死神のホワイトチョコレート1―ソ―
シンプルな黒い絨毯質の床に、黒い壁。上を見上げれば、確かに天井もあり、天井の色も壁と同じ黒。部屋のようになっているというのに、この空間には扉、所謂、入り口と呼ばれるようなものはない。ここはあまりにも全てが黒を基調として作られているから、不気味さがでないよう、きっちりと清掃し、清潔感が保たれるようにしている。灯りも怖さが演出されないよう、温かというよりは純粋に明るさを追及して昼白色を選んでいる。あとは何にも引っ張られる必要がないよう、一切の物を置かないというのを徹底している。
唯一置かれているのは、シンプルなベニヤ板で作られた長テーブルと、パイプ椅子。だいだい、この空間に辿り着いた人からみて右壁側にひっそりと配置している。
ここは一応、特別な駅の改札。
何の前触れもなく、この改札を通る必要がある者は突然、この場所に辿り着くようになっている。
「な、なんだ……ここ」
今日もひとり、乗車予定者がこの駅へとやってきた。
日によって乗客が多い日もあれば、全くいない日もある。
今日の最初の乗客は男性で、駅へ辿り着いても尚、戸惑いがあるらしい。あたりをキョロキョロと見渡して、ほら、俺の姿も認識できるようになったみたいだ。目が、あった。
男性は明確に俺の方を見据えたまま、けれどもきっと、ためらいがまだあるんだ。それが表れた足取りで、ゆっくりと、少しずつこちらへと近づいてくるのだ。
男性客に合わせて特に立ち上がるでもなく、俺はいつも通り、乗車予定者と長机一個分の距離を挟んだまま、パイプ椅子に腰かけ続ける。
最低でも絶対に長机一つ分の距離を保つのが、大切だと……思うから。
俺は今日も、この特別な駅で働く。
ちょっと憂鬱に、なりながら――……。
「お、おい」
「大丈夫。怖くないですよ。行先に間違いはないですか?」
「な、なんだよ、お前」
「……案内をする者です」
みんな、何の前触れもなくここにくるけれど、ここへと来たら、自然とその全てを悟るようになっている。
ここへと来る前にちゃんと無意識でも服を選んで、自分だけの乗車切符を手に持って、自らでここに来ているのだから。
男性は、じっとこちらをみて、いつの間にか自分がしっかりと握っていたらしい手元の切符に目をやる。
「……俺は、死んだのか?」
「……そうですね、そうとも言うかもしれません」
小さくそう答えると、男性はみるみる表情を変えていくのだ。不審そうに寄せられていた強く寄せられ、明確に吊り上がっていくのだ。俺に向けての一歩に迷いがなくなり、大股で最後の距離と詰めると、バンっと机を叩くのを合図に、叫び出すのだ。
「な、なんなんだよ。お前は。俺は! 俺はまだ、しなくちゃいけないことが、たくさんあったんだ!!!!」
こんなことには慣れっこ。
俺は決して立ち上がりはしなかったから、ちゃんと必要な距離、長机一つ分は保たれたままだ。パイプ椅子に腰かけているので、必然的に男性がこちらを見下ろすような形となる。下からみればさらに迫力を増して、それこそ鬼の形相というやつ。表情に負けないくらいの荒く低い声が、こちらが何も反応を見せずとも、勝手に続いていく。
「絶対に嫌だからなっ! ふざけるなよっ!?」
けれど、どれほどに怒られようが、俺のすることは変わらない。その乗車切符をきり、乗車時間まで、待合室へと案内すること。
乗るか乗らないかを決めるのは、俺でもなければ、乗車客でもない。
俺は案内、彼らは乗ることが決まっていて、あとはもう、互いに行き先を確認し、間違いがないようにするだけなのだ。
「気持ちが落ち着くまで、待合室にいてください」
「ああん!?」
「あなたの……楽しかった想い出は何ですか?」
「は!? 急になんだよっ!」
「一番嬉しかったことは? 一番、楽しかったことは?」
「なんでそんなこと今言わなきゃいけないんだよ!!」
こういうのにも、慣れっこ。
男性の意識が自分へと向き、前のめりになった瞬間に殴られるより前にすばやく手元の切符を取り上げるに限るのだ。
「あ、おいっ」
「……発車時刻は、っと……」
切符に記された行き先の列車の発車時刻まではあまり余裕はない。
行き先によってはかなりの待ち時間がある場合もあるが、大抵が数十分、長くても一時間といったところだ。
別に数十分でも問題はないのだが、こうやって騒ぎ出すと、発車時刻までの待合室への案内が、とても短くなってしまう。
そうなると、説明するのが面倒なので、発車時刻が迫っていると一律して言うようにしている。
「もう時間がない。少し、記憶をみさせてもらいますね」
そして、男性の乗車切符に意識を映し、彼にとって一番嬉しかったこと、楽しかったことをぼんやりと視て、小さく頷く。
「……お綺麗な、娘さんですね」
そう言うと、また表情を崩し、五十代半ばくらいの、深く額に皺が刻まれた、少し強面のその人は、子どものように声をあげて泣き出す。
「あ、ああああああ。くそおお……あああああ。……本当は、分かってたんだ。働き過ぎだって、よく言われてて……それで、倒れて……」
「はい。あなたはとても優秀な方だった……」
「ああ、ああ。もう、あいつの結婚式には、出られないのか」
男性が無意識に選んで着てきた服は、上質な生地のモーニング。ちゃんと、手袋や小物まで、忘れずに身に着けているのだ。
そんなフォーマルな装いであるのを厭わず、彼はその場に膝をつき、顔を俯けて、尚も声を漏らしながら、泣くのである。
本当はこの場に来たら自然と、どの人も状況を悟るようになっているから、発車時刻までの時間を騒ぐ方が損なのを、心の奥底で理解しているのだ。
特にこの男性は仕事熱心であっただけあり、感情も豊であるが、効率よく動くことも沁み込んでいるのだろう。
ほら、部屋の奥にひとつ、待合室が現れた。
「さぁ、あちらへどうぞ。あなたのための、時間です」
俺はすぐに乗車切符をきり、それを彼に渡した。
男性は小さく頷いてそれを受け取ると、そっと、俺の背後、部屋の奥へと現れた、男性の名前の書かれたプラカードがかけられている待合室へと向かっていく。
待合室の中は小さなシアターになっていて、一番嬉しかったこと、一番楽しかったこと、一番感動したこと。それぞれのその人だけの幸せだった時の想い出がそこで上映される。
ここは最期を迎えた人が乗車する列車の来る、特別な駅。
そしてその乗車までの時間、それぞれの待合室で、走馬灯をみるのだ。生涯のご褒美として。
色んな記憶があるけれど、基本的に、幸せな記憶で走馬灯は構成するようにしている。ここに来た時点で、心配事はあったとしても、未練なんて本当はないはずなのだから。
けれど時々、タイミングが悪いとどうしても今日の男性のように分かっていても、分かりたくないという人が、戸惑ったり暴れたりする。
だから、なるべく幸せな時の記憶を引き出して、俺は導く。できることなら、しっかりと走馬灯をみて、心安らかな気持ちで、次の行先へと乗車してほしいから。
男性は待合室へと入る直前、感慨深げにその扉に書かれた自身の名前を見つめ、小さくこちらに一礼し、中へと入っていった。最後の見送りのときだけ俺は席を立ち、扉が閉じられる最後の最期の瞬間まで待って、礼を返す。仕事としての礼ではあるけれど、どちらかというと、一人の人の生涯に対しての、敬意を込めて。
「どうか幸せな走馬灯を」
礼を返し終えて、俺は自分の指定席、長方形のテーブルに添えて置かれているパイプ椅子へと腰かけるのだ。
「大変だったねぇ。私は、どこに行けばいいかねぇ。もうあんまり、目が見えなくってね。この切符であっているかしら?」
すると、既にそこには次の乗車人が待っていた。
けれど、この人に戸惑いや迷いはないらしい。既に向こうで、先ほどの男性が入っていった待合室とは別の、新しいその人だけの待合室が、現れているから。
「お待たせしてしまいました。すみません。確認しますね」
「ええ、ええ。お願いしますね」
目の前にいるのは一人の婦人。白髪(はくはつ)を綺麗に一つにまとめて、丸まった背中で、穏やかに笑みを浮かべて、藤色の花の刺繍の入ったカーディガンを着ている。
「……行先に間違いはなさそうですね。発車時刻まで、まだゆっくりできる」
「そうですか」
女性に切符を返しながら、俺は微笑んで言う。
「そのカーディガン素敵ですね。きっと、ご主人がお喜びになる」
「ふふふ。そうなの。これはあの人が初めて買ってくれた、お誕生日プレゼントだから」
若い時も、年齢を重ねた今も、とても美しい女性であった彼女。その美しさは身に纏(まと)っているものではなく、こうやって愛おしそうに何かに対して笑(え)むことができるからだろう。
「貧しくてね。それなのに、あの人ったら、無理して買ってくれたのよ」
もうボロボロのそのカーディガンの肩の部分を少し摘み、女性は嬉しそうに見せてくれる。至る所に穴が開いて、ほつれて、刺繍の花の色は既に変わってしまっている。それでも、何とか着られるくらいに保たれていて、あまり目立たないようにされているけれど、よくみたら、何度も何度も修繕された形跡がある。
きっと、何も知らない誰かがこのカーディガンをみたら、これはもう着られないと捨ててしまうだろう。
もし、何も知らない誰かがこのカーディガンをみたら、可哀想だと新しいものを買ってあげると言うかもしれない。
けれど、全てを知っているご主人がこのカーディガンをみたら、こんなに大切にしてくれてありがとうと心から思うと思うんだ。
想い出の詰まったこのカーディガンは、シルクで出来たどんなに高価な服よりも、この女性にとっては大切で何にも代えがたい一張羅なのだ。
「手間を掛けさせて、ごめんなさいね。待合室はあっちでいいのかしら」
「はい、あちらです。どうか、ゆっくりとあなたの時間をお過ごしください」
走馬灯は長く生きれば長く生きた程、上映時間もたっぷりある。
短く濃いものもきっと悪くないのだろうけれど、たっぷりと想い出を持っていくのも良いと思う。
こういう想い出はきっと、次の行先でも、例え覚えていないとしても、本能的に何かの糧になると俺はそう思うから。
「さて、今日はさっきの人で終わりかな……」
ポケットからごそごそと名簿リストを取り出して、確認していく。
シアターでの上映が終わると、自然と座席が列車の指定席へと変わるので、もう俺の出番はない。今日はさっきのご婦人で最後だろうし、後はこの椅子にかけてぼんやりと過ごそう。
そう思ったその時、ふっと例に漏れず突然、一人の女性が現れて、俺に尋ねるのだ。
「あの……すみません」
「え?」
その女性の声に合わせて、手に持っていた名簿リストに一命、名前が追記されていくのだ。けれど、その名前は光っては消えてを繰り返している。
初めてのことで戸惑うけれど、そんな俺にはお構いなしに、案内人である俺よりも冷静に、彼女は言うのだ。
「あの、列車に乗るのは何となくわかるんですけど……」
「え、あ、はい」
「その……待合室もまだ扉が閉まってるし……」
そう言いながら彼女が指差す方向を見ると、確かに新たに一室、待合室が追加されていて、プラカードには彼女の名が刻まれているのに、その扉は閉められたままなのだ。
「本当だ……」
唖然とする俺をよそに、彼女は平然と続ける。
「別に待合室じゃなくて、ホームで待たせてもらうのでもいいんです」
「え?」
その言葉に俺はさらに驚くも、彼女は本当に、いつもの通勤の途中であるかのように、黙ってホームを見つめていて、数秒考えてから、また俺に尋ねる。
「……けど、その……仕事終わりに申し訳ないんですけど、その……」
「は、はい」
「……その、これ……」
そう言いながら、今度はその手にもった乗車券を彼女は躊躇いながら俺に見せるのだ。けれどそれを見た俺は、案内どころか、また声をつまらせることとなる。
「え?」
「……そうなんです。もう、行き先さえ書かれていなくて……。発車時刻も……書かれてないし、だけど、切符はあるし……」
俺は慌ててまた、名簿リストにもう一度目を通してみる。
リストに重複や不備がある様子はなく、先ほど追記された彼女の名前は、尚も光ったり消えたりを、繰り返している。
「……待合室にも入れないし、ホームで待ってようかなと思ったんですけど、なんか、行き先も発車時刻も書かれていないから、どのホームでどの列車を待っていたらいいかも……ホームへの行き方自体も……分からないんです」
この仕事について初めての事態で正直、俺は混乱していた。
けれど、俺に文句を言うでもなく、純粋に申し訳なさそうに尋ねる彼女のその寂しげな笑みをみた瞬間に、ああ、何とかしないと、と強く衝動的に思ったのだ。
だから、俺は、もっともらしい嘘をつくことにする。
「すみません……俺の勘違いで、今日の仕事を終了にしてしまったので、きっとあなたの分は明日に回されてしまったんだと思います」
「え? そうなんですか?」
「はい。俺のミスなので、特別な待合室へとご案内します。少々お待ちください」
待合室の待合室なんて本当はないけれど、一応俺はここの案内人で、とてもよく、ここのことを知っているから。
だから大丈夫。その知識は使うけど、今日はもう仕事を終えた後だから、たっぷりと待合室も行き先も間違いがないと分かるまでは、仕事としてではなく、個人的に動くと約束するよ。
「あ、ありがとうございます」
淡々と言葉を紡いでいた女性は、表情こそまだ真顔のままであるものの、その声がどこか和らいだような気がした。
俺は彼女を不安にさせまいと、不気味に映らない程度に、喜びの笑顔とも勘違いされないように、ゆるく、絶妙な口角の上げ具合で、慣れない笑みを浮かべてみた。
俺は死神。
といっても、死を与えるのではない。ただ、次の行先へと導くだけ。なるべく、安らかに。
そう言ってもみんな、恐れて信じないけどね。
死神のホワイトチョコレート
「こちらへどうぞ」
とりあえず、女性をなるべく駅のホームから離そうと、改札とは反対の方向へと歩くように促す。
従業員用の出入り口を使えば、ホームに入れないことは、ない。
けれど、この特別な駅には特別な列車しかこないのだ。自然と、走馬灯(ごほうび)の上映が終わると、その人が待合室で座っていた席がいつの間にか列車の中の席へと変わっているのである。
だから誰も、ホームから列車に乗ったことが無ければ、このホームはいわば飾りのようなもので、列車が停車するためだけに存在しているのだ。
業務日誌やマニュアルには一通り目を通したことがあるけど、ホームからの乗車方法も、彼女のように待合室へと入れない事象についても記載はなかった。そのため、ホームへ例えは入れたとしても、ホームから乗車してしまったら何処に辿り着くかの保証がない。
そもそも走馬灯は生涯のご褒美なのだ。次の場所へと持っていくことのできる、とっておきの。
まだ可能性があるのなら、危険が伴うかもしれない、ホームから乗車するという初めてのことを試すよりも、彼女の待合室が開くのにかける方がいいように思えたのだ。
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