ループ・ラバーズ・ルール_レポート4「デコる」
―ジョウセイ高校―
雲一つない青空を横目に、リファはいつも通りのテスト結果を見つめていた。頭上に視線を感じ、顔をあげるとクラスメイトのひとりがリファの手の内にあるテストの点数を覗きこんでいた。彼は切りそろえられた前髪と、顔の三分の一を覆うくらいに大きめの黒縁の眼鏡が印象的な人。日頃大人しい性格ではあるものの、皆から委員長と呼ばれ、よくリファの目にも入る機会が多く、クラスの中でも比較的記憶に残るひとりである。彼は長い指をとても丁寧に眼鏡の中心部に添え、ゆっくりとそれをかけ直した。
「さすが東条さんですね。やはり、名前さえ書き忘れなければ全科目満点ですか」
「……はい。今回は満点でした」
彼は眼鏡に添えていた手をそれは丁寧に離し、伸ばしたままの背筋をさらに伸ばすかのように、ぐっと胸に力を入れ、恒例の言葉を告げる。
「私は今回の中間考査は三位でした。ですが、東条さんは常に満点。実質、一位争いはあってないようなもの。従って三位とは即ち、他の学年でいうならば、私は二位の成績をとれるくらいの実力に該当するようなものかと……。いつの日か、一位になりたいものです」
ジョウセイ高校では上位百位以内の成績優良者は、一斉に廊下の掲示板に順位と名前が掲載される。基本的にテストの総合順位は最初のHRの授業時間に個人に渡され、各科目のテストもまた、それぞれの最初の授業時に返却される。そのため、テスト結果を一番に知りたければテスト期間終了翌日の朝に掲載される、掲示板が最速となるのだ。
リファの手には午前中にあった授業の科目のテストがあり、特段に休憩時間の長い昼休み、あまりにも手持無沙汰で、採点ミスがあればいいのに、と見直していたのだ。
テストの度に声をかけてくるのは、同じクラスであり委員長の彼、戸田沖孝全ともう一人、他クラスの曾澤湖百合。曾澤とは今朝、掲示板の前で既にすれ違った。今回は声を掛けられず、ただ「ふんっ」とひと睨みされて終わった。彼女はいつもリファの次、二位の常連である。多くの科目が満点ではあるが、全科目満点ではないために、リファに勝ったことが、本人曰く、無いらしい。毎回、テストの度に二人が次は負けないと言うので、リファなりにテストの一位というのは一般に嬉しいという感情を抱くのだと推測し、リファは特に嬉しくもなんともないので、一位をとるのをやめてみようと思ったのだ。けれど、全ての答えが分かってしまうので、間違いようもなく、わざと違う解答を書くのはルールに反するので、前回の年度末考査では一科目ほど、あえて名前を書かずに提出してみたのである。それはリファの目論見通りに0点のテストとなり、初めて掲示板に名前が掲載されなかった。あの日、いつも通りに曾澤が声をかけてきたものの、それはリファが予測していた喜びに満ちたものではなかった。曾澤は凛々しく猫のように吊り上がった目と、艶やかな腰元あたりまである長い黒髪が印象的だ。ただ、リファの中でも珍しく、対象の一部を特徴として憶えるのではなく、全体を記憶する人物でもある。というのも、彼女は文武両道でクール美人と周りから言われているのだが、その通り、顔のパーツというよりは、圧倒的な存在感と彼女全体から放たれる雰囲気。それが曾澤湖百合という人物の象徴なのだ。彼女の醸し出す雰囲気というのは、遠目から見ても一発で曾澤がそこにいると伝わるもので、逆に彼女の一部だけを記憶する方が難しいと、リファは判断した。何より、曾澤は学校で唯一といってよいくらい、リファに遠慮なく高圧的な態度でつっかかってくる。流石のリファも自然と染みつくように憶えてしまったのだ。そんな曾澤はこのジョウセイ高校の、そもそもこのオズネルという世界で一番に有名で絶大な力を持つ財閥の令嬢。リファもリファなりに、社会勉強でこの高校に通っているので曾澤に気に入られなくとも、嫌われないようにした方がよいと判断し、良かれと思って名前を書かなかった。けれど曾澤は笑顔のひとつも零さず、リファの姿を見つけるなり、胸倉を掴み、女性にしては比較的低めであるその声をさらにワントーン下げ、「二度と、こんなことするな」と全身に鳥肌が立つほどにその猫目をさらに鋭くして言い放ったのだ。そこから、リファはわざとだけでなく、本当についうっかり忘れることさえないように、名前の欄を慎重に確認するようになった。そして、その日から、この戸田沖も日々の小テストがあった時でさえ、毎回、名前の記入をしたのかの確認に来るようになったのだ。あのように、誰かにひと睨みされて全身に鳥肌が立ち、考えるよりも先に頷いたのは初めてのことであった。そして、特に人との会話が得意ではないリファは、名前を一度書かなかっただけでこれほどまでに名前を書いたかの確認を戸田沖や先生たちにされるようになるとは思わず、こんなことになるのならば二度と、名前を書かずにテストを提出することはしまいと、深く、記憶したのだ。
その後も戸田沖はツラツラとどの科目が一番に良問であったか、難しかったかをいくつか独り言のように呟き、特にリファにはどれもが一緒に思えたので適当に、一般的な会話の流れに合わせて頷いておいた。程なくして、戸田沖は納得したのか、ぴっちりと指先を揃え、人差し指だけを数センチほどズラし、黒縁眼鏡の中心部を一度ほど押しあげて「また次のテストで」と言葉を残していった。
リファは本当は見る必要などないのに、戸田沖に頷いた手前、考えるフリをする方がいいのかもしれないと、鞄から手帳を取り出す。ポータブルデバイスにカレンダー機能とやらがあるし、そもそも学校の予定なんて僅かであるため、記録するほどでもない。けれども、リファと同じ年ごろの子たちは、こういう手帳というのを持って、予定をわざわざ記入するのを好むらしいのだ。面倒な作業をあえてしたがると不思議に思いつつも、リファはシンプルな白い手帳を日用品と共に買い揃えた。じっと、数か月先の期末考査と書かれた文字をみつめながら、リファは時間を潰す。学校ではポータブルデバイスは使えるけれど、自宅との連絡以外でネットに繋ぐのは禁止らしく、構内のネットワークは遮断されている。モゴロンがみられなければ、もはやポータブルデバイスも意味はなく、リファはこのやたらと小まめに入る休憩時間というのが退屈で仕方がなかった。本当にこれを休憩時間と呼ぶのならば、机に突っ伏して眠りたいくらいなのだが、こういうこと、はジョウセイ高校では誰もしないらしい。特に女子がするのはあまり良くないらしい。結局、開いても特に意味のなかった手帳を閉じようとしたそのとき、再び頭上に影がかかる。
学校で誰かと会話をすることはほぼないので、リファはあまり人の気配に意識を向けていなかった。テスト終わりのこのタイミング、戸田沖以外に心当たりがなく、リファがほんの少しの警戒心を滲ませながら顔をあげると、そこにはユーキの姿があった。ユーキはリファではなく、ここから対角線上の離れた席の方に視線を向けていた。
「い、行ったね。毎回、どうして勝てないのが分かってて張り合うのかしら……」
午後一番は移動教室でも体育の授業でもない。リファはユーキが何故声をかけてきたのかが分からず、その横顔を黙って見つめていた。どうやらユーキは戸田沖が自分の席に戻ったのを確認していたようで、小さく頷き、リファの方に向き直る。けれど、リファがユーキの動きを待っていたからか、目があった途端に、ユーキは視線を泳がせ、声を上ずらせながら、ほんのりと頬を向上させ、手に持っていたものを差し出す。
「あ、リ、リファちゃん……きゅ、急にごめんね。そ、その……人目なく……ゆ、ゆっくり話せるのって……今かなって、思って。そ、その。コレ……どうかなって……」
リファの目の前で、平べったいモゴロンが、ユーキのどこかもじもじとした動作に合わせて小刻みに揺れ動いた。そのモゴロンはゴーカリマンではないのに、オーロラ色に輝いている。リファはばっと勢いよく顔をあげ、縋るようにユーキに問う。
「何話? 何話でモゴロンは色が変わるの? 私、全部観たはずなのに知らない。モゴロンがピンクからオーロラ色になるなんて……」
ユーキはピタリと固まったかと思うと、一昨日のガチャキューブの寄り道の時に見せてくれたような、いつも通りなのに、いつもと違う笑顔を浮かべる。この笑い方の方が、数ミリだけれど、普段みせるものよりも目尻がぎゅっと上がって、どこか元気で柔らかいのだ。それはリファに、ゴーカリマンの放送をみるときのように、もっと見ていたい、と思わせるものだった。ユーキはその笑顔のままに首を振り、リファの白い手帳の上に平べったいオーロラ色のモゴロンを置いた。
「違うよ。モゴロンはピンクのまま。ほら、よくみたらピンクでしょう? これ、ステッカーなんだけど、オーロラ加工されてるやつなの。あ、ほら、他のドンドンとか、レディーマンもオーロラだよ?」
ユーキがごそごそとポケットから取り出したキャラもまた、いつもとは違う色で輝いていた。リファは目を瞬かせ、ユーキに聞いてみる。
「ゴーカリマンじゃないのに、色違いバージョンを着るなんて、みんな怒られないの?」
すると、ユーキは口元に右手を添え、クスクスと笑う。左手に握られたままのレディーマンとドンドンも、まるでリファを笑うかのように、どこか優しくユーキの動きに合わせて揺れ動いた。
「うん。アニメではゴーカリマンしか衣装替えしないんだけど、これね、ガチャキューブとかと一緒で、ゴーカリマンのグッズなの。確かに不思議だよね、グッズだとね、みんなこうやってオーロラ加工されたり、ラメバージョンになったり、色違いのやつが結構あるかも。あはは、言われてみれば、そうだよね。グッズって可愛くみえるように加工されるのが当たり前だから、気が付かなかった」
「……オーロラモゴロン……モゴロンがヒーローみたい」
ユーキが置いたモゴロンのステッカーを摘まみ、まじまじとそれを近くで見てみる。ユーキの言う通り、ちゃんとピンクだけれど、角度によってオーロラ色に輝くモゴロンは、リファにとって世界でひと際輝く、特別な怪獣のようにみえた。ユーキは気に入ってくれてよかった、と言いながらレディーマンとドンドンのステッカーもリファに差し出す。
「私、ベタだけどゴーカリマンが一番好きなの。だからそれはごめんね、自分用なんだけど……他のキャラなら大丈夫だから。レディーマンとか、ドンドンもいる?」
ユーキの投げかけに、リファはついていけず、分からないと示すために首を横に傾げる。こんな風に会話こそあまりしないが、さすが、ユーキは学校で共に過ごす時間が長いだけあり、リファの言いたいこと、分からないことを、言葉にできなくてもおおよそ拾ってくれるので、とても有難かった。
「あ、そっか。待ってね。私はゴーカリマンが一番好きだから、他のキャラね、いらないって訳じゃなくて……そう! ゴーカリマンがあれば満足だから、他のキャラは誰か自分よりも好きな人に、分けることができるの。……そうだな、この間みたいに誰かから買うこともあれば、交換することもあるんだけど……リファちゃんには分けることが、できるの……リ、リファちゃんだから……」
途中からスムーズに話していたのに、徐々に語尾がつまりはじめ、ユーキの頬がまた紅潮し始めた。ほんの少し心拍数も上がっているように感じられる。けれど、これは流行り病の一種なのだろうか。リファは風邪などひかない体質であるのに、ユーキほどではないけれど、微かに心拍数が上がり、顔が熱を帯びてきたような気がするのだ。けれど、確認をしなければリファは自分が受け取った言葉の意味通りで正しいのかが分からず、上目遣いでユーキに聞いてみる。
「……このオーロラモゴロン……私、分けてもらえるの?」
ユーキはさらに顔を赤くし、鈍器のようにその長めのツインテールを上下に激しく振り回しながら、頷いた。
リファは改めて特別なモゴロンを摘まみ直し、それを間近でみてみる。すると、あることに気づくのだ。自分が持っているガマ財布よりも、昨日もらったマスコットが。昨日もらったマスコットよりもこのステッカーが、同じモゴロンでも可愛く見えるということに。
色が、オーロラだからなのだろうか。けれど、これはステッカーなので抱きしめられる訳はなく、それでもただ手に持っているだけで、昨日のように胸にじわじわと何か温かいものが広がっていくのだ。モゴロンはもしかしたら、アニメの中でだけでなく、グッズからも、人に影響する特殊効果をもつ怪獣なのかもしれない、そう思ってしまうくらいに。
モゴロンの能力はアニメではまだ明かされていないから、余計にリファにはそう思えた。するといつの間にかリファの頬は緩み、勝手に目が細められて、口から言葉が零れ出ていたのだ。
「ありがとう」
ユーキは一度ほど目を見開いて、リファがずっと見ていたい方の笑顔を返してくれた。そこからリファはとても変で、モゴロンが貰えて嬉しいという瞬間は過ぎ去ったはずなのに、ゴーカリマンの最新話の放送時刻を待つときのように、どこかソワソワとした心地が続いていたのだ。
やはり風邪気味なのかもしれない。明日は研究所の日だから能力テストの前に医務室に寄ろう、そう思いながらも、頬もずっと緩んでいるのが体感としても続いていて、果たして医務室に寄るのが正解なのか分からなくなった。リファにとって、研究所は決して居心地の良い場所ではなく、中でも医務室は、定められた基準値を過ぎれば向かわなければならないルールだから行くだけで、特に行きたい場所な訳でもなかったから。
「あのね、このステッカー、手帳にはったらどうかなって、持ってきたんだ。リファちゃんが使ってるの、デコレシリーズの白手帳でしょう? ずっと気になってたんだけど、リファちゃん忙しいから、もしかして、シールとか買いに行く時間がないのかなって……」
それを指摘され、リファは手帳の裏面のバーコード欄を確認する。そこには確かに、小さくデコレシリーズと書いていて、そういえば手帳もどれを購入すればいいのかが分からず、テレビで紹介されていたのを無難に選んだのであった。けれどよくよく考えれば、テレビでの紹介内容も、今ユーキが言っていた通り、デコレーションとやらの推奨つきであった。リファはまた、前回のテストのときのように、危うく社会のルールとやらを間違えるところであった。
「そうだった。忘れてたみたい……ありがとう」
「うん!」
リファはまた勝手に口元が緩く横に引っ張られるのが感じられて、ようやく、もしかしたら自分は笑っているのかもしれない、と気づく。けれど、その結論に至るよりも前に、今度は勝手に喉が震えるのだ。
「ユーキちゃんは、ゴーカリマンが一番好きなの? 何色のゴーカリマン?」
ユーキの瞳孔が開き、小さく息を飲む音がして、リファはそれを驚きの反応と判断する。考えるよりも先に勝手に言葉が出てしまったものだから、一般的な会話の流れというのから逸脱してしまったのかもしれない。リファは緩く唇を噛み、これをどう挽回するのかを必死に考える。
「全部。リファちゃんと一緒かも……リファちゃんにとってのモゴロンみたいに、私もゴーカリマンだったら何色でも好きかもしれない」
一拍置いて話し出したユーキの表情は、目尻は下がり、頬も緩んでいて、いつものニッコリと笑うものではないのに、笑顔に部類するものだった。それはいつもよりもどこか穏やかに見えて、何がいつもと違うのかを知りたくて、リファはまじまじとユーキの顔をみつめる。
またも勝手に口が開きかけたところで、昼休みの終わり五分前を告げる合図が鳴り、ユーキは軽く手を振ると、モゴロンのオーロラステッカーを残し、自分の席へと戻っていった。そのときには既に、リファがよく目にする笑顔に戻っていたけれど、リファの中でユーキのもっと見ていたい笑顔や表情というのが、一種類ではないことが強く脳にインプットされた。
いつの間にか、クラスの全員が着席しており、多くの者が食堂やカフェテリアで昼休みを過ごしていたのに、みんながいつ、どのタイミングで教室に戻ってきていたのか、リファは全く分からなかった。こんなことは初めてで、リファは自分に戸惑いを感じた。だからだろうか、予鈴から本鈴までの五分も一瞬に感じられ、先生が入室してようやくに昼休みがもう終わっていることに気づいたのだ。
黒板に今日の授業内容が書かれたのをみて、一拍遅れて教科書と参考書を出した。うっかりと机を揺らしてしまい、それに合わせて横にかけていた紺にグレーの紐の、学生特有の鞄までもが小刻みに揺れた。連動するように、鞄につけていた黄金色のゴーカリマンが踊りだし、リファはまたソワソワとした気持ちになるのを自分の中で感じ取る。授業の内容は既に研究所で習った理論や知識の基礎中の基礎でもあるので困りはしなかったが、その授業中、先生の放つ言葉の全てがただの音にしか聞こえず、黒板の文字が数式ではなく、ただの字に見えた。
リファはこの日初めて、昼休みは短い、と思った。
※毎週土曜日、朝10時更新予定💊∞💊
ループ・ラバーズ・ルール更新日
第2・第4土曜日