世界の子どもシリーズNo.10_過去編~その手に触れられなくてもepisode3~
『……ロ……』
酸素というものをどう取り込んでいたのかが分からなくなってきた頃、苦しさのあまり、口が無意識に動かされる。それは言葉どころか音にもならない大きな泡となって、海の中の一部としてあっけなくのまれていった。むしろ、口をあけてしまったからこそ、肺に海水が流れ込み、苦しさは増してしまったに違いない。冷えきった身体が、外側からだけでなく内側からも体温を奪い、とうとう、呼吸が苦しいと判断する感覚さえも失われていく。
カイネには体力も魔力も、もはや生きる気力さえ、残されてなどいなかったのだ。けれどもそれは、逆にカイネの命を守ることにも繋がったと言えるだろう。もしカイネに体力も気力も残っており、無理に陸にあがろうとしていたのならば、ひとたびもっと多くの海水が肺へと流れ込み、あっけなく、彼女から全ての体温と酸素を奪ってしまったに違いないのだから。
意識が朦朧とし、カイネの世界の全てが暗闇にのまれようとしたそのトキ、カイネの身体に再び熱が駆け巡り始めたのだ。その熱の出どころは掴まれた左足首で、それは決して痛みを伴うような熱いものではなく、ただ無意識に彼女の身体が行う生命活動を支えるような、静かで温かな熱であった。カイネの身体は下へ、下へと勢いよく引っ張られていくというのに、足首から流れるその優しい熱はまるでカイネの心と同じように、陸へとあがろうとするかのごとく、上へ、上へと流れ、身体中を巡っていくのだ。
「……ネ……ロ……」
熱が肺にまで達した頃、音にならなかったはずの言葉は、カイネにとって大切な人の名を、まだ日の光の届く海の中に残させた。
今度は口を動かしてもちゃんと言葉になったからこそ、その音はカイネ自身の耳にも届き、それがかえってひどく胸を締め付けて、今度は彼女にとって紛れもなく涙であるのに、涙だとは傍からみれば分からない切実な悲しみの泡を、海底に生み出していくのだ。
それはまるで、自分はここにいるのだと、涙の道標を海の中に残すかのように、カイネの意識が完全に損なわれるまで続いていった。
ぷっつりと意識が途絶える頃には生命活動を持続するためだろう、身体はちゃんと熱に導かれるように海の中での呼吸法を覚えて即座に使い始めていた。その代わりに完全に魔力がカイネのコントロール下になくなってしまったのか、彼女はムーの姫としての姿でもアヴァロンの街を走り回っていた頃の姿でもなく、気心の知れた友にさえ見せることのない本来の姿へと完全に戻ってしまっていた。
ただ、生命活動が持続されたからこそ、カイネの身体中の血も、ずっと、ずっと止まることなく巡り続けたのだ。それは彼女が陸より向こうを生きる者が知ることのない、深海へと運ばれ、眠ってしまっている間中も巡り続けた。
χ
χ
χ
「ねぇ、急にどうしたの? 本当にいいの?」
「……ああ。いいよ。今日は何でも聞いてやる」
冷たく、日の光の届かない夜よりも暗い中に堕ちゆくなか、何故かあの人の声が響き、カイネはゆっくりと目をあける。
そこに広がるのは、大好きな、大好きな花畑。一体、ここに来るのはいつぶりだろうか。何度来たって、どれだけの時間を過ごしたって飽きることのないこの場所は一面に白い花が咲き誇っている。この花が咲くのはアヴァロンの街や魔法学校が一望できる、森を進んだ先にある小さな丘が広がるところだ。アヴァロンはどの時間軸にも属さない星で、決して、太陽の光が届くことはない。代わりに昼の時間と呼ばれる間は太陽にそっくりな人工の光が国中を覆い、ちゃんとそれは太陽を模して夕刻に沈んでは、星々を輝かせて皆が眠る夜を告げるのだ。常に温かな気候と安定した光が保たれるアヴァロンは過ごしやすく、いつだってどこかに花は咲いていた。
けれど誰も本当の名を知らないこの白い花は、誰かが託されて守りぬいたどこかの滅んだ星の花の種から咲いたものだ。奇跡的にアヴァロンのそれもこの丘にだけ育ったらしく、だから本当に宇宙中のここでしかみることができない花なのである。
魔法族ではないから魔導服も着られなければ、精霊郷の友たちと同じような花々に溢れた服を着ることも許されない。ムーにいるときの姫の装いをする訳にもいかなければ、決してドレスが着たい訳ではない。それなのにカイネを知る者に出会うときにはそれなりの恰好をしていなければならないので、カイネはいつも、アヴァロンにいる間中は決まって真っ白なワンピースを身に纏っていた。ひざ丈のスカートは広がりすぎないふんわりとした、ノースリーブのシンプルなもの。瞳の色と髪色も隠さなければならないから、力を抑え込んで栗色にする。栗色に映えるこの白いワンピースは、ただの少女としてもそれなりにお洒落を楽しめて、けれど知り合いに出会ったとしても一応は姫としてギリギリ挨拶ができる上品さを残した。ムーで舞うときのようなシルクのものではないけれど、雰囲気はそれに近く、花々はついていないけれど、精霊郷のみんなが身に纏う通気性の良い生地質は似ている。この白いワンピースのどこかがみんなに近く、けれど決して同じではないから、何となくどことも混じれて、カイネのことを知らぬ者には上手く身分や出自を誤魔化せる装いでもあった。
とても楽で、動きやすくて好きだというのに、どこかこの白いワンピースは目に見えない寂しさのストールがセットであるかのように、いつもカイネに孤独さも感じさせたのである。
それぞれがそれぞれの所属する場へと行ってしまい一人になると、カイネは決まってこの花畑のど真ん中に寝そべっては空を見上げていた。この一面に咲く白い花々は、真っ白なワンピースを身に纏うカイネにもアヴァロンの中での所属を与えてくれるようで好きだった。ここの花々は、一人だけれど、一人ではないと何とか言い聞かすだけの口実をカイネに作ってくれるような気がするのだ。
気が付くと、カイネの目の前で、あのときの自分とあの人が、この大好きな花畑の中央へと歩み進めていた。
目の前にいる彼はどこかぎこちなく、一方の自分は満面の笑みで彼の手を引っ張っているのだ。その光景をぼんやりとみつめながら、カイネは頬がゆっくりとあげられるのを感じていた。
そうそう、思い出した。確か一緒に手を繋いで、くるくると踊るの。
くるくると、くるくると、ステップなんて無視して、踊るのだ。
❁
アヴァロン―サンムーン開放式典前夜―
「こっち、もっと! ほら、回ってよー」
いつもはこういうことを絶対にしてくれないネロが、お願いを聞いてやると言ってくれるものだから、カイネはここぞとばかりに全ての願望を込めることができるお願いを口にしたのだ。お姫様になりたい、と。
すると案の定、ネロは何を言っているんだ、というような驚きと呆れの混じった表情で、けれど何だかんだ優しいから、「それで?」と続きをちゃんと聞いてくれたのである。そこからはもう、わがまま放題。ネロがダンスが嫌いなのを知っていて、それでもどうしても、どうしても一度でいいからネロと踊ってみたくて、無理矢理に花畑の中でダンスを始めたのだ。彼は約束を破らなければ、決して嘘をつかない。だからカイネに半ば強引に引っ張られながらも、やはり拒みはせず、どこかぎこちなくカイネの手を握り、カイネがくるくると回るのに合わせて、ステップとも言えなくはないステップで動きを合わせてくれていた。
ネロと踊る機会などもう二度とないかもしれない。そう思うと気を抜けば泣きそうになるくらいの切なさがあるというのに、だからこそ、今一緒に踊れていることが愛おしく、カイネの心は相反する感情で溢れていた。けれど、ただただそのどちらもの感情が合わさって心が叫ぶのは、ネロがこれほどに好きなのだという、自分の中でどうにかするしかない事実であった。
どちらもの感情が嘘ではないのならば、喜びを。泣きたくて、笑いたいのならば笑顔を選ぼうと、カイネは目一杯笑っては子どものようにくるくると回り、全身で喜びを表現した。
少しでも長くこの時間を楽しみたくて気が付かないフリをしていたけれど、あまりにもネロの視線を感じるので、観念して顔をあげると、情熱的な紅い瞳を和らげた彼と目があったのである。気づかないフリをしていた視線は、もうやめろという合図かと思っていたのに、そのネロの表情と瞳は、本当にカイネのことを大切なお姫様として扱うかのように、どこか優しかったのだ。
そうしたら、彼の瞳に弱いカイネはひとたび心を掴まれて、もう動けなくなってしまうのである。思わず息を飲み込み、つい、足を止めてしまう。ただただ二人は夜の誰もいない花畑の真ん中で向かい合って立ち尽くすこととなった。どうしていいのか分からずに数回程瞬きをすると、今度はネロが力の抜けた緩やかな笑みを見せながら、言うのである。
「馬鹿だな。別にお願いしなくたって、お前は姫じゃないか」
馬鹿という言葉自体は決して優しいものではないのに、男性にしてはほんのりと高めで、けれど男性しか出せない低さの領域の彼の声は、とても、とてもカイネにとっては甘く、話し方がズルいくらいに言葉の意味を越えて、優しいのだ。
きっとネロは今、魔法を使っているはずなどないのに、制止魔法にでもかけられたかのように、耳から巡って、全身が痺れるような心地になっていく。
そしてその甘い痺れが指先まで巡った瞬間に、胸の奥でネロを愛しく想う感情が弾けて、抑え込んでいた切なさの方が溢れ出してしまうのである。ネロに抱き着きたくなる感情を抑えこみ、せっかくの思い出をぼやけさせないよう、泣くまいとカイネは息を小さく吸い込み、ネロに倣ってこちらもまた、力の抜けた笑みを浮かべ、せめて正直に白状するのである。
「その姫じゃなくて、お姫様の方なの。おとぎ話に出てくる、お姫様。おとぎ話のお姫様はちゃんと、王子様と一緒になれるの。自分だけの、王子様。みんなの姫だけど、でもちゃんと、王子様だけの、お姫様になれるのよ。……お願いしないと叶わない方のお姫様なの」
「…………」
私もアヴァロンに置いてほしい。
全てを捨て去ってでも、姫じゃなくていいから、一人の少女として、恋人として、純粋に傍に置いてほしい。
それくらいの想いがあるのに、カイネは姫でネロも王子だから、それでは、ダメなのだ。姫であり、王子であり、お姫様となり、王子様にならない限り。
少し無理矢理ではあったけれど、踊ってくれただけで十分。そう思い、困るネロに向かって今度はいつもの冗談めかした笑みを見せて、アヴァロンの城の方へ向けて、歩みだす。皮肉にもカイネは明日の式典に姫として参加するからこそ、ムーの代表として彼と同じアヴァロンの城に戻れるのである。
「え?」
けれど、突然に手首を掴まれカイネは驚いてネロの方を振り向く。
すると、先ほどまでのどこか優しげな瞳の揺れが一転、真剣な眼差しのネロと目が合ったのだ。吸い込まれそうな、紅い瞳。角度によってほんの少し琥珀がかって見える瞬間がとても綺麗で、けれども瞳が揺れる度に、その奥にあるもっと熱い炎のような紅が、再びその琥珀を飲み込むのだ。それはまるで宝石のように美しく、消えることのない炎のように情熱的。いつだって綺麗で、それなのに力強くもある。目が合う度に、彼はその瞳だけでどうしようもなくカイネの心を奪っていくのである。
ネロに見つめられる度に、カイネはいつもズルいと叫びたくなった。
あなたの瞳に囚われた私は、あなたの虜。抗えないの。
あなただけの、お姫様がいい。
私だけの、王子様でいてほしい。
私を決して他の男に触らせないで。あなたを決して他の女に触れさせないで。
口にはできない言葉の代わりに、ただただその想いをのせて、カイネはネロの瞳から逃げずに、あえて囚われ続けた。
そのまま、二人で何秒見つめ合っていたのかなんてわからない。もしかしたら数秒だったかもしれないし、もしかしたら数分だったかもしれない。
ただ、カイネにとってネロの瞳に囚われている時間というのは、全てが一瞬のように感じられて、それなのにその時間が永遠かのようにも感じられてしまうのである。
もしも自由に時間を使えるのならば、いつまでだってネロに囚われていたいと、誰にも言わず、ただ心の奥底で、カイネはいつも星に祈り、願っているのだから。
すると、ネロはカイネから視線を逸らすことなく、掴んでいた腕に触れたまま、骨ばったその手をスライドさせて、カイネの掌を握ったのだ。
そして、本当にまるでおとぎ話の王子様のように、アヴァロンの王子らしく流れるような仕草で跪くと、カイネの手の甲にキスを落とすのである。
「俺と一曲踊ってくれませんか」
「……っつ」
いつも意地悪でぶっきらぼうなのに、突然にこんな甘い言動をスマートにこなすのだから、本当に悪い魔法使いだ。
魔法を使わずにカイネに魔法をかけ、あっという間に切なさでいっぱいになってしまった心を、再び喜びに戻してしまうのだから。
「……はい」
※毎週土曜日、朝10時更新予定🐚🌼🤖