秘密の地下鉄時刻表―世界の子どもシリーズ―No.33_過去編~その手に触れられなくてもep25④
「……ア。――……ア」
先ほどから聞こえていたうちのひとつの声がぴたりと止んだかと思えば、もうひとつの声が明確に近くなり、何かを話し出すのだ。
え? 私に話しかけているのかしら。
待って、足が変なの。それに何かが、思い出せない気がする。
瞼がまだ重たくて、開けられないわ。
「……ア。リア!」
けれど、その声の主は待てないとでも言うように、話を続けるのだ。そして、それが名を読んでいるのだと認識する頃には、激しく肩を揺さぶられていたのである。
その触れる手から、相手の焦りの感情が雪崩れ込むかのようにこちらにまで入ってきて、急ぎ重い瞼を開いていく。
すると、映り込むのはオレンジがかった美しいピンクの髪の女性なのだ。髪はクルクルと細かい円を描くようにうねっていて、まるで波のよう。鎖骨の下は白い肌よりもさらに白い布で胸元だけを覆っており、その下に髪と同じく鮮やかなピンクに所々オレンジがかったものを交えた鱗が続いているのである。
見覚えがあるのに見覚えがないその女性をみていると、確かに負傷したのは足であったはずなのに、頭にズキリと痛みを感じたのだ。
それと同時に、頬に何かが伝ったきがしたけれど、特にそれを感じることはなく、女性と自分との間にいくつもの泡が立ちはだかっていた。
「……――だあれ?」
まだ重たい瞼を完全に開こうと、瞬きを繰り返す。すると、彼女と自分との間にあった泡が消えていき、代わりに締め付けるような胸の痛みが残った。
ただ、こちらの声に反応して、女性は驚いた顔をしたのちに、柔く微笑んだのである。
「……よかった……目が覚めて――……」
それは嘘のない声と表情で、この人は敵ではないのだと、自分の中の何かが判断するのだ。そして、ぎゅっと抱きしめられたかと思うと、その人から漏れ出る何かが、敵ではないと思うその人のことを、信じなければ、と強く感じさせるのである。
あれ? 誰だったかな。でも、この人は信じていい人。
それを確認したくて、その人の目を覗きこむようにして見つめる。
すると、その女性は目があったことを嬉しそうに、髪と同じようにオレンジがかったピンクの綺麗な瞳を細めて、やはりとても妖艶に、けれども柔く、微笑むのである
「……私はカ……」
その人は一度唇を震わせたが、次にはぐっと眉を寄せ、そのまま固まってしまった。そうして、数秒考えた後に、再びその人は喉を震わせた。その人から放たれる声は、妖艶さや声の高さ具合というのは意識が朦朧とする中に聞こえてきたものと同じように感じられたが、口調というのが全く違うので、やはり知らない人なのかもしれないと、脳が混乱し始める。
けれど、何故か強くこの人は信じていい人なのだと、何かがそう思わせるので、どうしようもなく、違和感というのを拭えないまま、黙ってその人が話す続きを待った。
「――……レムよ。私はレム。あなたの従妹で、マナーの教育係だったでしょう? ね、リア?」
再び頭にズキリと強い痛みが生じ思わず目を瞑るも、レムという人が頬に触れてくる。
けれど触れ合う箇所を始点に何かが身体を巡っていき、徐々に痛みが治まってきたかと思うと、意識もはっきりとしていくのである。
そうして、その何かが身体の隅々まで巡る頃にリアは慌てて叫ぶのだ。
「レム姉さん!」
ああ、どうして一瞬でも分からないと思ってしまったのかしら。
レム姉さんは私の従妹で、それで、マナーの先生で、それで……。
レムを思い出そうとすればするほどに、頭の痛みは引いて行き、足に感じる違和感というのは馴染むような心地になった。けれども、どうにも胸を締め付ける感覚だけは抜けず、それが一層、自分は今、体調が悪いのだと思わせるのである。
ただ、リアが固まってしまったからだろう、レムは小さな子をあやすようにニコリと笑みを浮かべながら、その頭を撫で始めた。
なんだろう、撫でられ方が……何かが違う気がする。
リアは確かにレムに頭を撫でられるのがとても好きだったはずなのに、撫でられてもどこか違和感を覚え、ぼんやりとしてしまうのである。すると、それを分かってなのか、体調が悪そうなリアを気遣っているのか、レムは再び、その瞳を細め、様子を覗うように見つめてくるのだ。
「リア?」
ああ、大好きなレム姉さんが頭を撫でてくれているのだから、喜ばないと。そう、大好きなの。レム姉さんが、大好きなの。
リアが慌てて起き上がろうとすると、レムはそれを制し、リアを寝ころんだままに留めさせた。ゆっくりとその瞳を伏せ、眉を寄せるも、突然にぐっと目を見開いたかと思うと、こちらをしっかりと見据えて、その声から柔さを除き、はっきりとした物言いで、尋ねるのだ。
「ねぇ、気分はどう? 自分の名を言えるかしら?」
自分の名前?
どうしてレム姉さんはそんなことを聞くのかしら。
リアに決まってるじゃない。ずっと、レム姉さんだって、リアって呼んで……あれ? そうだったかな?
途端に自信がなくなり、リアは眉を寄せて、不安げにレムの方を見つめた。一方のレムは無言のままじっと視線を返してくるのである。
すると、リアの視界いっぱいにピンクとオレンジの色がぐるぐると回るようにして焦点を奪っていくのだ。
ああ、しっかりしなくっちゃ。
けれどもリアが視界を良好にしようと意図的に強く瞬きをする頃には、さきほどの眩暈が嘘のように、鮮明に吊目がちなレムの美しい瞳の色がリアの脳に飛びこんでくるのだ。レムの瞳はリアの瞳を捉えて離さず、意識が朦朧とする名残だろうか、今度はレムの瞳が幾重にもなって揺れて見え、やはり、次の瞬きが終わる頃には、これまでの全てが錯覚であったかのように、視界は良好に戻っていくのだ。
それらは、意識が朦朧としていたから、レムの髪や瞳の色が単に揺れて見えただけだと、リアに認識させた。
私ったら、レム姉さんの前で恥ずかしいわ。早く名前を言わないと!
なぜかしら、頭が痛んだり、胸が苦しくなったり。
今日の私はなんだか変。
「……リア。う、ん――……私の名は、リア――……」
あれ? どうして私は自分の名前に悩んだりなんてしていたのかしら。
今の状況がよく分からず、リアはゆるりと首を傾ける。髪が靡くというよりは水に浮かんで揺れて、それが当たり前のはずなのに、その動きがどこかリアの心を落ち着かなくさせた。
すると、レムが今度はギュッと強く、リアを抱きしめるのである。
「リアは覚えてないでしょうけど、あなたはさっき強く頭を打ってるの。ちょうどね、大きな波が来たところで、私たちは逃げる途中だったのよ。心配してたの。でも、よかったわ、目が覚めて」
頭を打ったから、痛かったのね。波から逃げる……途中。えっと、確かに逃げていた気がする。覚えているもの。
けれど、覚えていると思うのに、逃げている途中のことが全くもって思い浮かばないのである。すると、レムがクスクスと笑いながらリアの手を引くようにして、起こし上げるのだ。
「ふふ、頭を打って気絶してしまっていたから。ちょっと混乱したのかもしれないわね。大丈夫よ、ゆっくりと思い出せば」
レムがまるでリアがレムのことを忘れているかのように言うことにひどく焦りを覚え、リアは慌ててレムの手を掴む。
「だ、大好きなレム姉さんのことを忘れたりなんてしないわ!」
すると、レムがまたもクスクスと笑うので、とてもその笑い方に懐かしさと既視感を覚え、やはり自分はレムのことを忘れてなどいないし、大好きな従妹のお姉さんで、マナーの先生であったと再認識するのだ。
けれど、身体を起こしたからだろう、レムの上半身だけでなく、身体全体のシルエットをよりくっきりと映し出すことができ、リアは固まるのである。
あれ? 本当に……レム姉さんって、髪がこんな色だったかしら。
それに……やっぱり足がなくて、腰から下に、尾鰭がついているわ。そう、まるで魚のような。ほら、すごく美しいピンクとオレンジの鱗が、宝石のように光ってるんだもの。
まるでこれって……。
「人魚……?」
頭を打ったところだというのに、突然にあれこれ考えだしたからだろうか。リアは心の声をうっかりと口から零してしまったのである。
それも、当たり前であるはずの事実を。
自分のしてしまったことに気が付いたリアがあたふたと慌ててレムの方を見上げると、先ほどと同じようにそのオレンジがかったピンクの瞳と目が合う。すると、その色があまりにも美しいからだろうか、リアの頭の中でピンクとオレンジが交互に行き交い、重なりあって、頭がぼんやりとするの心地になっていくのだ。けれどもやはり、それは瞬きをすると次の瞬間には全てが鮮明に映り、ああ、これがレムの色なのだと、強く思わせるのである。
「そうよ。リアったら。夢でも見てたのね。私たち、人魚じゃない」
その言葉に、リアはゆっくりと自分の足に目を向ける。すると、痛かったはずの足のどこにも傷などなければ、 レムと同じように、魚のような尾鰭がついているのである。違うのは鱗の色くらいだろうか。リアのそれは水色とエメラルドグリーンのものがついているのだ。
人魚――……!? あれ、私、人魚だったっけ――?!
再びレムに確認しようとしたけれど、見上げたレムは腕を組み、もうリアから視線を逸らしていた。何となく、怒りのようなものが感じ取れて、これ以上、レムを苛立たせてはいけないと、本能的に悟るのだ。
ダメ。これ以上、聞いてはいけない。
そして、思い直すようにするのである。従妹でマナーの先生で大好きなレムの言うことに間違いはないのだから、レムが自分のことをリアと呼び、私たちは人魚だと言うのならば、そうなのだと。頭を打って混乱している状態で、困らせることを言ってはいけない、と。
だから、リアは自分にできうる最大限の笑みを浮かべ、レムに自ら抱き着くのである。
「私はリア。レム姉さんの従妹で、海の中の人魚――……」
すると、レムもまた、その抱擁に応えるように、ぎゅっと抱きしめ返してくれた。リアの頬にレムのオレンジがかったピンクの髪が触れ、いつもならばこしょばいと感じるはずなのに、海の中であるからか、浮いた髪はそれほどまでにこしょばく感じないのだと、ふと思うのである。
そして、どうにも、リアの頬にふれていた髪の色は、もっともっと、鮮やかではないけれど美しく、心を甘く疼かせるようなものであったとも思うのである。
すると、まだリアは夢の中にいるのだろうか。
心の叫びが、頭の片隅にこびりついて離れなくなるのだ。
どうか、私の中に巡る血よ、心の代わりに彼を忘れないで、と。
「……そうよ、あなたはリア。私と一緒に海を生きる、人魚」
そんな頭の片隅にこびりつく叫びを飲み込むかのように、レムの声が耳元で響くのである。その妖艶な声の揺れや、どこか厳しくも感じる口調はぞくりと鳥肌を立てさせた。
けれど、レムのその声を聞く一秒前に、心の叫びを確かにリアとして聞いたからだろう。
その心の願いだけは、今からのリアの一部として、しっかりと刻まれたのである。
それが何かなど、リアには分かりはしない。
けれども、心に刻まれた何かは夢から目覚めても尚、ずっと続く胸を締め付ける痛みと、明確に結びついたのだ。
その痛みを例えるのならば、切なさ。
まるで、大切な誰かを、何かを、忘れてしまっているような、苦しさ。
それを隠すために、リアはレムに抱き着きつく腕にさらに力を入れる。
すると、それに反発するかのように、心の中の何かは叫び続けるのだ。
ああ、あの人のことを忘れたくない、と。
けれど、脳はまるでそれを覚えてはいないので、我に返ると、混乱が勝り、やはり言葉にしてはいけない疑問が浮かび出すのである。
あれ? あの人って誰?
ここはどこだっけ――……?
私は誰だっけ――……?
ただ、その疑問は声に出さずとも、周りの光景と傍にいるレムという人魚が、ぴったりで当たり前の答えを与えてくるのである。
右をみても左をみても、海水が続き、岩が、魚たちが、海藻類が至る所に見え隠れするのだ。傍には鮮やかなオレンジがかったピンクの髪の人魚が微笑みながら、リアの手を引き、海の街を案内してくれる。
ただ、ずっと海水の中にいると、目がそれに慣れてしまい、ここが海の中であるということさえ、ついつい忘れそうになるのだ。それでも尾を動かす度に泡が生じ、陸地ではそのようなことはなかったから、やはりここは海の中なのだと、陸のことなど知る由もないのに、変な感覚がリアの中で付きまとった。
「リア。……私は、人魚の……リア」
「……ええ、そうよ。リア」
ああ、ここは海の底。
人魚が住まう海の街。
それで、多分、私はリア――……。
to be continued……

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秘密の地下鉄時刻表―世界の子どもシリーズ―更新日
第1・第3土曜日
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