世界の子どもシリーズNo.7_過去編~その手に触れられなくてもepisode0.99~
こちら直接的な表現はありませんが、津波や災害を連想させる言葉や描写があります。苦手な方は該当シーンを飛ばし読みするなど、何卒、無理してお読みなさらないでください。
ノミが食い込んだ箇所から、とても頑丈そうにみえる柱の天井近くまで、一気に亀裂が広がっていく。けれどそれは星が視せたものと似ているのに、天井付近で亀裂の広がりが一旦止まったものだから、すぐに崩れはしなかった。
自分でゲンヤに解体を命じたものの、彼を疑ってなどいなかったが、これほどまで見事に崩壊せずに保たれていることに驚きを隠せなかった。緊張をもはらんでおり、声にならない喉の震えが、微かな息となって零れ出る。すると、ゲンヤは躊躇うことなく、今度は弱く、印をつけた箇所にノミを打ち込んでいくのだ。
「ははは、見事でしょう? これほどまでに崩壊と解体は違うんです。……もちろん、解体といっても失敗すれば崩壊はします。だからどうか、私の腕を信じてくださいとしか、言えないですね。私自身も少しでも気を抜いたら手が震えて、思い通りに道具を扱えなくなるでしょう。……この緊張感の中でもこの作業をひとりで出来るのは、ムーの王命を頂戴し、ここにミアと言う……守るべき存在がいるからです」
ゲンヤはこちらを向くと、照れくさそうな笑みを漏らした。厳しそうな雰囲気は日頃の彼の言動にも由来しているのだろう。ミアは父の職人としてのその姿と、きっと普段ならば言わないのであろうその言葉を、とても真剣に見つめ、聞いていたのだから。
「……いいか、ミア。次の一手で、この柱が壊れる。だが、私が上手く倒せば、横の柱たちが支えになり、まだこの増設中の神殿自体は壊れない。柱を壊していく順番をこちらでコントロールし、ここの天井が本殿ではなくこの真下にそのまま落とすことができれば、大きな被害を食い止められる。……無論、多少の煙や小さな破片は市場の方まで飛ぶかもしれんがな」
ゲンヤは手を止め、両手に握っていたノミと金槌を片手に持ち直すと、黙って彼の言葉を聞くミアへと歩み寄る。そして、あいた方の手で軽く叩くように彼女の頭を撫で、そして、やはりどこか憂いを残しながらも笑みを浮かべたままに言うのである。
「最初の柱が壊れたら、お前の出番だ。音と煙はあがるだろうが、まだ市場まで大きく目に見えて騒ぎにはならないだろう。だが、横の本殿にいる人たちは違う。お前が真っ先に、本殿の人を連れて、逃げるんだ」
ミアのオレンジ色の翼が小刻みに揺れたのが分かった。それが何を意味するのかが分かり、言葉を詰まらせる。今の私には、せめて黙ってそれを見守ることしかできないのである。
「……一人で、先に逃げるの? お父さんはどれくらいで、くる?」
ゲンヤは緩く首を振り、先ほどよりも柔く、微笑んで見せた。ミアの頭にのせられた手には彼女には伝わらない程度に、けれどもきっと、震えを抑えるくらいには指先までぐっと、力を入れているのだろう。もう片方の手に握るノミと金槌が、絶えず微かにぶつかりあう音が響いているのだから。
「ギリギリだろうな。こういう作業は本来、建築作業の中でも私の専門でなければ、ひとりでするものではないからな。……だが、ミア。私たちにはきっとできるだろうし、それでも今の自分たちにできないことは素直に認めなければならない。……私は人間だから飛べない。そして、お前も練習中だから、まだ飛べない。……母さんがきっと、神殿まで迎えにくる。そのトキに二人も連れては飛べないだろう? だからミア、お前は先に走って崖の方へと逃げてくれないかい?」
「私……一人で……」
「そうだ。お前はまだ飛べないし、この解体は私にしかできない。……でも、ミア。みんなを連れて神殿から走って逃げるのは、お前にしかできないことなんだ」
ミアがひどく肩を落とし、それに合わせて翼が小さく折りたたまれていく。俯く彼女の頭を、ゲンヤはもう一度ほど優しく撫で、けれども力強く、言い切るのである。
「この宇宙の、それもこのサンムーンで父である私とカイネ様の両方の言葉を疑うことなく信じて走れるのはお前だけだ。お前しか、いないんだ。……お前はまだ飛べなくとも、そのオレンジの翼と黄色の髪はとてもよく目立つ。神殿から大勢が走り出せば、市場に集う者たちも、必ず何か起こったと気づくだろう」
ミアがポロポロと涙を零しながら何度も何度も頷く。その涙が地面へと落ちる度に、とても胸が締め付けられ、罪悪感が重くのしかかるのだ。自分にとっての大切な人たちを守りたいのに、彼らに無理をさせてしまうのだから。
けれど、ゲンヤはそれもお見通しなのだろう。ミアの方を向いたまま、今度は私に向かって言うのである。
「カイネ様には、女神として神託を与える役目を頼みますよ。星詠みを信じ、ここで祈る者たちにとって必要な言葉を与えて避難誘導をしてください。そして、星詠みを信じない市場にいる者へは、彼らにとって都合の悪い言葉を伏せて、避難誘導をしてください。ずっと耐えてきたのはあなたです。あなたが、女神となるのです」
「女神……?」
「はい。地上世界で信仰されている、女性の神の総称です。とても慈悲深く、皆を受け入れ導く存在とされています。……これから避難が始まり、実際に危ないと身をもって感じれば、これまでの態度が一転、掌を返したように都合よく大人たちは女神に縋ることでしょう。あなたはそれを赦す器をお持ちだ。けれど……これは失礼を承知で言いますが、私にとってはカイネ様もまだ子どもだ。……だからその優しさで、子どもから大人に変わりゆく者として、ミアのように自分より幼い子を守ってくれたら、それでいい。あとはあなたが頼れると判断した者を頼り、市場にいる駄々を捏ねる大きな子どもには言ってやるといい。本当はもう大人なんだから、自分のことは自分でしなさいってね」
ゲンヤがまたニッと右頬だけをあげ、微笑んだ。すると何故だろうか、星詠みを信じないと断言していた人にそう言われると、本当に私は大きな子どもは放っておいてもよいような気になってくるのだ。
「駄々を捏ねる大きな子ども……そうかも。私は決して強くはないから、全部は……うん、守れない。まずは自分よりも幼い子から……」
「そうです。話を聞かぬ者に十を伝えたとして、一も動きはしない。けれど、話を聞く者に十を伝えると、さらにそこにその者の十が合わさって二十進むのです。さて、私たちは今、三人もいる。緊急事態なのだから、十スタートではダメだ。最初に三十を進むため、大人の私が代表して指示を出そう。ミアには最初にみんなを連れて逃げる役、カイネ様にはミアよりも少し難しい女神役だ。約束事は、子どもなのだから、二人は無理をしないこと。そして……全員無事に再会すること」
「うん……」
ミアは目をこすって涙の全てを振り落とすと、父の目をしっかりとみながら、頷いた。その瞳は翼と髪の色を混ぜたような、黄に近いオレンジをしている。瞳の色こそ違うものの、親子だからだろう、クリっとした円らな瞳はそっくりで、一番に似ているのは、ゲンヤの瞳の奥に職人の情熱が宿るトキのように、ミアの奥にも強い意志が宿っているところだった。
きっと、きっと、この子はいつの日か飛べるのだ。この子が飛びたつ日を、その日を迎えるまでの練習を重ねる日々を、やはり守らなくてはならない。そのために、私は罪悪感を抱えるのではなく、覚悟を決めなくてはならないのだ。素直に自分もまだ子どもだと認め、大切な人たちに頼る覚悟を。自分の十だけでは足りないところを、三十進みたいのだから。
私もまた、しっかりとゲンヤの目を見つめ返し、頷いた。
「わかりました。……役を演じるのは得意だから任せて。私、いつも姫の役を演じてるんだもの。指がつりそうな細かいテーブルマナーも、重たいドレスも、退屈な議会もぜんぶ、本当はぜんっぶ、大嫌い」
すると、ミアとゲンヤが目を丸くして、同時にこちらを見るのである。それがあまりにもそっくりなものだから、やはり、こんな緊急時だというのに、つい、吹き出すように笑ってしまうのである。
「ふはっ。二人の顔、そっくり」
それをみた二人が、今度は揃ってお日様のような親しみ深い笑顔を返してくれる。何故だか分からないけれど、この互いに顔を見て笑いあう僅かな時間を過ごすことで、私たちは別行動になるであろう、これから訪れるそれぞれの役目を全うできるような、そんな気がしてくるのだ。
すると、ゲンヤがノミと金槌を握り直し、柱に向かって歩みだす。その手はもう、決して震えてなどいなかった。
「私はもう、ここからは離れられない。次の一手で柱が壊れだし、それを微調整するために、避けながらも動き回らなければならない。私がノミを打ったら、その音が合図だ。ミアが扉を開け、神殿の中にいる者に、柱が倒れていく光景とその音をあえて聞かせなさい。……そこからは、カイネ様のご自慢の演技力にかかっている。どうか、星詠みができる姫として、彼らが欲しい言葉を添えて、伝えてやってください」
今度はミアと共に顔を見合わせ、頷きあう。ゲンヤはゆっくりと深呼吸をし、柱の中でも特に亀裂がひどい箇所にノミを当てる。彼が勢いよく金槌を振りあげた瞬間に、ミアと共に本殿の扉に向かって駆けていく。
キンっと鳴り響いた音は、私とミアとゲンヤにとって、運命を左右するとてもとても、特別な音となった。
きっとこの周りにいる者たちは、これを増設中の工事の音のひとつだと、本当は工事が中止されているのさえ知らずに、日常の音のひとつとして、それを当たり前に受け入れるのだろう。
ミアが扉を開けるや否や、ミシミシという鈍い音が走ったかと思えば、あっという間に柱は倒れて隣の柱へとぶつかり、ドゴンと大きな音を響かせた。それらはドミノ倒しのように、ドゴン、ドゴンと音を一定の間隔で数回ほど鳴らしたかと思うと、数本目の位置、天井が落ちないギリギリで、止まって耐えてみせたのだ。
「な、なんだなんだ」
「きゃあああ、柱が! 柱が倒れたわ」
その様を扉越しに見た拝殿する者たちが、代わる代わる、悲鳴にも近い声を上げていく。けれど、私の耳に一番入るのは、ミアが肺いっぱいに息を吸い込む音だった。ミアの翼が私の二の腕に触れ、その柔らかな感触と共に、ゲンヤの言っていたことが思い返されたのだ。
地上世界では私のように魔法が使える者を神と呼び、ミアのほうに翼が生えたものを、天使と呼ぶと。
「増設中の別殿が壊れたわ! こっちにも倒れてくるかもしれないって。みんな、こっち! こっちに逃げてっ」
ゲンヤにとっての天使の声が、騒ぐ者たちの声の中を割って入る。神殿の中の反響効果も相まって、その声はとてもよく響いた。オレンジの翼を背にもつ天使が、とても軽やかに、まるで飛ぶかのように、神殿中に風を巻き起こしながら、駆けていくのだ。
「な、何だって。早くみんな避難しろっ」
「どこだ、どこに逃げればいいんだっ」
ミアは一直線に、神殿から未開の地へと続く道に向かって、走っていく。市場からみれば崖となるその頂上へは、この神殿を出て右側に進めば辿り着く。この辺りで二度目の波をも乗り越えて助かる、唯一の地だ。
「い、市場へ下りましょう」
「そうだ、一旦家へ帰ろう」
ミアの後ろに何人かはついて行ったものの、やはり多くの者が、まずは市場の方へと下りようとするのだ。市場から徐々にそれは人々が住まう家のある街へと変わっていき、さらにその向こうに丘が続き、森へと繋がっている。サンムーンはまだ発展途中の都市であるために、人が過ごせるエリアというのは、それほどに広くはない。さらに言うと、ここに本当に住んでいる者は、市場に集う者の中の一部だけ。多くの者が、自分たちの星や国とゲートを繋いで仕事へとサンムーンにやってきているだけなのである。標高的に、市場の付近が一番に危険で、できることならば全員に崖の方へと向かってもらいたいのだ。
私はすかさず市場へと向かう者たちの前に割り込み、その者たちの進路を立ち塞ぐ。
「ダメよ。崩壊した瓦礫が街や市場の方へと落ちていく可能性があるの。一旦、崖の上の方へと向かって」
「で、ですがっ。いつ波がくるかも分からないのに、何も荷物を持たずにそんなっ」
「そうです。まだ崩れてはいないのだから、一度家へと……」
それに対し、私はあえて魔法で小さな風を巻き起こし、ミアが落としていったオレンジの羽を集め、市場へと向かおうとする者の前で派手に舞わせてみせた。そして、十分に視線を引きつけと判断した瞬間に、それらが道標となるように、ミアの通った跡に続くように巡らせてく。
声色を姫として振舞うトキの緊張の孕んだそれにして、けれど、祈るトキのように、柔く微笑みながら、まずは一番近くにいる者の手をとって、ぎゅっと握りながら、言葉を口にする。そう、まるで神殿に置かれている女神像が話しているかのように、慈悲深さを演出しながら。
「神殿の崩壊は、星からあなたたちへの逃げろというメッセージよ。……きっと、あなたたちの祈りが届いたんだわ。波が来る。波が、来るの。羅針盤が、波が早まったと示したわ。私はそれを伝えようと下りてきたところだった。そしたら突然、神殿が崩壊したの。この意味が分かる? 増設中の別殿は、海側にあるでしょう? 逃げろと、天が言っているの。星が示したのは、あの崖より向こうへと逃げたら助かるという未来よ。さあ、星に守られし者たちよ、オレンジの翼の少女に続きなさい。大丈夫、離れてしまっても、道は決して見失わないようにしてあるから。道標はオレンジの羽よ。生きなさい」
「あ、あ、ああ。主よ、ありがとうございます」
シンと、その場が静まり返る。そして、きっと私たちの声はゲンヤには到底聞こえていないであろうに、タイミングを見計らうかのように、先ほどよりも音を大きく響かせて、次の柱が倒れたのだ。
二本目の柱の崩壊は市場からであろうとも目に見えるくらい、明らかにセメントの埃をあげ、それを灰色がかった煙として空に立ち昇らせた。
すると、煙の中をかき分けて勢いよく、何かが飛んでくるのだ。それはカモメにしては、速すぎて、鋭利過ぎるもの。
「危ないっ」
手早く魔法で盾代わりとなる膜を作り、私はその物体を弾き飛ばす。
それらが地面に落ちると同時に、カシャンと食器が割れるような音を響かせ、私たちの顔くらいある大きさの破片が、小石くらいのサイズに砕けていった。
「大丈夫!? 怪我はない? ほらね、あなたたちは守られている。星が逃げろといっているわ。さあ、早く逃げなさいっ! あの少女に続いて。オレンジの羽と崖の浮かぶ宙船が目印よ。早く走って!」
ひとりが下りようとしていた階段を駆け上ったかと思うと、ミアが駆けていった方向にむけて、私が魔法で作ったオレンジの羽の道標を辿るようにして走り出したのだ。
「おおお、こっちだ。みんなこっちに逃げろおっ」
「な、波がくるっ。主は我々に逃げる道を授けたんだっ」
「神殿が崩壊するっ、崖の方へと逃げろっ」
ひとりが行くと、神殿に通う者は、一目散に崖の上へと続く道を目指し、駆けていくのだ。その光景をみて、緊張していたものが、それをそのままに、どこか肩の力が抜けたような心地へと変えさせていった。
そうして思い出すのは喉の渇きで、けれどそれは星が視せたあの光景の中で感じた渇きではなく、これからたくさん声を出すために、潤わせておきたいと、純粋に思うものだった。
すると、握っていた手が私から離されるどころか、ぎゅっと握り直されて、私は驚いて視線を逃げゆく者から目の前の神託を告げた女性へと移す。彼女は私の手を握ったままに、今度は引くようにして、そのまま私と共に階段を上ろうとするのだ。
「あなた様も逃げましょう?」
右上を見れば、派手に音を響かせながら、煙を立ち昇らせて崩れゆく別殿が。左上見れば、オレンジの翼をもつ少女を追いかけて、次々にその人数を増やしながら走りゆく何人もの姿が。背後からは騒ぎに気付いたらしい、市場の騒々しい音が、待ち受けている。
目の前の女性の瞳は、決して恐怖にのまれているものではなかった。握るその手は震えてなどおらず、指先はどこかひんやりと冷たいものの、触れ合う掌の部分は、熱いというよりも、温かかった。彼女は急ぐ様子もなく、じっと、私の瞳をみつめたままに、返事を待ってくれている。何故か私には、この者は怖いからではなく、本当に、私に共に逃げようと言ってくれているように感じられるのだ。
途端に、ゲンヤの頼れると判断した者を頼り、話を聞いてくれる者に伝え、十を増やすのだと教わったその意味が、しっかりと体感として自分の中へと溶け込んでいったような気がした。
私は共に逃げようと言ってくれた目の前の者の優しさを信じてみようと、彼女に言葉を託す。
「いいえ、私は市場にいる者たちを誘導しなければ。星は言ったわ、波は二度くる。……二度目の方が大きい。崖の上へと逃げたのち、数日はそこで待機をして、自分たちの目でみて、分かる範囲でもいいから、安全だと思うまでは高台で過ごしてほしいの。……お願い」
「……わ、分かりました」
「さあ、行って!」
女性は躊躇うようにいつまでもこちらを見ながら、ゆっくりと、一歩、二歩とその歩数が進むにつれてスピードを速め、しまいには前をみて他の者と同じように走り出した。
そして、私はその女性とは反対の方向、市場の方へと、下りていく。
※毎週土曜日、朝10時更新予定🐚🌼🤖