私の散歩コース
「やあ、おはよう。今日も来てくれたんだね」
彼が今日も私に声をかけてくれる。もうすっかりと、彼の吐く息が白く染まり始めて、気が付けば私たちが歩く道には紅葉が多く散らばっている。
彼はその手に箒と塵取りを持ち、旅館の前の道を綺麗に清掃していく。山を紅く染めるその葉は美しく、散りゆく様は人々の心を揺さぶり、道に落ちてなお、季節を感じさせてくれる紅葉。けれど、それらが美しく感じられるのは、彼のように、人々が歩きやすいようにと、道を綺麗にしてくれる人がいるから。
もし、紅葉が積もり積もって行く手を阻もうものなら、きっと美しいの一言だけでは済まないのだから。
私はいつも、彼の挨拶に静かにお辞儀をして応える。だって、恥ずかしいんだもの。これ以上、近づけるものですか。
だけど、彼はそんな私を悪く言うでもなく、お辞儀の挨拶に嬉しそうに微笑んで、また黙々と清掃を始めるのだ。
彼は老舗旅館の一人息子。大学を卒業して、旅館を継ぐために戻ってきた。
私は彼より年下で、まだ島からは一歩もでたことがない。だけど、その分自由だから、毎朝こうしてお散歩するの。日の出前くらいに彼が清掃を始めるから、その時間帯に合わせて。
「じゃあ、また明日」
彼はひととおりの掃き掃除を終えたら、最後に旅館の看板を磨いて、戻っていく。冷たいであろうに、躊躇うことなくバケツに手を突っ込み、大切そうに、それは丁寧に看板を磨くのだ。
そんな彼の姿を見届けて、私も散歩を続行する。けれど、今日はまだ去りたくなくて、彼の姿が旅館の中に消えてみえなくなるその瞬間まで、そっと見ていた。
ああ、振り返ってくれたらいいのに。
だけど、朝の旅館の仕事は盛りだくさん。だから、私に彼を止める権利もなければ、その資格もないの。だって、私では彼のお嫁さんにはなれないんだから。
本当は知っている。彼はこの春に旅館に戻ってくると共に、時間を見ては東京という大都会へと通っていることを。
そこで本格的に旅館を継ぐための勉強会に参加しているんだって。
それで、この間聞いてしまったの。もうすぐ、着物のよく似合う、笑顔の素敵なお嫁さんを連れてくるって。
器量も良くて、それで手先も器用。茶道をしていたことがあって、彼の元へと来るために旅館の仕事も勉強しているんだって。
ここの従業員の人はみんな言ってるわ。こんなによくできる若旦那と若女将がいれば、この旅館は安泰だ、って。
やっぱり振り向いてはくれなかった彼の元に、噂の未来の若女将が綺麗な着物姿で駆け寄っていくのが、自動ドア越しに見えた。
どうして私ではダメだったのかしら。
確かに年下だったけれど、もうちゃんと女性と呼ばれるようになって、同世代の男の子にはちょっとばかりモテるのに。
島に訪れる観光客の人にだって、「あの子、かわいい」なんて言われることもしょっちゅうよ。
確かにお料理はできないわ。それに着物だって、あんな風には似合わない。だけど私、紅葉の清掃とかは得意だったのよ。きっと、あなたのこの朝の作業を減らしてあげることが出来たと思うの。
まあ、茶道だって習ったことはないし、島からは出たことがなくって、都会を知らないままだけど。
分かってる、分かってるわ。私ではダメだってこと。
それでもね、あなたに会いたくて、毎朝の散歩はやめられないの。少しでも長く、一度でも多く、あなたのその笑顔がみたいから。
でもね、世間知らずな私でも、知ってるのよ。旅館の経営ってとっても難しくて、大変なこと。それは才能があったとしても、時にどうしようもなく、困ることもあるってこと。
あなたが今、大変なのもちゃんと、分かってる。だけど、私にはあなたに何かしてあげられる権利も資格も何も持たないから、ただ見つめることしかできないの。
恋人でも婚約者でもない、散歩で顔を合わすだけの女の子。もう未来の若女将が決まっている老舗旅館の若旦那に恋をする、ただの女の子。
それでも、報われない恋でも、あなたが毎朝挨拶をしてくれるから、あなたに何かをしてあげたいって、思ってるの。少しでも長く、一度でも多く、あなたのその笑顔がみたいから。
だけど、そんな思いを抱えていても、あなたは振り返ってさえくれない。だから、そろそろこのお散歩コースを変えようかとも悩んでる。
ああ、そろそろ帰らなくっちゃ。すっかり、明るくなり始めたわ。
「君、綺麗だね。ねぇ、ちょっとだけ、モデルになってくれない?」
だけど、今日は彼以外にもう一人、ここを散歩していた人がいたみたい。白い息を切らしながら、使い古された一眼レフのカメラを手に、私にそう言ってきた。
私は少し悩んだ。正直、去ろうと思った。だって、綺麗って言われても、困るもの。彼以外には。
「ははは、つれないなぁ。頼むよ。もうすぐこの辺りにも綺麗な日の光が入り込む時間なんだ。今日は気温も最高なんだよ」
あまりにも切実に頼むものだから、私はもう帰り始めていたのだけれど、テクテクと引き返す。
いいわ、撮るなら、彼の旅館の看板前。これ以上は譲れないんだから。
私は彼の旅館の看板の前で振り返り、カメラの方をじっと見つめる。
「! いいねぇ。最高だよ」
そう言って、その人は何枚もシャッターをきった。私の背に、日の光が当たりはじめ、島を散策する人の声が響き始めて、私ははっとして、慌てて帰り始める。
私、恥ずかしがり屋なの。朝に会うのは彼だけって決めてたんだから。それじゃあね。
「いい写真がとれたよ。ありがとう」
去りゆく私にそう言って、そのカメラを持ったその人とはそれきり、会わなかった。
それで、その日を境に、私は彼の元へはたまにしか行かなくなった。
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「あら、おはよう。今日も来てくれたのね」
だって、毎日の清掃を若女将が担当することになったのだもの。
じっと、見つめていたら、若女将がニコリと私に微笑んでくる。
「あなたのおかげでね、旅館が話題になって、今満席で大忙しなの。ありがとね」
そう彼女がとても嬉しそうに言うものだから、私はもう、つまらないヤキモチを焼くのはやめた。
初めて、彼女に向かってお辞儀をする。
「まぁ! 私にも挨拶してくれるのね? これで私もやっと認められたような気がするわ」
もう、とっても素直なんだから。そう言われると悪い気がしないわ。かつて私が恋した人は、女性を見る目があったのね。やっぱり、また毎朝の散歩コースはここに戻すわ。若女将が清掃担当であっても。
私はいつもよりもゆっくりと、帰り始める。
「ああ! いたー! 縁結びの鹿ちゃん!!」
「本当だぁ! 本当に背中にハート模様がある~!!」
「やっぱり、この旅館にして正解だね」
「待って待って、私たちにも写真撮らせてー!」
私は恥ずかしがり屋だから、彼以外の人と会うのは好きじゃないけれど、いいわ。だって恋する女の子の気持ちはわかるもの。
みんなの恋が成就しますようにって祈りながら、ゆっくり散歩してあげる。