ループ・ラバーズ・ルール_レポート21「ヒーロー」
リファの頬を鋭利なそれが掠め、一滴の血が下たる。けれどもそれが地面につくかどうかの頃、すでに足に痛みが生じていた。
傷か、疲労か。そのどちらであるかなど、もはや分かりはしなかった。自分の足であるというのに、あまりにも痛みが全てを覆いつくすため、その種類の違いなど疲れ切った脳では判断がつかないのだ。
そして、傷であれば一目瞭然であるというのに、そもそも足に視線を移すことさえままならない状況が続いているのである。
リファはただ、痛みのそれが傷ではなく、せめて疲労であることを祈りテストに集中することしかできなかった。
(くる……し、……怪我は……ダメ。何とか……足を……守りたい)
耳元で物騒な音が響き、さらに頭上で何かが通過した風を感じる。
(浮け……回転。右……いたっ……左……、いっ)
『ほら、こんなことでは任務をこなせないぞ』
『小鉢君……レベル11はかなり良い仕上がりだ』
(いた……い。……次、右上……あ、ダメ。着地が……気絶……する)
「……う、」
(浮力が……ダメ。気絶……、重力……重力の……ルールも)
最後の通常の視力状態であれば見切れないそれを避けた後、バランスを崩した身体は、無機質な地面へと向けて、リファの身長よりも高い位置から真っ逆さまにダイブした。
直前まで使っていた浮く力を、気絶すると予測してすぐさまいつものルールを守るため、リファは重力のそれに変えて、そこで今日一番に感じる激しい痛みと、真っ暗闇に落ちる感覚と引き換えにパタリと記憶が途絶えたのだ。
∞∞∞
(起きな……きゃ。うご……け。動け……)
「うっ」
リファの頬には冷たい08ルームの床が触れているはずなのに、不思議と顔周りは自由であった。
記憶が途絶えてから数時間は眠ったに違いないと思い、リファは学校に行くために起き上がろうとする。まずは身体の向きを仰向けにしようと寝返りを打ったところで、ひどく背中に優しい反発を感じ、リファの脳は少しずつ、動き始める。嗅覚は確かによく嗅ぐ匂いのひとつを捉えているのに、何故かいつものように頭痛や吐き気を催すそれではないのだ。むしろ安心する匂いに釣られるようにして身体を動かしたそのとき、肩に温かな体温を感じる。
(眠たい……でも……おき……な、きゃ……)
いつもとは違う温もりは、リファにもう少し眠りたいという素直な欲望を与えた。起きようとする意識を跳ねのけて再び寝返りを打とうとしたところで、本当にリファの身体は動き、けれど身体を動かしたそこに無機質な08ルームの床は控えてはおらず、ぐんと何かに引っ張られて、頭だけが大きく横にズレ落ち、リファは驚いて目を覚ます。
「あ、」
視界に映り込むのは研究所内の白い天井でも、自宅のベージュがかったそれでもない。大きなブラウンの瞳がこちらを見ていて、その瞳の中に、左頬に大きめのガーゼを貼り付け、頭に包帯を巻く、口を半開きにしたリファの姿が映り込んでいた。
「お、驚かしてごめんね。リファちゃん、着いた……というか、着いてたの。それでね、あまりにも気持ちよさそうに眠ってたから。時間になるまで、起こさないでおこうと思って。えっと、起きれるかな?」
(あ……研究所じゃ……ない。……そうだ。部活。ユーキちゃんは……今……本当に私と部活を始めた……だから……ボランティア部の件は……転入前のこ、と……は知らない……って言えば……えっと……違う。先に……今日の……部活)
「私、ごめんなさい……眠っちゃってて……」
「ううん、それより、部活。しよう?」
ユーキに言われるがまま起き上がろうとして、やはりぐんと何かがリファを引っ張り、動きを制するのを感じる。リファは驚いてその引っ張るそれに視線を向けると、一体何が起こったというのか、身体が黒いそれで縛られているのだ。左右に身体を動かしてみると、確かにこの黒いそれはリファの起き上がろうとする動作を止めるというのに、完全に自由を奪いはしないのである。
動けるのに、動けない。
その状態に固まっていると、ユーキがクスクスと笑った。
「リファちゃん、シートベルト。忘れてるよ」
「あ、……本当だ」
ここ最近で、リファの中でとてもたくさんの感情が動くようになった。それらがどういうものか、今自分が何を思っているのか、理解できることも増えた。
リファはシートベルを忘れていた自分に対し、恥ずかしさを覚える。けれど、ユーキが優しく笑ってくれたので、それはそこまで強い感情とはならず、こういう場合、感情が強ければ強いほどよいというのではないことも、何となく、憶え始めた。
それらは戸田沖との関わりが大きく、あの拗ねた気持ちやトゲトゲとしたものは、感情の中でも怒りのように強ければよいというものではないことを実感したのだ。この恥ずかしいというのもまた、そうである。リファはユーキにつられるように、どこか照れたように小さく微笑み、シートベルトを外した。
「リファちゃん、こっち」
ユーキが手を差し出してくれたので、リファは躊躇いながらもその手をとる。昨日のように倒れ込んだとしても、研究所でリファに手を貸す者は誰ひとりとして、いない。それなのに、今はただ車から降りるだけだというのに、ユーキはリファに手を差し出してくれるのだ。そのことはリファの頬をぽうっと火照らせ、瞬きの回数を増やさせた。
リファの中で、照れる感情のそれが、恥ずかしさから一歩先の、嬉しさへと結びついたのである。こういう時、リファにとって心臓が煩く鳴り響くか、もしくはこしょばくなることが多いと、リファの中で記憶している。今回はその両方が少しずつ感じられ、それがまた、新しい感情の感覚としてリファの中に蓄積していった。
ユーキの手はリファとほぼ一緒であるように見えるのに、背が低い分、触れるとリファよりもそのサイズが少し小さいのがよく分かった。
そしてその小さな手でしっかりとリファの手を握ると、外へと連れ出すのだ。
その動きは、手は。リファのように力を使うことなどない、きっと、か弱い女の子であるはずなのに、リファよりもずっとずっと、強く頼もしく感じられた。
車から降りると、リファを待ち受けていたのは少しひんやりとした風で、高校にいる時よりもその風が微かに冷たく感じるのはきっと、目の前にファルネ川が広がっているからだ。その水面には沈みかけの太陽の橙が濃く反射しており、その橙色はやはり芝生の色までをも飲み込んでいた。周りから絶えず工場で重機が動く音がするかと思えば、今度は橋の上をちょうどファルネが通過し、ゴゴゴとどこか高く籠るような音を、階段下の方向から響かせていた。
「ここ……」
「うん、行こう」
ユーキに連れられ階段を降りようとすると、既に高架下には、リファが出会ってすぐに、義務でもなく、自らの意思で記憶した人たちが、こちらに向かって手を振っていた。
「リファちゃーん、こっちこっち―!」
ショーがファルネの通過音に負けないくらい大声を出しているが、言葉自体はよく聞き取れなかった。ショーの声らしきものが、リファの耳に届くか届かないか。けれども、あの特徴的な笑顔で手を振ってくれているから、それはきっと、リファにあの河川敷に、高架下に行ってもいいという、知らせのように感じられた。
ユーキと手を繋ぎながら降りた先には、今日はジーンズにぴっちりとしたロンT、そこにゴツゴツとしたアクセサリーを添えた摩季が。その横にはヘコへコと首を下げるデコポンコンビと呼ばれる人たちが。さらにその向こうには、ドラム缶を触りながらも、視線をこちらに向け、緩く微笑むダイが、リファとユーキを待っていた。
「ようこそ、私たちだけの、ライブハウスに」
摩季のハスキーボイスがブルリとリファを震わせ、状況を確認するかのように、リファは目をパチクリとさせながら、ユーキの瞳を見つめる。すると、ユーキは繋いでいた手をぎゅっと握り直し、リファがずっとみていたいと思う、元気な笑みを浮かべながら、ただただ、言うのだ。「部活だよ!」と。
リファが小さく笑みを零すと、ショーが「こっち、こっち!」と手招きしながら、先日演奏を聴かせてくれたところに、即興で作ったであろう、段ボールの椅子をリファとユーキと二人分、用意してくれていた。
「さ、ゴールデンタイムが始まるから。急いで急いで」
きっと時刻的に、ダイは一番に準備がいるから、先に高架下へと潜っていたのだろう。デコポンコンビの二人もギターを既に手に持っている状態で、よく見れば、ショーももうベースを触りかけていた。
「さ、いくよ。言っておくけど、誰でも仲間に入れる訳じゃない」
摩季の声がとてもよく耳に残って、リファは思い浮かぶままに、聞き返してみる。
「どんな子だと、仲間に入れてもらえるの?」
すると、そんな条件があるとは知らなかったようで、横にいるユーキもどこか不安げな表情で摩季を見つめていた。二人してゴクリと唾を飲み、縋るような目で、三人の中で一番に背が高い、摩季の返答を待った。けれど、摩季はそのハスキーボイスからは想像もつかない、優しい笑みを浮かべて、言い切るのだ。
「ヒーローを信じる子だけ。私はレディーマン推し」
その言葉を聞いた途端、リファの胸にじわりと、泣きたくなるような何かが、まだ演奏は始まっていないのに、振動として伝わるような気がしたのだ。
リファの生きる世界にも、怪獣以外もいると、信じていいのかもしれない、と。
気が付けばリファは、考えるよりも前に、自分でも驚くくらい大きな声をその口から飛び出させていた。
「信じる! ヒーロー! 信じるロン!」
突然に出した大声に、ユーキも摩季も、ショーたちも。一番遠くにいるダイも驚いた表情を見せたけれど、誰も馬鹿にはしなかった。むしろ、全員がどっと声をあげて満面の笑みをみせ、ショーとダイ、摩季の声が重なって聞こえてくるのだ。
「「「上等!」」」
「「いえーい」」
次に続くのはデコポンコンビの声で、彼らは二人同時にギターの弦を力強く弾いた。それに合わせてダイがドラム缶を叩き、向こうの方でファルネの踏切り音がひっきりなしに鳴り始めた。摩季もすでに高架下へと行きマイクを手に持っていて、ショーのベースの音が響き、音がたくさん、重なっていく。
「さ、リファちゃん。私たちも行こう!」
「うん」
リファは身体中の怪我の痛みや、重さを忘れてユーキと共に特等席へと駆けていく。
「ねえ、ユーキちゃん、これは……何部?」
部活というのが嬉しくて、昨日の状況的にも食いついてしまい、とうとう部活名を聞かないままでいてしまった肝心なそれを、リファはようやくに思い出す。軽音部か、ヒーロー部。そんな単語を思い浮かべていたところで、ユーキが自信満々に、言う。
「清掃部だよ!」
「え?」
ユーキは珍しく凛々しい眉のまま、例の有無を言わさぬ圧がある瞳で、けれどもゆるりと口角をほんの少しあげて、笑うのだ。
その笑みはまるで、レディーマンがちょっと悪戯をするときにみせる、レアなシーンの再現のよう。
「要らない物を清掃すればいいんだ。表向き、社会貢献のごみ拾い。だけど私たちが本当に拾うのは、清掃された後の綺麗な音だよ。音拾い! ね、全部、ルール内だよ」
リファはユーキの新たな一面を知れた気になり、胸が、きゅんと反応を示す。リファにとって、どれが清掃すべき要らない物なのか、すぐには分からない。けれど、拾うべき音は、すぐに分かる。
ここは心地の良い場所。
たくさんの音に溢れている。
中でもリファがモゴロンに抱くそれと同じ、好きな音、がたくさんあるのだ。もう高架下には音が溢れすぎて、拾いたい音しか分からない。
「……音拾い……する……」
リファの小さなこの呟きは、たくさんの騒音に飲み込まれても、確かにちゃんと、届いた。呟いた瞬間にユーキやショーたちが微笑んだのだ。そして、呟けたことで、リファの心がまるで掃除されたかのごとく、とっても軽くなったのである。
to be continued……
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ループ・ラバーズ・ルール更新日
第2・第4土曜日
