当の意味での生きる喜びだと、誰に何を言われようとも、断言できるほどの喜びを。

「ごめんっ、ごめんね」

 彼が私の頭にその頬を乗せ、一つに束ねた髪の先が私の頬を擽る。彼の匂いと、私にはないその力強さが、その鼓動が、声が、その全てが、愛おしいのだ。彼だけが、私を安心させるのである。
 抱きしめる力を緩めたかと思うと、今度は手を私の頬に添え、どこか潤んだ瞳で力なく笑いながら、彼は言うのだ。

「どこも怪我してないか? ごめんな、遅くなって。下手に探し回るより、信じてこの階段で待つのが一番だって、思ったんだ。ひとりで怖い思いさせて、ごめん」

 私は首を振り、ただただ、大好きな琥珀がかった紅の瞳を見つめながら微笑む。そっと、私の頬に触れる彼の手に、自分の手を重ねながら。

「大丈夫。ひとりじゃなかった。みんなが、みんなが助けてくれたの。そうだっ、ゲンヤさんっ」

 そして、はっと気が付いて神殿の方を見上げると、ちょうど空に大きな鳥の翼を持つ女性が、崖の方へと飛んでいくところだった。逆光で翼の色は分からなかったものの、シルエットはしっかりとここからでも分かるものだった。人型の足が四本見えるのだ。身体の影は明らかに二人分あり、けれど、翼の影は一人分しかない。本来、影だけでそれが誰かなど判別はつかないけれど、このサンムーンで今、まさに誰かを抱えて飛行する翼を持つ者は、一人しかいないだろう。

「レリーフさん……よかった」

 すると、微かにネロが声をあげずに咳き込んだのが、触れ合う距離だからこそ、その胸の振動で分かり、私は慌てて彼のズレ落ちてしまっていたフードを被せる。

「ネロっ。大丈夫? ごめんね。それに部屋から出たらっ……!」

 いつもならばこういうトキ、彼はぶすっと怒るのに、今日は素直にフードを被り、ゆるりと微笑んだのである。きっとそれは、それほどまでに日の光が辛いからであり、それだけではない。
 彼は私に、彼の全てをみせることを、どんなトキも傍にいることを許してくれたのだと思う。

「うん、ちゃんとフードを被る。……この四年、何もせずにいた訳じゃない。迎えに行く準備をしてた。星詠みはもうこれ以上、伸ばしようがないから。……時空間を繋ぐ方の力を伸ばしたんだ。切り札は隠しておくものだろ? こっそりムーから連れ去るために練習してたんだ。先にここで使うことになったのもまた、運命かもな。でも、お前のために使えたから、それでいい」

 ただ瞳を揺らし、彼を見つめるしかできなかった。子どもの頃から、とても、とてもズルい男性ひとなのだ。普段は意地悪なくせに、ここぞというトキを違えずにとびきりに優しく、ピンチのトキは必ず見つけて、駆けつけてくれるのだから。
 冷え切っていた身体は十分に温もりを思い出していたものだから、瞬く間に彼の言葉は私を熱くさせた。火照った頬は隠しきることができなくて、いつも自分ばかりがそのままに感情をみせてしまうのが悔しくて恥ずかしかったけれど、彼には敵わなくていいのだと思った。
 頬を赤らめたまま、彼の手をぎゅっと握り、素直に言ってくれのだから、私も隠せない表情そのままに、伝えるのである。

「うん、大好き。どこにいても絶対に迎えに来て、連れ去って」
「竜は愛する者は離さない。どこへだって、向かえに行く」

 彼がそんな風に気持ちを言葉にしてくるのは初めてで、とても嬉しくて、もっと、もっと、今という時間を楽しみたいのに、それをすることが叶わない。それが誰のどんなトキであろうとも、自然というのは無常にも残酷なほどに、全てのものに平等に、その全てをトキに恩恵として、トキに脅威として、与え奪うのだから。
 足にヒンヤリとしたものを感じ、私は慌てて階段を一段程、上るのである。同じくそれに気づいたネロと顔を見合わせ、二人で頷きあう。

「一緒に行くぞ」
「うん。星は私が詠む。だから、他の魔法はお願い」
「……ああ、悪いが星はお前に任せる。他の魔法は任せてくれ。昼でも炎は使い放題だしな」

 後ろを振り返れば、先ほどまで道があったところに、露店があったところに、海が当たり前のようにサンムーン一面を覆いつくしているのである。ひとつの建物として残ったのは、ゲンヤが無事に別殿を解体し終えたからこそ崩壊を免れた、神殿だけだ。そして道という道が無き今、進めるのもまた、私が先ほどに飛び降りた神殿の二階入り口の方向だけなのである。

「森側はエルフ族がみんなを連れて避難してくれた。市場の人たちはお前が、頑張ってくれた。だから俺たちで最後、街の方で逃げ遅れた人がいないかの確認を……」
「……ネロ、みて……」

 神殿は確かに自分たちの横にある。それなのに、原型こそ留めていないものの、ゲンヤが解体した別殿の瓦礫にしては大きすぎる、いくつもの柱が取り付けられた神殿に似た造りの建物の残骸や、私たちの身体の何倍もある彫刻などが、海の中から、否、サンムーンの市場や街があった場所の海面から顔を出しているのである。

「……これは……まさか」
「うわあああああ、おかあさあああああ」

 すると、向こうの方で子どもの泣き声が響き出したのである。二人で頷きあい、神殿の二階入り口の方へと下り、声がする方へと進みだす。もう二人とも魔力がそこまで残ってはいない。この突然に現れた建物の残骸は予想外であったが、魔法で足場を作らずに、それらの屋根をつたって移動できるのは有難かった。

「うわあああああ」
「大丈夫、こっちよ。こっち」

 私が声をかけると、初めてみる見ず知らずの子であったものの、その子は躊躇わずにこちらに抱き着いてきたのだ。ちょうど五、六歳くらいの男の子だった。手にはクマのぬいぐるみを抱え、はぐれてしまったらしい母親の名を呼び、泣き続けているのである。

「助けてくれっ。周りが水没して動けないんだっ」
「こっちも助けてくれーっ。私は魔法が使えない。頼む」

 ちょうど、この男の子が歩いてきた方向から別の声が聞こえてきたのだ。確認をするために、ネロが泣きじゃくる男の子を抱きかかえ、三人で不安定な足場を進んでいく。数十歩くらい進んだあたりで、ようやくに声の主の姿を捉える。自分たちより二回りくらいは上の男性が、二人ほどいたのである。それぞれが何かしらの建物の屋根の上で、それ以上動けなくなり、孤立してしまっているようであった。懸命にこちらに手を振り、必死に助けを求めてくるのだ。

「こっち、こっちだ! こっちも助けてくれっ。足を怪我して動けないんだ!」
「私も助けて! 腕を怪我したのっ!」

 さらにまた彼らとは別の方向。街の海側付近に、数人の逃げ延びたらしいグループもまた、こちらに向かって叫びだしたのだ。その声はどこか苛立っていて、表情は不安でいっぱいそうだった。向こうにいる者たちと比べ足場はそこまで悪くはなさそうであったが、それぞれが足や腕、どこかしらを負傷したらしく、それ以上は自力で動けないみたいなのだ。
 ネロは彼らを交互にみたのち、腰元に下げた懐中時計を開いて時間を確認すると、天を仰ぐ。そして、まずは突然に現れた建物の中でも特に大きなひとつを指差し、この付近の逃げ遅れた者全員に向けて言うのだ。

「……全員助ける。まずはここまでその建物の残骸の屋根を伝って、来てくれ。あとは、これと……これで……足場を補ってくれ」

 ネロは手早く魔法で露店に使われていた木の破片を集め、木製の小舟を作って浮かばせた。少しばかり跳ばねばならないだろうが、小舟があれば何とか、ネロが指示した場所へは怪我をしていない者は辿り着けるだろう。

「おおい、これじゃあ、足りない。もっと魔法で足場を作ってくれっ」
「こっちも頼むっ。これだけじゃあ、届かん」

 けれど、彼らはそれではなかなかに納得しないのだ。あるいは、恐怖心がそうさせるのかもしれない。

「お願いっ。ねえ、怪我をしてるの! そんなところ自力でいけないわ」
「おい、こっちにもその小舟を寄こしてくれ」
「なあ、まずは足を怪我してる俺から助けるのが普通じゃないか?」

 確かに怪我人は小舟で足場を作っても、歩けない者もいるだろう。遠隔で簡易的な治癒魔法を施すか、彼らのいる場所まで行き、肩を貸すなどする必要があるかもしれない。
 どの方面からも、こっちらから助けてほしい、まだ足場が足りない、怪我が痛む。……声が、やまないのである。
 人数で言うと、確かに十人もいないくらいで、多くの者が別殿の解体効果や、先ほどネロが言っていたようにエルフ族が森側で動いてくれたのもあり、無事に崖に辿りつけているように見受けられる。
 ネロは「大丈夫だ、大丈夫」と子どもを宥めながらも、どう動くかを考えているようで、じっと、視線を動かし続けている。
 ネロは決して何も言わないけれど、恐らく、彼にとってサンムーンの太陽の日差しは強すぎるはずだ。炎を出すのならまだしも、他の魔法を使うのはいくら彼であっても身体に負担がかかり過ぎるだろう。この状況下では、そう何度も魔法は使えないのだと思う。かといって私もまた、空間を何度も繋いだ後だ。星詠みを続けるには、残りの魔力や体力を考えると、他の魔法を使うことが、難しい。
 ネロが抱きかかえている子どもは恐怖のあまりに、足をじたばたと動かし、未だ激しく泣き続けている。その子が動く度に、彼のローブがズレて、フードが落ち、容赦なく日の光が彼を襲うのだ。子どもを抱き手が塞がる彼の代わりに私が急ぎローブをかけ直すも、やはり子どもが暴れるので、すぐにローブがまたズレていくのでキリがなかった。

「おおい、早く足場を作ってくれ。魔法があれば何てもできるんだろっ」

 ネロが唸りながらも、まずは怪我をしていない者から移動させることにしたのだろう。いくつかの木片を宙に浮かばせ、小舟をもう一隻作ろうとしたのである。けれど、彼にこれ以上無理をさせたくもなければ、彼に不必要に魔法を使わせてしまえば、私や彼も含め、ここにいる誰も、助からないのが容易に想像できた。
 ネロは恐らく、全員を一か所に集めて、竜になり、皆を背にのせて飛びたいのだ。
 そして間違いなく、ここにいる全員が助かるには、彼の背に乗って飛んで逃げるしか道はないだろう。
 例えばこの場にいる者の中で次の波がくるのを知っているのは私と彼だけだ。けれど、仮にそれをここにいる者たちが知ったとして、知恵や新たな手段が見い出せたとしても、助かろうと思えば全員が空でも飛びさえしなければ、到底、逃げられるものではない。そして、時空間を繋いだままに外を出た彼が、竜の姿を保ち、空を飛べるのはきっと、僅かな時間だけ。彼はそういう計算を怠らないから、飛行可能時間を計算して、まずは全員を一か所に集めることにしたに違いないのだ。
 急いで、全員を一か所に集めたい。けれど、もし二度目の波のことを伝えれば、ここにいる者たちは全員、パニックを起こすだろうし、怯えずに素直に竜の背に乗れるかさえも、正直分からない。
 となれば、全てを伏せて避難のために指示をして動かねばならないのに、やはり……時間がないのだ。急ぎここから逃げなければならないということを伏せて状況を上手く説明することも難しければ、そもそも、説明している時間もないのである。

 どうにか、どうにかしないと。

『ゲンヤの言葉を思い出して』

 考え込んでいると、ふと、星のうちのひとつの声が強く響いたのである。途端に、ネロがちょうど数センチほど浮かせた木片が、視線に止まる。何かが、何かが引っかかるのだ。私はじっとそれを見つめて、その引っかかりの所以を見つけ出す。

「待って。……ダメ。小舟は作らなくていい」
「カイネ? だけどもう、このままじゃ間に合わない」

 そう、私は今日、悪くなることを覚えたのだ。彼の前でそれを出すのはとても怖いけれど、もし誰かにとって良い人であり、誰かにとって悪い人となるのならば、私は彼にとって良い人でありたい。暴れる子どもを抱えながらも、日光に耐える彼にこれ以上の負担をかけさせるのは、誰であっても許さない。
 躊躇うネロの瞳を強く見返し、彼に完全に魔法を使うのを止めさせる。そして、私は視線を少し離れた所にいる、足場がないと騒ぐ者に向け、言ってやるのである。声色を姫のそれと言うよりは、日頃のカイネそのものの声のままに、彼らにとって目に見えて分かるような言葉に置き換えて、必要な事実だけを。

「これ以上あなたたちのために小舟は作れないわ。そことそこを足場に、まずはあなたと彼が合流して。そこから、二人で支え合って、引っ張り合って向こうの屋根まで行くの。さっき、ネロが作った小舟はそっちに流すから。それで向こうまで行って」
「だけどそれじゃあ……ギリギリじゃないか」
「自分たちのことは自分でしなさい。ギリギリでも行ける距離でしょう? 保険のために貴重な全ての木材を使わないで。私たちは確かに魔法が使えるけれど、みて? 今ここにある木片は限られてるのよ。あっちにも、あっちにも、あっちにも助けを求めてる人たちがいる。足場となるものが作れるような材料が足りなさすぎるの。こっちには子どもと向こうには怪我人がいるのよ。早く行って!」
「……そうか。そうだよな」
「おい、一度そっちに向かうから、引っ張ってくれ」

 男たちは納得したようで、私が指示した通り、動き出す。ネロは一瞬程目を丸くし、驚いた素振りをみせたものの、私の意図に気づいてくれたのか、微笑みながら小さく「ありがとう」と言ってくれた。けれど、ネロは笑っているのに、明らかに顔色は悪く、笑みからも苦しさが滲み出ているのだ。時空間を繋いだままにあの部屋を出たのだから、そもそも波がくるまでの二十分がタイムリミットなのではなく、本当はすぐにでも飛び立つ必要があるのではないだろうか。

「……怪我人は私が見てくるから待ってて」
「時間がない。それに治癒魔法はあまり……」
「大丈夫、魔法は無理しないわ。彼らが歩ける程度まで……」

 私が怪我人の元へと行こうとしたそのトキ、さらに海寄りの方で、ずぶ濡れの者が弱々しい声をあげ、こちらに助けを求めているのが視界に入る。

「た、助けて」
「お願い……もう、動けない……」
「……! ええ、ちょっとだけ、待ってて!」

 ネロの方を向くと、彼も同じことを考えているのがその表情から分かった。本当に、このままでは時間が足りない。最悪、私たちはいくつかの選択をしなければならないかもしれない。助かった者が多いのは嬉しい。そしてここにいる全員を、状況的に助ける術はあるというのに、彼の背に全員を乗せて飛んで逃げるという算段はあるのに、そこまで持っていくのが難しいのである。

「ルピード、ルピードっ」

 すると、ひとりの女性が海から顔を出し、ずぶ濡れのままに、叫んだのである。瓦礫の下、海の中から、アトラントの民の顔が伺えた。彼らもこちらに気づいているようで、どうやら海側からも逃げ遅れた人や巻き込まれそうになった者を助けてくれているようであった。
 女性の叫び声に合わせて、ネロが「わ、やめろっ、危ない」と零す頃には、ネロが抱えていた子どもは既に飛び出したのだ。海側から救出された女性がこの子の母親らしく、子どもは足場が海に覆われているなど分からないのだろう。普段の道に水たまりができたくらいにしか、見えていないのかもしれない。あっさりと足場がないところへと飛び出て、落ちてしまったのである。

「いやあ、いやあああ! ルピードっ」
「くそっ」
「私がいくっ」

 勢いよく飛び込んだ海は、冷たさだけが同じで、他はまるでいつもと違って感じられた。確かに周りに見える景色は街中のそれで、けれども普段歩くトキのように足がつかないのである。
 もがき暴れる子どもを何とか抱え、自分の腹に寝そべらせるようにしながら息を吸わせ、泳ぎ進める。
 けれど、特に泳ぎが上手い訳でもなければ、子どもが暴れまわるものだから、私の身体は何度も沈みかけ、その度に無理矢理顔を出し、何とか呼吸をするのを繰り返すのだ。

「おねがっ、あばれないでっ」
「カイネっ!」

 幾度か口いっぱいに海水が入り込んだところで、何とか、手を伸ばしてくれたネロに子どもを預けることに成功する。けれど、子どもを預けるうちに私の方が流されてしまったのだ。
  波はまだ緩い。藻掻きながらも泳げば何とか進めるくらいなのだから。けれど、身体が冷たく、吸い込んだ海水で腹が重く感じられ、ネロがいる方向へと、流れに逆らってまで泳ぐ体力がもう残ってはいなかった。流されている間中、絶えず海水が口の中へと入り込み、口を閉じなければと思うのに、息が苦しくて反射的に口を開いてしまい、思うようにそれができない。頭で分かっていても、大量の海水と引き換えに少量の酸素を取り入れることしかできないのである。けれども、呼吸をやめることさえできず、やはり、酸素を取り入れようとすれば、口を大きく開いてしまい、口を開けば開くほどに、酸素以上に大量の海水が身体に入り込み、呼吸そのものが徐々に成り立たなくなっていく。そしてそれは、体温を奪い、既に落ちていた体力をさらに奪っていった。

「……っつ、う、くっ」

 けれど、不幸中の幸いというのだろうか。突出した柱のようなものを偶然にも掴むことができ、私は必死の思いで、冷えて重くなった身体に鞭打つように、残りの体力の全てを使って、建物の残骸の上へとのぼってみせる。とても、とても長い距離を流されたように感じたけれど、ふとネロの方を確認すると、離れたのは数メートル程度のようであった。けれど、彼と私の間には海水と、数個分の建物の残骸があり、すぐには合流できないであろうことが、伺えた。

「カイネっ! カイネっ!」
「はあ……は、ネ、ロ……。大丈夫」
「くそっ、カイネ」

 子どもが泣き喚き、母親が絶えず、お礼を言っては子どもの名を呼び続けるのである。怪我人が助けを呼び、さらに向こうで海から救出された者が、動けないと、私たちを呼ぶのである。そんな中で、先ほど指示した男性たちは何とか合流し、崖側の大きな建物の屋根へと辿り着いたようであった。そのことで余裕ができたのか、そのうちの一人が、私の方を見ながら叫ぶのである。

「お嬢ちゃん、危ないっ!」
「え?」

 けれど、私はその声で、どうにか直撃を免れたのだ。私がたった今乗り上げた残骸は特に脆かったらしい。二階建ての建物の、二階部分の柱だろうか、それがこちらに向かって倒れてきたのだ。そのひとつをネロが炎で弾き飛ばしてくれたけれど、もう、間に合わない。
 ひとつ、ふたつと避ける度に、さらに次の柱が倒れ、彫刻の一部が降り落ちてくるのである。

 ああ、星が、嘆きながらに何かを言っている。

『海に、海にあるんだ。それを……』

 けれど、星が全てを伝えきる前に、とうとう、足場が崩れ、私の身体は再び海の中へと落ちていくのである。

「危ないっ、くそっ!」
「はっ、……はっ」

 私は何とか身体を浮かせるも、顔を海面から出すことが精一杯で、もう一度どこかの建物の上へとあがろうとするも、身体が言うことを聞かないのだ。体力も魔力もほとんど残っていなければ、何かが、私が陸へと出ようとするのを阻むのである。
 それでも諦めきれない。なんとか足を動かし続けていると、自身の周りの海水はほんのりと赤く染まりだし、足にズキリと鈍い痛みを走らせていくのである。

「うあっ、あ、はっ」
「カイネっ!」

 彼が器用にまだ足場の残る箇所を跳んでこちらへと来ようとするのが、海の中からも見て取れた。けれど、この辺りの残骸は特に脆いのだろう。彼が歩く度に、どこかが崩れていくのだ。ここは、彼にとって一番に、命の危険が伴う環境と条件が揃ってしまっている。

 走ると共にローブがめくれ、彼に日光が襲い掛かる。
 炎と水は相性が悪いから、決して、決して彼は海に浸かってはいけない。
 ああ、それから、彼があの部屋から離れて、どれくらいの時間が経過した?
 そして、波。穏やかでも私が僅かな距離でも流されてしまうくらいに動いているのだから、やはり羅針盤のみせた未来は、嘘ではないのだ。
 きっと、次の波がくるまで、もう五分もないだろう。

 ああ、星よ。私と彼には、あとどれくらいの時間が残されている?

「……ネロ……」

 だから私は最期、本当にとてもとても、悪い奴になる覚悟を決める。
 海の温度で震えているのか、自分が怖くて震えているのか。
 上手く動かない唇で、もう星の声を聞く力さえ残っていない中。
 残された魔力の全てを使い、あるひとつの魔法陣を発動させる。

 ……本当に、ごめんなさい。

「我……カイネの名において……血の契約を行使……せん。ハミルの召喚を……命ず……」

 彼らの力を考えれば、呼んでも絶対に来なくてはならない訳ではないのに、まるで待っていたかのように、魔法陣発動とほぼ同時に、よく知った魔法族のひとりが現れる。
 彼は血の契約をした式典のトキから会っていないままに、変わらない褐色がかった肌とブラウンの瞳で、泣き笑いのような、悲しさと安心したような表情をみせたのだ。

「……カイネ様……よく……召喚してくださいました……」
「もう二度目の波がくる……。足が柱に挟まって、動けない。……ネロと、ここにいる人を……助けられるだけ、そのまま……連れて行って。彼は私を置いては動けない。……だから、お願い……。これで……血の契約も、解除よ」

 その魔法使いは頬に一筋の涙を流しながら、首を振った。この人数は無理という意味かと思い、私は残酷にも、せめてネロをと、言おうとしたそのトキ、ハミルの者は、しっかりと私の目を見返して、言い切るのである。

「カイネ様……どれほどのトキが経とうとも……カイネ様がアヴァロンに戻られるまで……血の契約は解除いたしません。……多重召喚魔法。ブラウンよ、ネロ様の元へ……」

 私とネロの間には数個の白い建物の壊れゆく残骸が。その中のひとつに、アヴァロン特有の真っ赤な魔法陣が新たに組み敷かれたかと思うと、さらにひとりの魔法族が、現れる。フードを被っており、こちらから顔はよく見えないものの、ハミルの召喚魔法を聞いて、すぐに誰だかわかった。

「ネロ様……無礼を承知で……血の契約を交わさせていただきます」

 既にそのつもりで用意していたのだろう、彼はこの地に召喚されるや否や、躊躇うことなく、魔法玉を確実に狙える槍のように変形させ、ネロの頬に掠めさせたのだ。

「おい、ダメだっ。もう俺は連れて帰らないでくれ。カイネと一緒に……一秒でも長く……いさせてくれ」
「あ、うあっ、ごめ、ごめんね」

 彼の言葉というよりも、その叫び方があまりにも悲痛で、とても胸を切なくさせるのに、それが悲痛であればあるほど、私は彼の愛を感じてしまい、やはり、言ってしまうのだ。

「ネロを、連れて帰って」

 ブラウンの者は確かに、私の声に反応してくれたと思う。顔を合わさぬまま、頷いてくれたのが、この位置からでも見えたから。
 ネロの血の一滴が地面へと落ちた瞬間に、彼は再び新たな魔法陣を発動させるのだ。

「特殊契約代理魔法、開錠。アヴァロンへ繋げ」
「やめろっ、嫌だっ」

 彼の叫びに合わせて、とても寂しそうに、けれどもどこか怒るようにブラウンの者は言うのだ。

「私たちも嫌ですよ。主君を見捨てるなんて。あの扉に鍵をかけて、ご自分だけ来られるなんて、あんまりです」

 次の瞬間には、空が一面、赤や紫、緑と、鮮やかに染まっていたのだ。とてもくっきりとしたその色色いろいろは、この海の中からでも見失わないくらいに目立ち、それなのにどこか優しいのである。

「カイネっ、カイネっ!」
「……っつ、ああ……」

 私は、美しい光景を見た。
 きっと永遠に、このトキの空の色は忘れないだろう。

 私は今日、何度、天使に救われただろうか。天と空の間に繋がれし特別な部屋の、特別な白い扉から、何人もの鳥族が、アヴァロンから飛んできては、私の愛しい人や逃げ遅れた人たちを、空へと逃がしてくれるのだ。
 この地に、この海に落とすのは悲しさではなく、とても美しい色鮮やかな何色もの羽。遠目からみてそれが、同じ赤でも、同じ青でも。ひとつひとつが、その翼を持つ者だけの色であり、同じものはひとつとして、ないのだ。
 彼らがネロを連れて戻ってくれるから、私はもう、眠っても大丈夫。
 何とか保とうとしていた意識が途絶え出し、ゆっくりと誰かが私の足を柱と柱の間から器用に海の中へと引っ張っていくのだ。

「カイネ様を……頼みます」

 最後に聞こえてきたのは、ハミルの声。それと遠くの空から愛しい人が、私の名を、叫んでいる。

「カイネっ、カイネっつ。うあわあああああああああ!」

 最後にみた空がこれほどにも美しいのは、あなたがいる世界で、誰かの優しさに触れ、愛を感じたからだ。
 世界はきっと、私が思うよりも、美しい。
 過去も、今も、未来も。

 あなたと共にいる世界であれば、たくさんの優しさや愛は、美しさとして私の目に映るのだろう。

 沈みゆく海の中で、私は同じくちていく、女神像の姿を横目に見た。
 初めてサンムーンで神殿というものを見たトキ、まずはその建築技術に見惚れたのはもちろんのこと、祈る場所だということが、とても素敵だと思ったのだ。
 私はムーの姫として、儀式の度に、誰かの幸せを願い、舞う。そして、星々に、天に、宇宙に、祈る。
 けれど、この神殿という場所では自分が祈りたいトキに、自由に祈ってもよいらしいのだ。たとえそれが願いであっても、誰かを想う、祈りであっても。ただ自分が信じるものを信じて、好きに願い、好きに祈ってもよいらしいのだ。姫であろうが、鳥族であろうが、エルフ族であろうが、魔法が使えても、使えなくても、誰であっても。
 私は切実に、夜の神殿へと通い、願い、祈った。
 そして、これを建てた地上世界からの迷い人、ゲンヤは言ったのである。地上世界では私たちのように魔法が使える者のことを神と呼び、敬い、崇めるのだと。導き、願いを叶える存在ものとして。

 ああ、それなら熱心に神殿に通い、願い、祈っていた魔法の使える私は一体どちらなのか――……。
 神に導かれる者か、神として導く者か。

 答えはきっと、泡の中。

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 かつて地球という惑星が誕生したそのとき、宇宙中が歓喜に沸いた。何億年ぶりか分からない、生命体の誕生した惑星であったからだ。
 それだけでなく、全てにおいて地球は特別であった。
 この地球という惑星では、どの星の生命体も、体質に関わらず普通に呼吸をし、ありのままの状態で過ごすことができたのだ。
 そのため、違う星同士の者が共存する場所として、この地球を宇宙中の拠点とする話が持ち上がったのである。
 それが地球を導き発展させながら見守る箱庭プロジェクト。
 宇宙中の全ての星々と言ってもいい国が、このプロジェクトの参加に名乗りをあげた。

 まずはエジプトを拠点に、他の中小国と協力してムーがユーラシア・アフリカ大陸を中心に発達を促した。
 次にヨーロッパを中心に、アヴァロンが芸術や天文学が発達するように地球でいう中世に時間を繋ぎ、人間を導いた。
 そして、日本を含む海域を中心としたアジアエリアをレムリアが、オーストラリア大陸をアトラントの民が、アメリカ大陸を中心としたエリアを後のアトランティスが、人間を導き地球が発展するように尽忠した。

 そのプロジェクトは順調に進み、多くの星々の者が、体質に関係なく交流を楽しみ、人間と地球を愛し、この豊かな惑星の成長を見守り続けたのだ。
 ひとつ厄介なことがあったとすれば、この地球で誕生した生命体、人間は不思議な力を一切使うことができないということだった。
 最初のうちは、それらも問題はなかった。
 けれど、人間が成長するにつれ、宇宙から導くためにやってきた者たちと自分たちとの違いに気づき、異変が起こるのである。
 ある者は不思議な力を持つ者たちを敬い、ある者は畏れ、ある者は嫉妬し、ある者は憎むようになったのだ。
 そこで、地球の発展のためにもこれ以上人間を恐れさせないようにと、アヴァロンとムーの王が動くこととなる。
 時間と次元を繋ぎ、地球の地下空間にミラーのように連動する新たな世界を作ったのだ。
 そして、宇宙中で条約が結ばれる。
 魔法といった不思議な力は今後、地球の地上世界では使わないこと。
 一部の事情を知る人間以外には、自分たちの正体を明かさないこと。
 さらには、その条約が破られることのないよう、アヴァロンとムーの王が、地下世界と地上世界の間に、魔法といった力が一切使えなくなる特殊な魔方陣を敷いた上で、この二つの時空間を繋いだのである。

 こうして、地球にはことわりの違う宇宙で繋がる地上世界と地下世界の二つが誕生した。

 この地下世界ではアヴァロンとムーの王が特別な扉を繋いだため、宇宙中の星々の者が、今までと同じようにありのままの状態で、自由に行き来できるようになった。そして、皆がこの地下世界で時間と次元を超えて、種族の垣根を越えて、その交流を楽しみ、地球は地下・地上共に目まぐるしい発展を遂げていったのだ。地上世界は人間たちの住む惑星として、地下世界は宇宙中の者が共存する中立都市、サンムーンとして。

 それらは、宇宙全体に大きな平和をもたらそうとしていた。
 地球という惑星を中心に、とても穏やかで愛のある時間が、地上世界だけでなく、地下世界にも流れていたのだ。
 けれどもそれらも、たったひとつの、魔法が使えても尚、避けられない事象が、あっという間に平和な愛と時間の流れを飲み干していくのである。魔法族のある者が星を詠み、予知したのだ。大波が、くることを。

 予知を聞き、地上世界でそれぞれの大陸を導く王たちは、不思議な力の使えない人間たちではこの大波から逃れるのは難しいと判断し、何年もかけて安全なエリアに移住させたうえで、甚大な被害が予想されるエリアを大陸ごと地下世界へと隠した。
 けれども、それだけでは被害を抑えることはできなかったのだ。
 なぜなら、地上世界と地下世界はミラーとなり、連動しているからだ。
 そして、その大波の原因となる震源地が、海底火山であったことも災いしたのかもしれない。地下世界では、地上世界以上の大波にのまれることが予知されていた。それらの被害から逃れるために、せっかく発展したサンムーンから撤退を余儀なくされてしまったのだ。宇宙中の多くの者が、自分たちの星へと戻るよう宇宙会議で取り決められ、渋々、それに従った。けれど、一部の者たちはそれらを聞き入れることをしなかった、もしくは、できなかったのだ。
 ある者は、波の予知を信じずに、この地で過ごすと。
 ある者は、この地で生まれ、体質がどこの星にも合わず、行き場がないと。
 ある者は、時間と次元を超えて、この地でしか育めない愛を貫くと、言うのである。
 自国の星へ帰る者、サンムーンに残る者、どこも選べない者、どこの星も選びたくない者。
 誰も、何も、どの選択も間違ってなど、いないのだ。
 そこに愛があれば。

 そこで行われたのが、最も波の被害が大きく自国の星へと帰ることのできないアトランティスとレムリアを中心とした会議である。そこに同じく参加したのは、星詠みのできる姫と王子のいる時間を繋ぐアヴァロンと、次元を繋ぐムー。
 その会議のことを、不思議な力をもつ宇宙の者たちは、四大国会議と呼ぶ。そして、不思議な力をもつ宇宙からやってきた導き手のことを、地球の地上世界に住まう人間たちは神と呼んだ。

 これは人間たちから神と呼ばれ、類稀なる才と力をもつ大人になりゆく子どもたちが、生きる場所を決めようとしたトキに起きた、悲劇の物語――……。

 

秘密の地下鉄時刻表―世界の子どもシリーズ―

過去編

~その手に触れられなくても~

 

 

あのトキの空 / The lost sky

 

私は美しい光景を見た。

This beautiful sky will remind me to love the world,forever.

世界はきっと、私が思うより、美しい。

We live in this beautiful world, with beautiful words, for beautiful works.

 

 

秘密の地下鉄時刻表―世界の子どもシリーズ―No.9

 

その手に触れられなくてもep2

 

 

はるのぽこ
お知らせ

✷タイトルコールが終ったので、episode2より三人称で進んでいきます。
この度、絵本の出版が決まりました!この冬発売予定になります⛄発売日が近づきましたら、改めてお知らせさせていただけたらと思います♪念願の出版なので、とても嬉しいです♡ホームページで報告するのならば、どうしても、このずっと書きたかった物語であるその手に触れられなくてものタイトルコールのepisodeがよかったので、ものすごく頑張って書き、先駆けてお知らせさせていただきました!発売予定の絵本は、絵と文の両方を書かせて頂いた作品になります!たくさんの方の手に届き、お楽しみいただける何かに繋げられるよう、心を込めて頑張っております📚どうぞ温かな応援をよろしくお願いいたします<(_ _)>

 

※HPは毎週土曜日、朝10時更新中🐚🌼🤖

秘密の地下鉄時刻表―世界の子どもシリーズ―更新日
第1・第3土曜日

先読みは「秘密の地下鉄時刻表―世界の子どもシリーズ―_星を詠む」より🚇

 

 

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