魔法茶屋通信No.1~夢の中の約束―彼と私と夢の中―~
これは迷える人の夢の中。
虚ろな目をした目の前の男性を森の中へと誘う。そして、その人が森の中で穏やかな笑みを浮かべたのを確認して、私はそっと、その人と入れ替わる。何故だか分からないけれど、ここに来なければいけないような、そんな気がしたの。
入れ替わったその人の部屋はとてもシンプルで、布団以外、何もない。唯一あるのは小さな冷蔵庫だけ。そんな畳の小さな部屋のど真ん中に布団を敷いて、彼は丸まって眠っている。
「どうか、幸せな夢がみられますように」
そう呟いて、そっとその部屋から一歩出る。
部屋の外にはベージュの廊下が続いていて、等間隔で同じような緑色の扉が並んでいる。ぼんやりとその廊下に立っていると、これまた同じような鼠色の作業服を着ている何人もの男性たちが、誰も一言もしゃべらずに一斉にそれぞれの緑の扉へと入っていった。そのうちの数人とすれ違ったけれど、誰も私には気が付かない。
「噂って本当だったのね。人間には私たちの姿って、見えないんだわ!」
何だか面白くって、その後も、どこかから帰ってきたのであろう、同じ作業服を着た男性たちの目の前をわざとクルクル回ったりしては、気づかれないことにふふっと声をあげて笑う。
「面白いわ! 本当にちっとも気が付かない!」
そして、一拍遅れて、背の高い細身の男性が、一人で歩いてくる。
ポケットに手を突っ込んで、足を引きずるようにスタスタと歩くその人が、すれ違い様に一瞬こちらを向いたような、そんな気がした。
「…………」
けれど、多分、偶然こちらの方を向いただけ。その人の前髪は長めで、あまり瞳が見えなくて、目が合ったとかそういうのではないと思うから。だけど、あまりにも前髪が長いものだから、どうやって前をみているのか、少し心配になる。茶色がかった猫っ毛のその髪はパーマがかっていて、目元は見えないけれど、何となく雰囲気はオシャレ。
その人は先ほど、私が入れ替わった迷い人の玄関の前で立ち止まり、何を言うでもなくただ扉を見つめている。
「ルームメイトかしら」
余計に気になってしまって、扉の前に立ち尽くすその人の傍に寄ってみる。数分くらい、黙ってその扉の前に立ち尽くしているものだから、ちょっとだけ表情まで気になっちゃって、彼の斜め前でしゃがみこむ。
もしかしたら、下からなら、その前髪の奥の瞳が見えるかもしれないと思って。
だけど、絶妙な加減で前髪が影になって、やっぱりその人の顔は分からなかった。けれど、何を言うでもなく、彼はポケットの中から一本の缶コーヒーを取り出して、それを玄関の前へと置き、スタスタと横の扉へと入っていく。
「……友達かしら」
そうして、はたと気づく。迷い人が完全にあちらへと移ってしまったようだから、人間に私の姿は見えないけれど、私の実体も既にこちらへと移ってしまっている。もう、壁をすり抜けることができない。
「……彼の家にお邪魔しましょう」
そうして、そのまま扉が閉まるギリギリの所で慌ててその男性の家へと潜り込む。
「ふぅうー。危機一髪。知らない土地でウロウロはしたくないのよね」
それで興味本位で部屋の中を見渡してみる。入れ変わった迷い人と同じような小さな畳の部屋だけれども、この男性の部屋の方が、幾分、生活感があった。
小さな木の四角いテーブルに、部屋の隅にある冷蔵庫。机の上も綺麗に片付けられていて、きっときっちりとした性格の人なのだろうな、というのが窺える。その向こう、窓際には白いベッドと、グレーのカーテン。その窓ぶちにはいくつかの花が植えられていた。
外はすっかりと暗くなっており、閉め切った窓に自分の姿が映る。栗色の胸元あたりまである髪に、白い膝丈のノースリーブのワンピースを着た自分の姿が。それで、また、はたと気づく。
「あれ? 小さくなってない」
窓に映っている自分の姿は、確かに普段通り、向こうでいる時のサイズなのだ。
妖精は、夢の中で、迷える人間と入れ替わる。けれど、妖精は自然と表裏一体。そういった不思議な力は自然の力を取り入れることで使えるので、自然の少ない人間たちの世界ではサイズを小さくして省エネモードで訪れなければ、自分を保てない。
「おっかしいなー。なんでだろう」
そう呟いて、ふと窓際に咲く花に視線が行き、息を呑む。
「ゼフィランサス……」
私が好きな花だ。それが、とても綺麗に、咲いている。
「綺麗。とても大切に育てられているのね」
きっと、この花の宿主は、先ほどの男性は、とても優しいのだろう。
自然の少ないところでは、妖精たちはなかなか力を発揮できない。
けれど、稀に、とても気が合う人とだけ、こうやってリンクすることがある。例えば、それらが例え一凛であったとしても、愛情をかけて育てられた大切な花であったりすれば。
「迷い人は隣の人だけれど、このゼフィランサスに引っ張られてきたのね」
ふっと笑みを漏らし、その花を見つめる。とても、居心地の良い場所だ。そして、またはたと気づく。目を凝らしてみると、窓の外にはいくつもの工場が並んでいて、それで、自然が全くないのだ。
「私、この花の周りから離れられないじゃない」
うーんと唸り、数分考えた後、諦める。
「うん、まぁ、いいわ。何とかなるでしょう。迷い人が目覚めれば、向こうで休めるしね」
そして、見えないのをいいことに、この男性のベッドにゴロリと寝そべり、花を見つめる。
うつ伏せになり、頬杖をつき、ベッドの上で足を交互に動かして、鼻歌を歌う。
さて、何をして過ごそうかなぁ。
そんなことを思っていたら、頭上に視線を感じて、ふと見上げると先ほどの男性がベッドの前に突っ立っていた。
フワリとシャンプーの匂いが漂い、部屋に入ったはずなのにずっといなかったのは、お風呂に入っていたからだと気づく。
「…………」
「…………」
お風呂上りだからか、あの長かった前髪はあげられていて、真っ黒なその瞳を今度こそちゃんと見ることができた。それが嬉しくて、ニコリと笑う。
とっても、綺麗な瞳。色がって言うか、その瞳の奥に宿る意志が、とても綺麗。やっぱり、この人はとても優しい人。
彼が眠るのならば、ベッドを空けようと思ったけれど、まだ眠らないのか、そのままベッドの前に座りこんで、ペラペラと雑誌のようなものを捲ったり、何かを念入りにメモしたり。
テレビもないし、とっても静かで、それで彼は独り言さえ呟かない。だから、ちょっと退屈で、彼のその頭にふっと息を吹きかけてみる。
ビクリと一瞬肩を浮かせたような気がしたけど、特に振り向くでもなく、正面を向いたまま彼はひたすらに雑誌を見ている。
あーあ。ちょっとだけ、退屈かも。悪戯しても気づかないタイプかぁ。
稀に勘が鋭い人とかは、慌てて振り向いたりして、だけどそこに何もないから首を傾げたりとか、面白い反応してくれるんだけどなぁ。
だから次はその耳元にふっと息を吹きかけてみたけれど、今度はビクリとも肩を動かすこともなくって、だから、ちょっとだけ調子にのって、彼の髪に触れてみる。
「ふふ。本当に柔らかい髪。猫みたーい」
クスクスと笑って、そうしたら、ちょっとだけ、眠たくなってきて。
またベッドにゴロリと横になる。
そして天井を見上げたまま、脚をパタパタと動かしてたら、だんだんと意識が遠のいてきて。
「うーん」
いつの間にか熟睡してしまっていたようだ。寝返りを打って、ゴロンとベッドから落ちて気づく。部屋の電気はすっかりと消されていて、布団が自分の身体にかかっていることを。
「あれ? あの人、眠らないのかな?」
そうしたら、玄関横すぐの小さな空間の方に灯りが付いていて、何だか気になって、そこを覗いてみる。
「くしょん」
濡れていたのを拭いたのだろうか。大量のバスタオルが洗濯機の前に積み上げられていて、それで、空のお風呂場の小さな浴槽の中で、その男性は目を瞑って横になっていた。
背が高いから、脚とかはかなりはみ出ていて、その長い脚を壁にかけている。それで、何も布団を被っていないから、少し寒そうで、身体に巻き付けるようにして腕を組んでいる。
「初めて知ったわ。最近の人って、ベッドじゃなくて、お風呂場で眠るのね……」
それがとても不思議で、浴槽のふちに頬杖をついて、じっとそこで寒そうに目を瞑る男性を観察してみる。
「…………」
「…………」
上下真っ黒のパジャマを着ていて、その色を見ていて思う。もう一度、この人の瞳をみてみたいな、なんて。
そのままもうしばらく見つめていたら、彼の鼻先がヒクヒクと動いて、小さく唸った声が耳に入ってきた。
「……寝にくい……かも」
そりゃそうよねぇ。それだけ背が高くて、それで布団も被ってなかったら、寒いし寝にくいと思うわ。
「うーん、どうしようかな」
身体のサイズは何故か向こうと同じサイズを保てているけど、ここは全く自然がないから、私、あんまり力使えないのよねぇ。
「ベッドまで運んであげたいけど、ちょっと難しいわ。こんなところで寝たらダメよ? あら? やっぱり、最近の人はこれが普通なのかしら」
そう呟きながら、ゼフィランサスの花のエネルギーをすっと身体に取り込んで、布団をフワリと浮かばせると、寒そうに腕を組んでいる彼にそっと被せる。
「おやすみなさい。どうか、幸せな夢がみられますように」
微笑みながらそう言って、私はそのままベッドを借りることにした。少し、息が乱れる。
やっぱり、自然がないところで力を使うのはよくないなぁ。
「ごめんね、もう少しだけ、傍にいさせてね」
ゼフィランサスに語りかける。その真っ白な花弁に月光があたり、暗い部屋の中でもほんのりとその白が浮かび上がる。その様子が、いいよと言ってくれているみたいで、少し安心する。そのままベッドに座りこむ形で、窓ぶちに頬杖を突き、窓の外を見つめる。
きっと、朝日が差し込めば、あの迷い人は夢から目覚めて、私は元の世界に戻るのだろう。
「ふふ、またね」
そうして、少しずつ薄くなってきて、私は自分の世界に戻った。
もう迷わないようにね。
❁
「あら? まただわ」
もうここに来ることはない。そう思っていたのに、私はまた同じ人と入れ替わってしまったのだ。
「確かに、一日二日じゃ悩みなんて解決しないわよね」
それでも、こうやって妖精と入れ替わるくらいに悩む人は多いようで、少なかったりもする。私たち妖精は本当に悩み迷う人とこうして入れ替わる代わりに、少しでも心安らぐような夢の時間を提供する。自然に囲まれたり、会いたかった人に夢の中で偶然、出会えるように導いたり。それだけで、心が軽くなる時もあるから。
「そっかぁ。それにしても、また私かぁ。何でこんなに引っ張られるんだろう」
ただ、入れ替えは妖精の気まぐれであったり、ランダムであったりする。それなのに、何故かまた自分が呼ばれてしまった。
部屋にいる迷い人は、何もない畳のど真ん中で布団に丸まって眠っている。
またウロチョロするのもな、と思い、今日はこの部屋で過ごすことに決める。けれど、程なくして、チャイムの音が響き渡る。
入れ替わっている迷い人は深く眠っていて、それに気づくことなく、布団から出ることはない。
「うーん、そうねぇ」
代わりという訳ではないけれど、私はその来客を確認しようと、スルリと壁をすり抜ける。
そうしたら、また、昨日の男性がいて、すり抜けた瞬間に、彼がこちらを向いたようなそんな気がした。もうお風呂上りではないから、あの綺麗な黒い瞳は前髪で隠されてしまっているけれど。
男性は再び玄関の方を見つめ、ポケットから缶コーヒーを取り出すと、それをまた玄関の前へと置いて、自分の部屋へと足を引きずるようにスタスタと歩いて戻っていく。
ふとその缶コーヒーの置いてある所をみると、昨日彼が置いたものもそのままで、二本の缶コーヒーがポツリと並べられていた。
「……心配ね」
そう呟いて、まだ実体も完全に移っていない状態だったものだから、壁をすり抜けて戻ろうとしたその時。
「いったーーーい」
壁からはじき出された。
「なんでーーー!?」
一瞬で、実体がこちらへと引っ張られてしまったようだ。部屋の中に入るに入れなくなり、途方に暮れる。隣人の彼がこちらを振り向いたような気もしたけれど、そのままパタリと玄関が閉められてしまい、今日は時間を潰す場所の確保に失敗してしまった。
「この辺、自然もないしなぁ」
大きな溜息をつき、仕方がなく廊下の隅にしゃがみ込んで、誰か人が通りかかるのを待つ。
もし誰か帰ってきたら、そうしたら、また昨日みたいにお邪魔しようっと。
実体があるのに、目に見えないって、想像以上に大変なことだったんだな、と改めて痛感する。
数十分くらい座り込んでいたけれど、誰も帰ってくる様子はなくって、ちょっと悲しくなって俯く。
別に寒さとか暑さとかは平気だし、困らないんだけど、でもやっぱりな。ちょっとだけ、寂しいかも。それで、ちょっただけ、いや、かなり退屈だな。
そう思って、膝を抱え込んで顔を埋めていたら、すぐ傍でガチャリと玄関の開く音がする。
顔を上げたら、それは昨日の男性で、どこかに出かけるのかと思ったら、玄関を半開きくらいにして、それをストッパーで止めると、また部屋の中へと戻ってしまった。
数分くらい様子を覗っていたけれど、男性は特に出てこない。今ならば、勝手にまた潜り込むことができる。けれど、いくら姿が見えないといっても、昨日もお邪魔してしまったしどうしようかな、と悩んで躊躇っていたら、またその男性が玄関の所に顔を出す。
一瞬、こちらを見たような気がしたけれど、すぐに視線を戻して、今度は扉を全開にして、ストッパーで止めると、また部屋へと戻ってしまった。
「どうしよう」
扉が全開の男性の家をチラチラと見ながら、その付近をウロウロと行ったり来たり。
部屋の中の男性は、またベッドの前に座り込み、雑誌をペラペラと捲って読んでいた。
その男性の奥のゼフィランサスが風に揺れたような気がして、それがまるで、おいでと言っているような気がして、だから、思い切って一歩踏み込んでみる。
「お、お邪魔しまーす」
声が聞こえる訳でもないし、そもそも自分の姿が見える訳でもないし、こんなことを言っても仕方がないのだけれど、一言、そう口にしてみて、彼の家の中へと上がりこむ。
何となく、昨日のようにベッドを占領するのは気が引けて、ちょこんと彼の座っている斜め向かいの位置に机を囲む形で腰掛ける。チラリと彼の方を向くと、またお風呂上りだから、前髪を上げていて、その優しい黒い瞳と目があった。
そうしたら、その慈しみに溢れた視線のまま、ゆるりと口角を上げて微笑んで、彼は立ち上がると玄関をそっと閉めた。
そして、彼はまた同じ場所に戻ってきて腰掛けると、黙ったまま、雑誌を捲ったり、熱心にメモをとったりして、過ごす。ちょっとだけ退屈で、どうしようかな、なんて思ってたら、少しだけ雑誌をこちらに傾けてくれて、それが私の視界にも入り込む。
私にはよく分らない内容だったけれど、時折、綺麗な絵画や写真が載せられていて、そういうページはとてもゆっくり捲ってくれるから、すごく見やすくて、何だか私までとても楽しい気分になった。
それらを読み終わると、彼は電気を消し、お風呂場の方へと向かう。
その場に残されて、どうしようかな、と考えていて、ふと思う。
私が入れ替わっている迷い人は普通に布団で眠ってたしなぁ、なんて。
だから、あんまり覗き見とかよくないと思うんだけど、でももうシャンプーの香りも漂わせて、パジャマに着替えてたから、きっとお風呂自体は終わってるはずだから、大丈夫だと思うんだ。
意を決して、お風呂場を覗き込むと、そこにはまた空の浴槽からはみ出た長い脚を壁にかけて、布団をかけずに腕を組んで目を瞑る彼がいた。
「……布団は着た方が……」
そう呟きながら私がまた力を使おうとしたその時、躊躇いがちな声が響く。
「……布団は……きっと……女の子が使う方が、いい」
「え?」
「……きっと……無理せずに……眠る方がいい……か、も」
驚いて、彼の方に近づくとやっぱり目は瞑ったままで、鼻をヒクヒクと動かしていて、眠ったフリを続けている。
たちまち、胸がじわりと温かくなって、もう少し近くで彼を観察してみたくなって、浴槽のふちに頬杖をつき、その横顔を見つめる。
「……寝にくい……かも……」
そうしたら、昨日と同じような声が響いてきたものだから、クスっと笑って、確信めいて話しかける。
「うん。ベッドで眠ろう?」
いよいよ諦めたのだろうか、彼が溜息をつきながら、その優しい瞳をこちらに向けて言う。
「女の子が使う方がいいよ」
「私は眠らないし」
「いや、昨日普通にめちゃくちゃ寝てたし」
「昨日はたまたまよ。今日は眠らないわ」
「いや、そもそも女の子と一緒の空間ではちょっと……」
「大丈夫よ。私、女の子じゃなくて、妖精だし」
何だか会話が嬉しくて、笑みが溢れてくる。
「……そういう問題じゃない気がする」
「大丈夫よ? 幽霊とはちょっと違うから、眠ってる間に悪戯なんてしないわ」
じとっと疑う目で彼が見てくるものだから、はたと気づく。そういえばと、昨日のことを思い出して、だから、慌ててわざとらしく微笑んで、付け加えてみる。
「わ、悪い悪戯はしないわ。眠ってる人に酷いことなんて、しないわ。あはは」
彼は少し戸惑い気味に、言う。
「……でも、君の眠る場所がない。だから……」
「私は、帰ってから眠るから大丈夫よ。その代わりに、あの雑誌を貸して? とても綺麗だったわ」
「……うん、いいよ。確かに今忙しいから、ベッドで眠れるのは有難い」
「そうなんだ? 忙しいのに、ごめんね? 昨日はありがとう」
「……うん」
そして、ゆっくりと心を込めて、言う。
「今日も、本当にありがとう」
「……う、ん」
少し照れたように、彼が視線を逸らして返事をする。その横顔がどこまでも優しくて、何だか脳裏に焼きついた。
それで、彼が躊躇いがちにベッドへと潜り込み、そして、そのまま横にいようとしたら、寝にくいと言うものだから仕方なく、お風呂場の方で雑誌を眺めるフリをして、浴槽で彼のマネをしてみる。
「あんなに熱心に見てるのに、雑誌が濡れちゃったら大変だしね」
ふふっと笑いながら、自分も寝そべってみるけれど、彼のように背は高くないから、別に脚はそこまではみでない。
別に寒さなんて感じないのだけど、彼のマネをして腕を組んでみるけれど、様にならない。
「あはは。なんか、面白い。すごく、楽しい」
しばらくしたら、静かな寝息が響いて来て、しめしめとまた彼の眠るベッドの傍へと戻る。普通に眠っているけれど、時折、眉間に皺を寄せて唸るものだから、そっと額に触れて、その皺を伸ばす。
「そんな顔したらダメだよ?」
そしたら落ち着いたのか、また、彼の顔が穏やかになっていき、静かな寝息が響きだす。
彼の猫っ毛なパーマがかった髪を撫でて、なるべく優しい声で、言う。
「おやすみなさい。どうか、幸せな夢が見られますように」
そのまま彼の横顔を眺めていたら、やっぱり私まで眠たくなっちゃって、ベッドに顔を預けて、座った状態のまま、うたた寝をしてしまった。
朝日が差し込んだその時、「うわっ」っていう彼の驚く声と共に目が覚めて、笑顔で言う。
「おはよう」
「……眠らないって、言ってたのに……お、おはよう」
「あはは。戻ってから、ゆっくり眠るから、大丈夫」
「そういう問題じゃ、ないんだけど」
朝日の逆光の中で動く彼の横顔はとても美しくて、優しい黒の瞳が寝起きだと、ちょっと細くなってて。その背後に美しく咲くゼフィランサスが神々しくその白を放っていた。
段々と私の身体が薄くなっていき、また笑顔で言う。
「あ、それじゃあ、またね。元気でね」
「……うん……」
ちょっと寂し気なその横顔が、また脳裏に焼きついた。
❁
「……どうしようかな」
また入れ替わってしまった、布団に蹲る迷い人を見つめながらも、ソワソワとしてしまう。この人は悩んでいるのだから、こんな風に思ってはいけないのに、つい、昨日の彼に会いたくなってしまうのだ。
だけど、やっぱり、何だかいけないことをしているような気がして、この迷い人のシンプルな部屋を一周してみる。
部屋には食事をした形跡はなくって、栄養剤と書かれたゼリーの袋がゴミ箱に捨てられていた。三分の一ほど残ったお茶もキッチンの方には置かれていて、水分もとっていることにほっと胸を撫でおろす。
「今日こそは、ここにいるわ」
そう呟いたものの、やっぱり昨日と同じようにチャイムが鳴って、つい、壁をすり抜けてしまった。
そうしたら、また彼がいて、無言のまま、玄関に立ち尽くし、缶コーヒーを置いていく。これで三本目。一本も動かされることなく、それらが並んでいる。
その様子を切ない想いで見ていたら、彼はポケットに手を突っ込んだまま、足を引きずるようにしてスタスタと自分の家へと戻っていく。
だから、私も迷い人の部屋に戻ろうと思って、身体を動かす。今日は昨日の反省を活かして、上半身しかすり抜けてないから、ちゃんと戻れるはず。
スルリと壁から戻ろうとしたら、突然、腕を掴まれる。
「わ、触れた」
「え?」
そのまま、引っ張られるように壁から出ると、自分の部屋に戻ったはずの彼が、目の前にいた。
「……なんで、今日は来ないの?」
前髪がまた下ろされていて、その瞳は見えないのに、絶対に私のことを見てくれているって、そう感じてしまう。だから、つい、返事をしてしまう。
「……やっぱり、行く」
そしたら、彼の口元がゆるりと動いて、微笑んでくれたのが分かった。
いつの間にか実体も完全に移ってきてしまっていて、それを言い訳に、私は堂々とまた玄関から、彼の家を訪れてしまった。
彼が躊躇いがちにお風呂に行くからと言って、その間、雑誌を借りてそれを眺める。そうしたらいつもは外で食べてくるけど、今日はここで食事をするんだ、なんて言うから、私は食べられないけど、お喋りしながらその様子を眺める。なんだか、それだけでも一緒に食事をした気分になって、胸がまたじわりと温かくなった。
「ねぇ、どれが一番好きなの?」
「……これかな」
「じゃあ、何をメモしているの?」
「……恥ずかしいから、内緒」
彼の好きなものを聞く。
彼の好きなことを聞く。
照れながらも、それを教えてくれて。
恥ずかしいからと、それを教えてくれない。
全部が楽しい。
全部が面白い。
「君は、どこから来たの?」
「……夢の中から」
「君は、どこに帰るの?」
「……夢の中へ」
彼が私のことを聞いてくれる。
彼に私のことを聞いてほしい。
言いたいのに、それを言うことが出来ない。
言えないのに、それを言いたくて堪らない。
全部が苦しい。
全部が切ない。
妖精の秘密は誰にも話しちゃいけないの。
私の鼻歌を聞いて、彼が微笑む。
私の歌を聞いて、彼が手拍子してくれる。
私が踊るのを見て、彼が戸惑いながら、手をとってくれる。
それで毎晩、お風呂場で眠ろうとする彼を止めて、ベッドで眠らせる。
それから、彼が寝静まったら眉間に皺を寄せて唸る彼の額に触れて、その皺を伸ばす。
それで毎夜、彼の猫っ毛なパーマがかった髪を撫でる。
それから、言うの。なるべく優しい声で。
「おやすみなさい。どうか、幸せな夢が見られますように」
そのまま彼の横顔をじっと眺めて、やっぱり私まで眠たくなってくるから、ベッドに顔を預けて、座ったままうたた寝をする。
目が覚めた時に、彼の横顔がすぐに映りこむ、この位置で。
それで、彼のちょっと怒った声で目を覚まして、その姿を脳裏に焼き付ける。
朝日が差し込んで、逆光の中に揺れ動くゼフィランサスと彼の横顔を。
それで、お互いに「おはよう」と言って、微笑み合う。
そして、じわりと温かくなるこの瞬間と感情を、胸の奥底に刻む。
その優しい黒の瞳が、寝起きは少し細くなってしまうのが、愛おしい。
その猫っ毛なパーマがかった茶色い髪が、朝だけ少し跳ねているのが、愛おしい。
きっと、私は恋をしている。
本当は、私は帰りたくない。
だって、彼をひとりにしたくない。
いいえ、私がひとりになりたくない。
だけど、いつ戻るか分からないから、だから、この朝の光景をしつこいくらいに脳裏に焼き付けて、肝心な言葉は口に出さずに、おやすみとおはようを繰り返すの。
その優しい黒の瞳を少しでも多く見つめて。
その美しい横顔を少しでも多く眺めて。
❁
そんな日々が一カ月くらい続いたある日、彼は一枚の紙きれを私に見せて、言う。
「今日、動くんだ」
「どこに?」
彼がぐっと喉を詰まらせて、俯いて、拳を握る。
「今から、あいつを起こしに行く」
それを聞いて、何となく悟る。
「そう、よかった」
睫毛を伏せ、微笑みながら、私は彼に嘘をついた。
本当は嬉しくない。
喜ばないといけないはずなのに、悲しさが先にきてしまうの。
彼は誰かの為に動ける、とてもすごい人。
だからこそ、彼のことが好きなのに、だからこそ、胸が苦しくなる。
「……でも、そうしたら、君は……」
彼がそう言うのを、それ以上は聞けなくて、私はまた嘘をつく。
「大丈夫よ。私はゼフィランサスの花の精。あなたが私の花を咲かせてくれたら、いつだって会えるんだもの」
「え? ……本当に?」
いいえ、嘘よ。私は花の精だけど、ゼフィランサスは関係ないの。
それは、ただ好きな花なだけ。だけど、私はそのまま嘘を重ねる。
「もちろんよ。横の家の人が、ちょっと心配だっただけ。妖精は、素敵な夢を提供するお仕事があるの。仕事終わりに、あなたの家に遊びに行かせてもらってただけよ」
「……う、ん。そっか、なら、いいんだ」
少し戸惑いながら、彼が息をつく。だから、私はそっと微笑む。今度は自分の心を隠すために。
迷い人の迷いがなくなるのは、良いことなのに、それ以上にあなたに会えなくなることが悲しくなってしまっている、自分のこの醜い心をあなたに知られないように。
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
「うん。行ってくる。今日は明け方に戻るから、会うなら明日の夜かな?」
「そうね。約束ね」
そう言って、彼を見送った。
一緒に過ごす日々の中で、私は彼の話をたくさん聞いたの。
もちろん、彼の今の状況も。
彼は劣悪な環境で働いていた。彼だけでなく、私と入れ替わりの迷い人も。夜遅くまでの無償での残業。統率する上の者から浴びせられる罵倒。寮だからこそ、隠蔽されてしまうこれらの扱い。けれど、仕事を失ってしまうと、生きていけない、この弱み。
それら全てに立ち向かおうと、迷い人は仲間と共に立ち上がったのだとか。私が愛してしまった彼と共に。
けれども、仲間の誰かが、裏切ってそれらをリークしてしまったのだ。やっぱり、職を失うのが怖いと。
その責任を迷い人は一人で背負い、間もなく、無理矢理退職させられるのだったそうだ。それでも、残った仲間でこれらの状況証拠を集めて、然るべきところへと訴えかけたらしい。それらが、ようやく動くのだとか。今夜、抜き打ちのチェックが、入るのだとか。今度は本当に従業員全員で、動くのだとか。
彼が通った迷い人の玄関の前には、沢山の缶コーヒーが並べられていた。それらは1ケース分にはなっていたかもしれない。
そうしたら、いつの間にか缶コーヒーだけじゃなくて、他の人がお茶を一緒に置くようになって、そうしたら、いつの間にか他の人が飲み物だけじゃなくて、お菓子も置くようになって。
そうなると、扉がついに開けにくくなって、そうなると、もう皆の声を遮ることができなくなったんだよね。
少し騒がしい声が向こうの方で響いて来て、それらが心地よい。
妖精の私の方が、彼らを応援しなければいけないのに、癒さなければいけない筈なのに、私は何もできなかったし、自分のことばっかりで、この一カ月、何もしていない。
彼らに私は必要ではなかったし、私が夢で癒さなくても、彼らは自らの足で立ち向かっていけたのだ。
「私だけが、ダメなやつ」
少しずつ、身体が薄くなっていく。
「入れ替わったのが、こんな私でごめんね」
あの人と一緒にいる時間を、私は自分だけが楽しんでしまった。
「一緒に過ごしたのが、こんな私でごめんね」
あなたはとても、優しくて、美しいのに、私だけが自分勝手で、最低だった。
最後の夜を、彼のベッドで寝そべって、過ごす。日が差し込む前、真夜中に、私は自分のいるべき場所に戻った。
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