世界の子どもシリーズNo.16_過去編~その手に触れられなくてもepisode8~
ネロが姿勢を戻すと共に、会場内のトキの時計の長針がかちりと十二の数字を示す。それに合わせて時計の文字盤は淡く、白にしては黄色がかった光を放ち、鳴り響くのは、不思議な鐘の音色。
会場中の多くの者が時計に意識をもっていかれるなか、ネロが微かに視線を、今まさにカイネが通ってきたばかりの時空間の渦があった箇所へとやったのだ。
……まだ誰か来るというの?
恋人のこの目配せの意味の何となくを予想できても、先ほど確認した限りでは、これ以上の参加国は想像がつかなかった。
けれど、時計の鐘がぴたりと止むと同時に、やはり、大きな時空間の渦が現れたのだ。
さらなる参加者が、それも式典の開始の合図のあとでの登場であることに、会場からヒソヒソとした声がもれてくる。
それに対しネロは、あたかもムーの姫はこのことを承知だという笑顔で、「参りましょう」とカイネに右手を差し出してくるのだ。身体の向きは、舞台の方ではなく、渦の方。
一国の姫の判断としては、ネロの今の笑顔は胡散臭い。これが関係の浅い国の王子かつ、密かに問題を発生させた愚王子のように知識も力もない男であれば、絶対に仮を作りたくない。
けれど、一国の姫として、ネロのこの胡散臭い笑顔と日ごろの立ち居振る舞いを考えたときの結論としては、絶対に仮を作ってでも彼を王子としても信じたほうがいいのだ。
ネロは決して、王子としても媚びというものを売らない。ダンスは苦手だと一切踊らなければ、自ら交流のために会話を回すといったことも絶対にしない。けれども、それ以上の力と知識を彼は持ち、必要に応じ、絶妙なタイミングで彼はその知識と魔法を披露するため、周囲からの評価も高ければ、信頼もあるのだ。
そして彼があまり好まない王子としても振舞いというのも、たとえベースが仏頂面のままであったとしても、挨拶やマナーは怠らないのである。不愛想の中でも段階があり、挨拶の瞬間や会話中は最低限の表情を保ち、目上の人に対してはある程度の作り笑顔を周りが許容する範囲で出していくのである。それが最大レベルで作られている今、ムーの姫としても、アヴァロンの王子が敬意を示す招待客に敬意を示さないなどあり得ないという判断になるのだ。
そして恋人としては、彼の手をとる一択しかカイネの中にはない。
悔しいけれど、やはり彼には全てが敵わないのだ。カイネが剥れることを、姫として困るであろうことを予想して、先に怒りや不安以上の喜びや安心を与えてくれているのだから。
いつもいつも、彼には敵わないという想いを、彼は弱き者として降伏させるのではなく、カイネにとって頼れる男性であり、素直に守られる女性として頼らせてくれるのだ。
カイネはネロに倣い、あたかも予定通りであるかのように優雅に頷くと、その手を取った。
ネロの一歩に合わせ、同時に歩くほうがいいと判断し、二人でまるで儀式のように、ゆっくりと渦に向かって歩み進めていく。
それに気づいた他の参加国は、囁き声を徐々に大きくしていくのだ。会場内のエネルギーと視線は、警戒と好奇に満ちていた。
すると、渦から人影が現れてすぐ、ネロはぐっと、手を取り合ってるからこそ伝わる程度に、カイネの掌に指の腹でひとつのマークのようなものを書き記したのだ。
「…………」
「…………」
表情こそ微笑を浮かべたままであるが、カイネは内心驚きを隠せないでいた。ただ、ネロがどうして今日は白い魔導騎士服をわざわざ着用していたのかまでの合点がいき、密かに息をのんだ。カイネは恋人が自分に向けてくれたこの全面なる信頼と、重圧なんて言葉では片付かない無茶ぶりに全力で応えるべく、ネロの合図を見逃さぬよう、二人が触れ合っている手に神経を集中させた。
ネロがまたも周りには見えぬ程度に、カイネの掌をなぞるように指の腹を滑らせながらその手を離していく。これが、合図。
目線は、前を向いたまま。本日のメインゲストの顔が、その身体が露わになった瞬間に、二人同時、ぴたりと息を揃えてお辞儀をする。
ネロは右手を左胸の金の文様に重ねるように添え、左手を腰の後ろへと持ってきて、右足をひき、とても恭しく。
一方のカイネは、右足の方がより良いが、今回はあえて左足をひき、ドレスを摘まんで深々と、けれど可愛らしさが残るように。
「おお」
「あら、まあ」
ご夫妻の声にあわせ、ネロが立ち上がる。それに合わせて、カイネはあえて一拍遅れて、続いた。そこからはもう、緩むことの許されない緊張の糸で繋がれた挨拶の儀が、始まる。
今のネロとカイネは見えない一本の糸で繋がれた対の存在。ネロの動きに合わせて、カイネが。カイネの動きに合わせてネロが。お互いにお互いがまるで鏡であるかのように、左右対称となるよう、動いていく。
ネロは中央の道を開けるように身体を横向けると、右足を大きく一歩分後ろへ引き、さらに歩幅をその半分ほどにして、軽く跳びはねるよう左右左左右、とわざわざステップ音を響かせながら、渦から見て右側へと下がっていった。対するカイネは、左足を大きく一歩分後ろへ引き、渦から見て左側へと、ネロと歩幅を合わせながら右左右右左、とこちらも負けじとこれでもかというくらいに音を響かせて大理石の地面へとステップを踏んだ。
左右左、左右左、左左右。左右左。
右左右、右左右、右右左。右左右。
軽やかに飛んでは、ステップを踏む足と反対側の顔付近へと両手をあげてクラップしていく。
会場の広さに合わせて、それ以上は下がれないという絶妙な位置で、今度は身体の向きを斜めに同じステップとクラップを踏みながら、弧を描くように移動していく。
そうしてネロとカイネが手を取り合った位置で再び巡り合ったとき、互いに目を合わせ、今度は添えるだけでなく、しっかりと手を取り合う。今からは左右対称ではなく、これまで互いが踏んで来たステップを交互に、共に行っていく。進むはゲストが待っている渦の方向。
まずはネロのリードに合わせて右のステップを踏んでいく。そして、ステップの交代の際、ネロがカイネの背に手を添えるのを合図に、カイネは身体を思い切り反らし、左足を軸に遠心力を利用しながらくるりと全身を大きく一回転させる。それにはネロの支えと、絶妙な頃合いでネロも同じく回転し、位置を交代してくれなくてはならない。
それを移動しながら四回ほど繰り返し、最後はカイネのパート、左のステップを踏んでいくのだ。
そうして戻ってきたお辞儀をした位置でピタリと止まると、手を繋いだままにカイネは右手でドレスを摘まみ左足をひいて、ネロは左手を腰の後ろに右足をひいて、二人同時に深々と一礼する。
二人が織り成すステップ音というのが響かなくなったからだろう、会場は静寂に包まれた。けれど、何処からともなく漏れ出た感嘆の息と堰を切ったかのような拍手を合図に、ネロとカイネはそのまま息ぴったりに片膝をつき、頭を下げると、カイネは右手を、ネロは左手を目の前のゲストへと差し出した。
「おお、よろしく頼むよ」
「懐かしいわ。素晴らしい舞だったわ」
それぞれの手に、黒い手袋が装着された手が、乗せられた。
ネロとカイネの視界に移るのは、自身の手の上に預けられたゲストの手と大理石の床のみ。互いの様子も、表情も分からない。
けれど、二人の声は見事に合わさるのだ。
「「光栄にございます」」
同時に腰を低くしたままにネロは旦那様の右横へ、カイネは奥様の右横へと移り、ご夫妻をお席まで案内する大役を承る。
奥様の黒いロングドレスよりも絶対にカイネのドレスの裾が一ミリでも動きに合わせて前へと出ぬよう、細心の注意を払って。
旦那様の黒いスーツよりも絶対にネロのマントが一ミリでも動きに合わせて前に出ぬよう、最大の敬意を示して。
二人は歩き進めた。
「まさか、原初の星からお越しくださるとは」
「素晴らしい舞を見させてもらった」
「本当にこのプロジェクトは平和を願う都市となるのね」
盛大な拍手と共に聞こえてくる、ゲストの到着に対する喜びの声。
原初の星は、宇宙で最初の生命体が生まれたと言われる星であり、宇宙中の星々の中で最も古い歴史を持つと言われている。お二人は原初の星のかつての王と王妃で、多くの星々の誕生と発展を見守り、助力し続けた。けれども、多くの星が増えて力をそれぞれが持ち過ぎたのだろう。いつしか宇宙中の星々で、戦や争いが生じ、それらはついに、絶えなくなってしまった。それにひどく心を痛めた王と王妃は職務を引退されたのだ。
宇宙のどこかで何かが生まれる時、そこには必ず「はじまり」があり、全てに必ず「おわり」というものが存在する。引退なさった二人は、どこの星にもはじまりを伝えず、どこの星にも終わりのその先を伝えなくなった。そして、原初の星のはじまりの国と終わりの国の狭間に小さな家を建て、そこで王と王妃としてではなく、仲睦まじい夫婦として余生を穏やかに過ごされていたのだ。もう、原初の星にはこのお二人以外は住んではおられない。
争いがなくならぬこの宇宙の中で、彼らは「はじまり」と「おわり」を知るからこそ、どの宇宙の集まりにも顔をお出しにはならなくなったのだ。
カイネやネロ、若い姫や王子はお目にかかるのは初めてのことであり、ここにいる歴史の古い国の王たちであっても、一度か、二度、お会いしたことがあるかどうか。
そんなご夫妻が、わざわざ、平和の為に開放される中立都市、サンムーンの式典へと特別に出席なさってくださるのが今回の式典の目玉であり、それがアヴァロンが示す平和への想いなのだろう。
カイネも古い本で勉強した程度の知識ではあるが、原初の星での正装は黒であることを知っていた。全身の全てを黒で統一し、帽子を被られるのだそうだ。
メインゲストとドレスの色が被るのは、もっての外。
けれど、カイネはいつも通り、白い舞踏用のドレスにブラックスピネルの装飾で固めてきている。
対するネロも同じく、白い魔導騎士服に革靴や小物は黒で揃えてきているのだ。
さらに言うと、今のカイネとネロは共に黒髪である。
黒を大切になさるご夫妻の色を引き立てつつ、敬意を示すためにネロはカイネの服装を見越したうえで、自分の服装もまた揃えてきてくれたのだ。
ぶっつけ本番でなんて難易度の高い舞を要求するのかしら。でも……
ネロはきっと今、王子としての笑顔を保っているのだろう。カイネももちろん、息ひとつ乱さずに柔く微笑んでいるのだから。
けれど、カイネの心の内は、たくさんの感情が入り乱れていた。よく訓練されていなければ、微笑など浮かべることなどできていないだろう。
気を抜けば、奥様の手を握らせて頂いているのに、震えてしまいかねないくらいに、踊り終えても尚、お席までのご案内という大役の緊張はこれまでに味わったことのないものであったからだ。
恐らく、本当はこの原初の舞はもともとのプログラムには入れていなかったに違いない。
けれど、カイネの招待状に細工がされているのに気づいたネロが、アヴァロンの王に頼み、このような形にしてくれたのだろう。
ネロはこのようにサンムーンを繋いだアヴァロンとムーが原初の星に最大限の敬意を示すという形で、カイネにエスコートがなかったのではなく、カイネがエスコートをさせて頂く立場へと変えてくれたのだ。
そうすることで、ムーが我こそが一番だというような戦争の火種ともなりかねない誤解を招く印象を与えずに済めば、秘密の恋人を明かすことなく、一人の女性としても、カイネは惨めな思いをせずに済んだのである。
最も、このことを知らされていなかったので、会場入りしてすぐの時のカイネの心情は言うまでもないが。
けれどもそんなことが吹き飛んでしまうくらいに、カイネの胸は愛しさでいっぱいになっているのである。
原初の舞はとても、難しい。それを練習なしで舞うなど、通常ならばあり得ないことであった。
それでもネロは、カイネならば踊れると信じてこの大事な式典でカイネを守るためにそれを実行し、ネロもまた見事に踊り切ってくれたのだ。
信じてくれたこと。大役を任せてくれたこと。守ってくれたこと。共に踊り切ってくれたこと。
そのどれもがカイネには嬉しくて、ただただ、恋人としても、王子としても、惚れ直すしかなかった。
日頃からとても訓練しているというのに、どうしても緊張も相まって、この恋人への想いから生じる頬の赤らみを隠すことができなかった。
すると、ご夫妻は多くのことに気づき、気づかないフリをしてくださっていたのだろう。
奥様が赤らむカイネに向かい、柔く目を細めた穏やかな笑みで、この距離でしか分からないであろう小声で仰るのだ。
「あなたの彼、とても素敵ね」
カイネは目を見開き、このお方には嘘をついてはいけないと、微笑みながら「はい」と返事をした。
ご夫妻が座られるのは会場にある席ではなく、アヴァロンの王が控える、舞台の上。カイネは無事にどのテーブルにも腰かけず、ご夫妻の案内役として奥様の斜め後ろの席に、どの国にも失礼のない形で腰かけることができたのだ――……。
to be continued……
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