世界の子どもシリーズ

世界の子どもシリーズNo.2_未来編~その扉の向こう側にepisode2~

2024年8月17日

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世界の子どもシリーズNo.2_未来編~その扉の向こう側にepisode2~

 

 巨大月投石の前に、一列に横並びし、村長の声を待つ。生温かい風と湿気の残った地面の感触から、雨上がりの厄介な捜査であることが誰に言われなくとも感じられる。

「では、これより捜索に向かってくれ。保護対象は二名。年齢は二十八歳男性と二十六歳男性。隣の集落を出たという狼火が確認されてから、もうすぐで二十四時間が経つ。どこかでケガをしたか、あるいは……月損病にかかり、彷徨っている恐れがある。無事、連れ戻してきてほしい」
「「はっ」」

 鋭く、短い風を切る音がいくつか重なり、全員が敬礼の動作をとったのが分かった。それに対し、村長がいつも通り、班員皆の顔を見渡して、静かに頷くのだ。

「行って参ります」
「どうか、無事に帰ってきてくれ」

 ざざっと、また短く風を切る音がいくつも重なり、それらは数秒置いて、土を踏むものへと変わっていく。ミーナとカントももちろんそれに続いたが、今日はいつもと違い、二人が敬意を抱く以上に愛情を感じる声が、その足音を響かせるのを止める。

「ミーナ、カント」

 その声は日頃の村長としてのものではなく、二人が子どもの頃に頼っては、愛を与えてくれた、グレンとしての優しいもの。

「くれぐれも気をつけるように」
「はい」
「ご心配、ありがとうございます」
「お前たちはまだ十六歳。先日、成人したばかりだ。まだ子どもと言っても……」
「いえ。大丈夫です。成人してすぐの私たちが一番、月損病にかかりにくいです。どうか、お任せください」

 村長の言葉を遮り、ミーナがきっぱりと答えた。けれども、村長は常に穏やかなその眉を僅かに下げ、どこか伏せがちな瞳で、続ける。

「子どもという表現はいささか失礼だったかもしれないな。そうではないのだ。若いものに無理をさせたいわけではない。お前たちにも……他の者にも」
「……はい」
「命の危機を感じれば、すぐに帰ってくるように」
「……ありがとうございます」

 ミーナとカントは再び軽い敬礼をし、村の入口で待つ、班員のもとへと足早に向かう。
 村ごとに幾望団という調査班が作られるようになったのは、ミーナたちが成人する数年程前のことである。そのあたりから、圧倒的に月損病にかかる者が増え、それに伴う月投石の使用量も増加し、月投石の量が不足し始めたのだ。もともと、月投石自体の光も日に日に弱くなりつつあった。さらにそれらを塗料としてだけでなく、砕いて欠片を全員に配り始めたものだから、月投石は減りゆくばかりになってしまったのだ。
 この状況を打開するために、成人済みの訓練された若い層を調査に出し、海際で月投石の欠片を探しに行くのが開始されたのである。その他にも時間があれば月投石や月損病の原因の調査も行うこともある。
 けれど昨今は、こういった調査以外にも、集落間での移動や狩りに赴いた際の行方不明者を見つけ出し、保護するという任務も含まれるようになった。むしろ、最近ではそういった機会の方が、多いのかもしれない。
 ミーナはこの幾望団が結成されたその刻から、ここに入ることを夢みて訓練を続けてきた。まだルーキーながらも、それなりの実績を積めていると自負している。もちろん、若いからこそ、月損病にかかりにくいという奢りもあるのだろう。
 ただ、そんなミーナをグレンは心配してくれている。それは村長であることや親代わりに育ててくれたということ以上に、ミーナは調査が入れば、すぐに志願するからとも言えるだろう。
 まだ特段大きなケガもしたことがなく、月投石の欠片の回収率がよいことや、行方不明者の保護も失敗したことがないから調子に乗っている部分もあるのかもしれない。ミーナ自身もそれを何となくは自覚をしている。それでも、ミーナは機会さえあれば、一回でも多く、外に出たくて仕方がなかった。どうしても、もう一度、光を浴びたいと願ってしまうのだ。あの刻、耳がよいばかりに母との合流の機会を損なってしまった。けれど、幾望団にいればちゃんとそれは役に立ち、何かを失うのではなく、誰かに与える機会に変わるかもしれない。そして、調査を続ければ、いつかまた、明るい世界で生きることが出来るかもしれない。明るい世界で、ちゃんと前をみて、誰かの表情や美しい景観と共に音が聞けたら、どれほどに素晴らしいだろうか。そう思うと、太陽の空想が止まらないのだ。記憶の中の絵本の一ページを胸に、子どもみたいな夢をいつまでも捨てられないのである。

「今日だって、絶対に失敗しない」

 ぐっと背筋を伸ばし、村の門の向こうに続く暗闇を見据える。その先には見えないだけで、森が続いているのだ。

「頼むから無理するなよ」

 風が流れる音よりもくっきりと響くのは、すぐ傍にいるカントの声。彼は絶対に、ミーナの独り言を聞き逃してくはくれないのだ。
 門へと近づくにつれ、村の中といえど、暗さは深まる一方。何となく視線もカントの方へと向けてみたものの、この暗さではやはり表情はそれほどによくは分からなかった。けれど彼の髪や瞳のオレンジは、遠くの巨大月投石や松明の光でも十分に、そこに明るさを加える。

 カントは常に太陽を自分に持っているからいいな。

 ぼんやりと表情の分からないままにカントをみながら、ミーナは素直にそう思った。それと共に、例えば歩幅をミーナにあわせてくれていたり、歩く音に一切の躊躇いがなく堂々としていたり。優しさや頼もしさの伴う彼のそれと先ほどの声色は、もう決してミーナをからかうようなものでないのが疑うまでもなく、分かってしまう。
 ミーナも仕方なく、羨ましさを純粋に受け入れ、子ども扱いについ過敏に反応してしまう自分自身の心をちゃんと抑え込んで、ただただ真剣に返事をする。

「無理しない。約束する」
「絶対だからな」

 ミーナの言葉に納得したようで、どこか満足気なカントの声が響いた。それに合わせて彼は急に歩調を速め、ミーナよりも前へと出てずんずんと進んでいく。

「だめよ、ズルいわ」
「なんだよ、歩いてるだけだろ?」

 このまま先に行かれると、移動時の先頭をとられるのがお決まりなのだ。ミーナは慌てて早歩きするカントを駆け足で追い越し、門の向こうで陣を組む他の班員に混じり、いつもの自分の位置へとつく。背後でカントのため息が聞こえたけれど、それは聞こえなかったことにして。

「よし、いいか? 十二時間以内の保護及び帰還を目指す。見つけたものは発見用の狼火をあげるように」
「「はっ」」

 班長が全員の返事を確認したところで、村の外へと出る赤色の狼火を打ち上げた。暗闇の中に赤い一筋の線が、弧を描くように光として放たれる。これらは昔、花火として使われていたものを参考に作られたものだ。
 この暗闇の世界では、時間が分かるのは各村で管理している巨大砂時計だけ。故に狩りや幾望団の調査があるときは、出発から始まりその後も六時間に一度ほど、村から狼火があげられるのが決まりとなっている。
 暗闇の中を進むのにこの狼火は有難く、時間という概念でいうならば、それだけが頼みの綱でもある。けれど、そもそも狼火自体が貴重なのは言うまでもない。今回の捜査は状況的に恐らくは体力よりも時間との勝負だろう。何とか狼煙を無駄に消費せずに、対象者を連れて帰りたいとミーナは班長の足音を合図に、暗闇へと駆け出していった。
 捜索活動はミーナとカントのペアを含む三ペアが東に、班長たちを含む二ペアが西に動くことで決まった。
 基本的に月損病の発症のことを考え、幾望団では誰かとバディを組んで動くことが決まりとなっている。さらに暗闇の中で動くのは月損病だけでなく、常に危険がつきまとうため、万が一のことに備えて、全滅を回避するのに班を二手に分けることが多い。用心を重ね、二手に分けたチーム内でも、移動する道に沿って左右に分かれ二列で動くことが暗黙のルールでもあった。
 そのため東と西で分かれてすぐに、ミーナたちは走るペースは揃えながらも自然と左右に分かれての捜索を開始した。ミーナとカントは左側を。残りの二ペアが右側を見るといった形だ。
 湿った土の道を一定のリズムで蹴りながら走り進んでいく。この辺りは光がないというのに、不思議なことにまだ自然が残っている。整備された道を挟む形で左右に木々が立ち並び、小さな森となっているのだ。これらが実りを残してくれているので、ミーナたちも動物たちも何とか生きられているといっても過言ではなかった。
 暗闇の隙間から森の奥向こう側まで視線をやるも、特段、月投石の欠片や焚火の灯りは見当たらない。村の外へと出る際、特に調査のときは、幾望団は火を使わないようにしている。長く外に出るのは月損病のリスクを高め、さらには暗闇での野生生物との遭遇は瞬時に命の危機へと変わる。そのため、ミーナたちは迅速かつ野生生物を刺激せぬために火を使わずに走って移動するのである。それらが可能なのは、村から続く整備された道という道は、ミーナがハウス内の家具の配置を理解しているように、全員が訓練に訓練を重ね、僅かな月投石の欠片の光で動けるようにしているからだ。けれどそれでも、絶対という言葉が存在しないというのは、こういうことだというのを、現実は突きつけてくるのである。どれほどに訓練を重ねても、暗闇の中の移動、野生動物のいる村の外での行動は、当たり前のように命の危険を伴うことが多くあった。
 ただ、そんな状況下でもひとつよいことを見出すとすれば、もし村の外で火を使うものがいれば、すぐに保護対象者だと分かるということだろう。
 自分たちの光と音以外は特に拾えないまま何キロを進んだだろうか。
 このまま道なりを真っすぐに進めは海岸へと辿り着く。見つからなければ海岸沿いを捜索した上で、狼火を確認後に森の中まで進むこととなるだろう。森の中には猛獣なども生息しているため、闇雲に進むのは危険だ。しかも森の中へと進むには数少ない月投石の欠片を道標として木々に括り付けていかねばならない。出来ればここらで保護対象もしくは手がかりを見つけて、最短ルートで進みたいものだ。
 そんなことを考えながら進んでいると、頬にぶつかる風に動きがみえたのだ。潮の匂いが鼻をくすぶり、音にも微かだが、波が岩々にぶつかるようなものが混ざり始める。今日のミーナたちは思ったよりも早いペースで進んでいたようだ。この位置から海岸までは、それほど遠くはないだろう。ただ、この音と風の感覚でいうならば、いつもよりも波は荒いに違いなかった。

「ミーナ、一旦、海岸沿いへ行こう」
「分かった」
「こちらも分かった」
「了解だ」

 カントの声に反応して、ミーナだけでなく、全ペアの返答が響く。スピードはそのままに、目的地を海岸へと定め、ミーナたちは走り続ける。
 ひとたび走ることに集中し始めると、誰かの声が聞こえるほっとするような瞬間は嘘のように消え去り、闇夜の中の静寂な時間へと戻る。そうなると、ただひたすらに、一定のリズムで刻まれる人数分の足音だけが、周りにヒトがいると確認できる術となるのだ。
 視界に入るのは、果てしなく続く闇。そこに自分を含む六人分の月投石の小さな淡い光が浮かび上がるだけ。誰の顔だって、見えない。誰かが声を上げない限り、自分たちの存在を示すものは、この小さなペンダントの光と足音と。地面から感じる振動だけなのだ。
 ふと、ミーナは自分がちゃんと生きているのか不安になり、もう一度、首元の淡い光がちゃんと灯っているか、確認する。

 ああ、ちゃんと生きている。

 そっと、バレないように首だけを動かして、後ろのカントの光を確認する。すると、淡く青い光の小さな塊が、足音にあわせて前後に大きく揺さぶられるのが視界に映り込む。

 ああ、相方もちゃんと生きている。

「どうした?」
「何が?」
「……いや? 振り向いたような気がして」
「気のせいよ。それよりも波の音が近づいてきた。気を引き締めて」
「ああ、分かってる。だから先頭を変われ」
「嫌よ」

 内心、後ろを振り返ったことがバレたかと焦ったものの、そのままミーナは誤魔化しきった。自ら幾望団に入り、毎夜のごとく調査への参加を志願しているのに、闇に飲まれそうになったなど、恥ずかしくて知られたくなかったのである。それに、何かと森へと入る刻や海岸沿いへと進む際、カントはミーナを後ろへと下げたがる。確かに、体格的にも体力的にもカントの方が上だ。けれど、ミーナの方が耳がいい。そう、耳が、いいのだ。それがプラスに作用したのか、入団テストの成績もわずかばかりだがミーナの方がよかった。だからだろうか、事あるごとに先頭を変われと言われるのが、ミーナはひどく嫌なのだ。班全体で動くときは班長が先頭だが、二手に分かれるときは森に詳しいがため、ミーナとカントのバディが先頭を任されることが多い。そして、カントが前にいきたがるので、ミーナは最初の出発の刻から先頭をあえてもぎ取っておくのだ。

「分かってないな」

 またも小さくカントがボヤいたが、ミーナは無視することにした。
 ここで喧嘩しても意味がない。今は捜索に来ているのだ。そう言い聞かせるかのように小さく首を振り、意識を集中させる。視覚は左側森に、聴覚は波の音に。

 うん、波は荒そうだけど、昨日よりは落ち着いてそう。

 波の音はどんどんと近づき、音や日頃の経験から言えば、到着まであと数分というところだろう。この道なりに進めばまずは砂浜に出るので、そうなれば感触で分かるはずだ。しばらくはこのままのスピードで進んでも問題ないだろう。
 森はもちろんのこと、暗闇の中で海辺に近づくのもまた危険過ぎるといっていいくらい、注意が必要だった。波の位置を見誤ってはならないのだ。潮の匂いや音で慎重に判断しながら、浅瀬だけを捜査するに留めねばひとたび、命の危機に瀕するのだから。
 基本的に土砂降りや嵐といった海が荒れた後の海岸調査で月投石の欠片が見つかることが多い。ちょうど、一昨日は雨であった。行方不明の二人も帰りに月投石を探しに行った可能性も捨てきれないのである。

「ん?」

 波の音がこの辺りの音の全てを飲み混んでしまいそうな中、微かに草が揺れるような音がした気がした。するとそれは、程なくしてミーナたちと同じような湿った土を踏む音へと変わっていく。一定の速度を保つ自分たちのものとは別の、いつ転倒してもおかしくないような、足がもつれがちの、不規則かつ慌ただし足音。
 駆け足の音が六人分から七人分に増えたのが分かった。

「待って、止まって!」

 きっとミーナが耳で判断しているのを理解してくれているのだろう。誰の返事も響かないままに、ぴたりと自分たちの足音が止まった。そこから響くのは、ミーナの声では決して止まってはくれない波の音と、風がそよぐそれ。そこに捉えたばかりの慌ただしいいつ転倒してもおかしくない足音と、依然、草が意図的に揺らされるような、音。それらは激しさを増している。けれど、もうひとつの音が加わった瞬間に、ミーナは叫ぶ。

「近くにいる! 八時の方向! 追われてる!」

 追うような形で足音が、もうひとつ。ある意味で迷いのない、とても荒々しいもの。猛獣との区別をするとするならば、それらの音が二足歩行のものなのか、四足歩行のものなのかの違いくらいだ。

「ああああああああ」
「っつ、月損病!」

 ミーナが叫んですぐのこと。凄まじい勢いで追いついた大柄の男が、カントに飛びかかってきたのだ。カントはそれをかわせばよいのにわざわざ受け止めて、進行方向とは逆側へと男を弾き飛ばす。前方にいるミーナを気遣ったに違いない。

「だから、大丈夫って言ってるじゃない!」

 ミーナは再び力強く地面を蹴り、進行方向とは逆側、弾き飛ばされた男の背後へと駆けだす。手際よく素早くポーチから新しい月投石のペンダントを取り出しながら。
 もちろん男はこちらに気づき、例にもれず、勢いよくとびかかってくる。それが大切なヒトであろうが、大事なものであろうが。自分よりも強い猛獣であろうが、か弱い子どもであろうが。そんなことお構いなしに、動くものめがけて本能のままに攻撃してくるのだから、仕方がない。
 聞こえるのは激しい叫び声と荒々しい土を踏む音だけ。ミーナの視界の中で、闇夜に紛れて淡く光る青の色は、自分を含めて六つ。きっと、飛びかかってきた男は月投石を身に付けてはいない。何処かで落としたのがきっかけで、発病したか何かなのだろう。

「バカ、まだ気絶してない」
「だからよ。挟み撃ちで」
「くそっ」
「あ、ああああああああ」

 カントの声に反応するかのように、男がさらに声を荒げた。弾き飛ばされたことへの本能的な怒りによるものかもしれない。けれど、ミーナにとってはその方がありがたいのだ。

「そこ!」

 取り出したままに円を描くように振り回していた月損石を、叫び声がした方向へとミーナは思いきり投げつける。

「ぐわあああ」

 見事にそれは男の背中に命中し、月投石の光が暗闇に紛れる大柄な男のシルエットをほんの少し照らす。けれど、それだけ分かれば十分だ。
 男が振り返り、ミーナが首から下げている月投石を頼りに、明らかにこちらに標準を変えたのだから。ミーナは腰を低くし、身構える。けれども、男がこちらに向かって駆けだそうとしたその瞬間、カントの声が響くのだ。

「相手は俺がする」
「ぐわっ」

 カントの拳がヒュっという音と共に、男の鳩尾へと食い込んだ。それと引き換えに、男の奇声はぴたりと止んだのである。

「すまない」

 捜索中にカントがその言葉を口にすれば、それは相手が気絶したことを意味する。再び訪れるのは静寂な暗闇の、時間。それはまるで自分たちの心を表すかのよう。戦っているときこそ、それに集中しなければ、自分たちも、対象者も、その周りにいるヒト全てが怪我をする恐れがあるため、目の前のことしか考えないで済む。けれども月損病発症者が気絶して落ち着くと、とても、とても言葉にはならないもどかしい傷を、必ずどこかに残していくのだ。二人とも無言のまま、けれどミーナは手早く月投石で染色されたロープを取り出し、カントが抱える男の手足を縛っていく。

「大丈夫だった?」
「ああ」

 ミーナたちの音が静まり返ったからだろう。四人分の足音が近づいてきたかと思うと、ミーナたちの傍で四つほどの月投石の欠片が、二人を照らすように囲んでくれたのが分かった。

「あと一人いるはずなの。足音がさっきまで聞こえてたんだけど……」

 ミーナがそう付け足そうとしたその刻、左側で微かに淡く青い光が動いた。月投石だ。激しく前後に揺られているのが、遠目からでも分かる。
 耳を澄ますと、酷い息切れと、二足歩行のもつれるような、足音が。さらにそのすぐ後ろで、四足歩行のものが草をかき分けるというよりは、突っ込むような形で湿った土をとても軽やかに踏む音が響いた。

「獣だ。追われてる!」

 そう言うや否や、ミーナは森の方向へと駆け出した。

「ミーナ、止まれ!」
「カント、大丈夫よ。私たちが行くから。そのヒトをお願い」

 カントの制止する声がしっかりと耳には入ったが、対象は走っている。離される訳にはいかなかった。バディと離れるのは規則違反だが、今、カントは月損病にかかったヒトを保護している。今日の出動メンバーの中で、一番に力があり、体格がよいのもまた、カントだ。気絶した月損病発症者をカントがメインでみんなで運ぶことになることを思えば、カントは少しでも休む方がいい。

「ミーナ! 私たちも行く」

 ただ有難くも、他のペアがミーナの方へと付いてきてくれている。彼らの足音に迷いはなかったため、おおよそ、ミーナの考えに同意してくれていると考えていいはず。ミーナは分かりやすく伝えるため、胸元にある月投石の欠片を握り、対象がいる方向へと、それを向ける。

「こっち。獣はたぶん……」
「ワオーーーン」

 ミーナが言うよりも先に、獣はその雄叫びを暗闇中に高らかに響かせた。冷や汗と共に全身がブルリと震え、揃えようとした訳ではないのに、ただ自然と口を開いただけで、全員の声が偶然にも必然的に合わさる。

「「「狼」」」

 声の漏れない、乾いた笑みをミーナは浮かべる。そう、笑っていられないというのに、笑ってしまうのだ。……恐らくこの鳴き方は、仲間を呼んでいる。

「これは急いだほうがいいな」
「ミーナ、方角は?」
「ん、このまま真っすぐ」

 彼らはまるで音を隠す気がないため、方向は特別に耳を澄まさなくてもすぐに分かる。けれども森の木々が邪魔をして思うようにスピードが出せないのだ。おおよその木の位置は分かるものの、そこから伸びるトゲとなった木の枝はかなり近づかなければ、なかなかに見極められないのである。時折、よけ損ねたそれらが制服のスーツを掠っていく。

「っち、走りながらの森は最悪だな」

 仲間の一人がそう言ったその刻、すぐそばの木陰で叫び声が響く。

「く、くるなー」

 そちらの方向を向くと、男の動きに合わせて月投石が大きく揺れ、一瞬ではあったが、正面にいる狼の姿が照らされた。それはまさに、飢えた狼。闇夜でも鋭く、獲物を定めた瞳がまるで光っているかのように映り、毛並みの悪そうな少し痩せこけた身体で、前のめりになり、男に飛びかろうと、前足を一歩ひいたところであった。

「この距離じゃ間に合わん」
「私が行く」

 ミーナは男が首に下げている月投石の灯りを頼りに、一直線に走り出す。途中、木の枝が頬を掠め鈍い痛みを走らすも、気に留めず駆け続けた。ポーチから今日入れ替えたばかりの小柄なナイフを取り出しながら。やはり、塗り直しておいてよかった。その柄の部分はとても分かりやすく、砕いた月投石の染色が淡く青く光ってくれている。

「う、うわぁあああ」

 今、風は微かにしか吹いていない。この分ならばそこまで音は流れないだろう。安定的に揺れる木々の葉が擦れる音。男の叫び声と、背後の仲間の駆ける足音。走り続ける自分の地面を蹴る音と足から伝わるその振動。そこに紛れるのは、獣が地面をけり上げる微かな音!

「そこ!」

 ミーナは手早く一投目を投げ、その柄が指先から離れるその瞬間まで、風と対象の音を注意深く聞き続けた。予想よりも狼は高く跳び上がったのかもしれない。後ろ脚はかなり溜めてから、地面を蹴りあげた気がするのだ。中指と薬指の腹で、離れゆくナイフに数センチ分ほど、角度をつけて調整する。そしてすぐさま、次の一手に入るため、ポーチに手を突っ込む。

「キャイン」

 呻く狼の鳴き声に合わせて今度は先ほどよりも斜め前、二時の方向に向かって、念のためのもう一投を放つ。
 シュッと鋭く物質が空気を切っていく音を遮るように、ドサッと地面に大きな何かが倒れる音がした。けれどそれ以降、遠吠えも、呻き声も、足音も。全てがピタリと止んで、静かに風が吹き、草花が揺れる音だけが、続く。それはまさに、夜の森に流れる静寂なそれ。

「た、助かったのか?」

 男の声がするのを確認し、ミーナは地面から数十センチほど宙へと浮いているナイフの柄の部分についた月投石の光を頼りに、狼を確認しに行く。もちろん、手には三投目のナイフを握りながら。
 けれども、近づいてもナイフの先にあるものは動く気配はなく、ここでようやくミーナは安堵の息を漏らす。そして、ナイフをポシェットに戻す代わりに新たに取り出すのは、携帯用の小ぶりな松明だ。思いがけず救出どころか狩りにまで成功したのだから、きっと、この火は贅沢なんかではなく、堂々と使っていいものだろう。といっても、誰もミーナに火を使うことを禁じてなどいない。ただただ、ミーナが自分に厳しくそうしているだけなのだ。

「うん、狼の方は大丈夫」

 湿気にも負けず、マッチはちゃんとすぐに火を生み出し、松明へと移りそれを大きくした。その灯りが明らかにするのは、一本のナイフが突き刺さっている狼の姿。一投目の方か、二投目の方かは分からない。ただ、ナイフはしっかりと急所にあたり、その狼は既にこと切れていることだけは間違いなかった。

「ごめんね。みんなで大切に戴くから」

 数秒ほど祈るように目を瞑ると、楽にしてやろうと、ナイフをひと思いに抜き取る。そして、ゆっくりと立ち上がり、すぐそばの木に刺さっていたナイフを抜こうとしたその刻。

「あ、ああああああああああ!」

 先ほどまで腰を抜かしていたはずの男が、ミーナ目掛けて飛びかかってきたのだ。いつの間にか、男の首に掲げていた月投石は光を失っている。月投石の欠片はたいてい、二十四時間で光を閉ざす。男たちが村を出た時間と、ミーナたちが捜索を開始し、今に至るまでの時間。それらを足せば、既に二十四時間を過ぎていることなど、容易に計算できる。
 むしろ、月投石の欠片にしては、もった方だろう。

 油断した! なんでこんな簡単なことが、想像できなかったんだろっ。

「うっ」

 避けきれずに、男が体当たりしてきた衝撃でミーナは勢いよく後ろへと弾き飛ばされた。ちょうどそこに一本の木があり、激しく全身を強打する。

「ぐはっ」

 衝撃で息が詰まりそうになるも、山火事なんて起こしてたまるものか。決して、握りしめる松明からは手を離さなかった。ミーナが死守した光は、男がこちらに向かってきているのを視界の片隅に捉えさせる。

「ミーナ!!」

 こうなると、火は動くのに邪魔であり、相手の動きをみるのに必要であるのだ。仲間の声に合わせて、半ばこけるような形で、ミーナは男の次の追撃を横に避け、間一髪でかわしていく。

「あ、ああああああああ!」

 けれども、間合いを詰められすぎてしまったようだ。男がミーナの握る松明に手をかけ、軽い引っ張り合いとなる。火を持ちながら、大きくは動けない。けれど、その火が示すのは、男の向こう側で、月投石が二つほど揺れる、仲間が近づいてくるその姿。

 あと一歩だ。でも……。

「うっ」

 ミーナが必死で踏ん張るも、全身が押し出されていく。湿った地面は踏ん張るにはあまりにも土が柔らかすぎるのである。何度も何度も、ただその場に留まりたいだけであっても、足の位置を変えて踏ん張り直さなければならなかった。その足の動きで泥は掘り起こされ、さらに地面に残った水分を浮かび上がらせていく。きっと、気を抜けばすぐさま足をとられ、転倒してしまうだろう。前からは月損病にかかった男の腕力が、足元は自然の恐怖が、ミーナを闇に引きずり込もうとするのだ。
 それに負けじと、ぐっと足に力を入れ、握力の限り、松明をしっかりと握り続ける。

 あと、一歩で、仲間の一撃が……。

「ああああああああ!」

 素早さや、耳には自信がある。けれどもやはり、大の男との力比べは足場の悪さも相まって、ミーナには及ばなかった。

「きゃああ」

 ミーナは勢いよく、相手の力のままに、弾き飛ばされた。それとほぼ同時だろうか。男が仲間によって取り押さえられていくのがわかった。
 何とか、持ちこたえたか。そう思ったその刻、横にあったはずの木が地面から生えるその方向を縦から横に変えたように見えたのだ。突然にぐらりバランスを崩した身体が、ミーナの意図に反し、大きく背後へと傾いていく。

「え?」

 気が付けば、足元の土が崩れ去っていた。

「ミーナ!?」
「ミーナ!!」

 何故か、空の方向に仲間の月投石の光が揺れているのが確認できたのが不思議でならないのに、どこか心の奥底の冷静な自分が、それを受け入れていた。ちょうど、先ほど向きを変えたなかりのあの木が、自分の横で共に宙を浮いている。

 ああ。ピンチの時、刻が止まったように見えるというのは、こういうことか。

 頭の中では冷静さを保とうとそんなことを考えているのに、身体はしっかりと恐怖を感じているのだろう。気が付けば全身が緊張と委縮で強張り、ミーナはいつの間にか叫んでいたのだ。

「きゃああああああああああああ」

 ミーナが弾き飛ばされたその先は、崖だった。
 悪天候後のぬかるんだところを、環境の確認をせずに動き回ったものだから、地面ごと、崩れてしまったのだ。

 真っ暗闇の中、ミーナは宙に投げ出されて初めて、そのことに気が付いた。

 

 

世界の子どもシリーズNo.3

 

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