「みんな、ありがとう。俺、また一緒に働けるなんて……」
そうあいつが泣きながら言ってくれるのが、嬉しい。
だけど、やっぱり、あの子がいなくなってしまったことが何となく感じられて、嬉しいはずなのに、別の感情が胸の中で暴れ回る。
ひとめ見た時から、人じゃないって、分かったんだ。
子どもの頃から、不思議なものが見える時があって、こんなの誰にも言えないだろ?
全てのものが怖くなって、だから、前髪を伸ばして隠すんだ。怖いものから、目を背けるために。それで、そういうのに慣れてきたら、現実の、人間の怖い部分にも目を背けるようになってしまったんだ。自分だけよければ、それでいいって。
あの子は人じゃないって分かったから、俺はぎょっとしたけれど、無視し続けてやり過ごしてたんだ。
そうしたら、本当に人の部屋で好き勝手して、揚げ句、人のベッドで寝ちゃってさ。あまりにも自由過ぎて、ちょっと羨ましくなったんだ。
そうしたら、自分は一体、何をしているんだろうって、そういう思いになって、悩まないようにしていた心に、明確に悩みが生まれた。
それで腹立つことに、人じゃないって分かってるのに、無邪気に笑って人の家で寛いで。全てがすごく可愛らしい子で、触れるか触れないかではなくて、触れてはいけないって思ってしまったんだ。
だから悔しいけど、同じ部屋では眠りにくくなって、風呂場で眠ることにした。
俺は何をしているんだろう、そう思いながら、眠ろうとしたけど、今度は物理的に風呂場だと眠りにくくって、眠れないまま目を瞑ってたら、あの子がやってきたんだ。
げっ。また悪戯する気だろうか。それなら、やっぱり可愛いとか取り消し。
そうしたら、至近距離でこっちを見つめてくるものだから、落ち着かなくて。
そうしたら、布団を被せてくれるものだから、嬉しくなって。
そうしたら、どうか、幸せな夢がみられますようになんて言ってくれるものだから、幸せな気分になってしまったんだ。
その後で、そっとその子の様子をバレないように覗ったら、少し息苦しそうで、なんかふよふよと布団浮かせて被せてくれたけど、それがあの子にとってはしんどいことだったんだと悟って、胸が苦しくなった。
この胸の痛みは何かなって考えながら眠って朝起きたら、あの子はいなくなっていた。
❁
本当は、あの日。ひとり裏切られてしまったあいつに声をかけようと思ったのに、勇気がでなくて、インターホンさえ押せなかったんだ。それで、せめてものお詫びに缶コーヒーを置いて、もう終わろうと思ってた。そんなに深い人間関係を築き上げるタイプではなかったから。また前髪で全てを隠せばいいんだって、そう思ってたから。
それなのに、あの不思議な夜、あの不思議なあの子を見ていて、自由について考えたら、もう一度、あいつと話しがしたいと、そう思えた。
それで勇気を出してインターホンを押したけど、あいつは出なくって。なけなしの勇気も消えてしまいそうになったその時に、あの子が壁から現れたんだ。
ドキドキ、してしまった。壁から出てきたことよりも、また会えたことに。ちょっと、登場の仕方に驚いて、それで、ちょっとだけあいつの家から出てきたことに腹がたったんだけど。
だから無視してスタスタと家に入ろうとしたら、何か騒いでて、その様子から家に入れなくなったぽいことが分かった。
どうしようか、もう家の玄関締めちゃったしな。どうやったら、またこっちに来てくれるかな。
それで思い返す。今日、缶コーヒーをもう一度あいつに持っていったことを。結局話すことなんてできなくて、上手くは行かなかったのに、思いがけずあの子にもう一度会えて、勇気を出すことの意味が、漠然とだけど、感じられたような気がした。
それならもう一度勇気を出すのも悪くないかも。そうだな、例えば、換気のフリをして玄関を半分ほど開けてみよう。
だけど、あの子は来ない。
やっぱり、変な勇気なんて出すんじゃなかった。
そう思って、玄関を閉めに行こうとして、ちらりと廊下をみたら、あの子が蹲ってこちらを見ていた。
やっぱり、もうちょっとだけ、大胆に行こう。
そう思って、今度は玄関を全開にしてみる。
来い、来い!
心の中で、強く念じてみる。
しばらくしたら、猫みたいに家の前を行ったり来たり。
お邪魔しますなんて言って、ちょこんと自分の近くに腰掛けるものだから、めちゃくちゃ嬉しくなった。
もうあの子が逃げ出さないように、玄関を即座に閉めに行く。
表向きは、寒いから。たまたま、あの子が家に来た頃合いが、換気の終了時刻だったんだよ。うん、きっとそう。
それで、人には言ってないけれど、本当は絵に興味があって、それで毎晩雑誌をみることが、自分が自分を保つための時間だったりする。
それで、いつか描くなら、自分が心から綺麗だと思った女の子がいいって、その姿を描きたいって心に決めてたんだ。
だから、雑誌を見るフリをして、目の前の綺麗な女の子の姿や特徴をメモする。
だから、お風呂上りなのをいいことに、目の前の綺麗な女の子の姿や表情を目に焼き付けるため、前髪をあげる。
だけど、その女の子はちょこんと大人しく座っているだけで、それだと観察しても何にもならないから、試しに雑誌を傾けてみる。
そうしたら、ものすごく嬉しそうに顔を綻ばせるから、それがすごく可愛くて、自然と笑みが漏れる。もっと、君の色んな表情がみたい。
だけど、夜は眠らないとダメだから、仕方なく電気を消して、やっぱり自分は風呂場で眠ることにする。
そうしたら、少しだけまた俺のことを見てくれないかなって恥ずかしいくせにそう思ってしまって、でもやっぱり風呂場まで追いかけてくれて、舞い上がる。
それで、とうとう君に気づかないフリが出来なくなって、だんだんと会話になっていく。
それが、ものすごく嬉しくて、眠たいのに眠りたくなくなった。
それで結局、寝にくいなんて強がり言って、君が向こうへと行ってしまったら寂しくて、胸を詰まらせてたら、寝落ちしてしまったんだ。
それがすごく、眠っている間にも後悔として残って、心の奥底で次の日の心配が芽生える。朝起きたら、君はいないかもしれないのに、何故眠ってしまったんだろうって。
君との時間が足りなくて眠りたくない心と、理不尽な労働量でクタクタの睡眠を求める身体の欲求が交差して、複雑な気持ちのまま夢を見る。
何か怖い夢を見て、勝手に唸り声が漏れてしまって。そうしたら、優しい手が伸びてきて、自分に触れてくれる。
ああ、これで眠ることができる。
穏やかな気持ちになって、そうしたら今度、その優しい手が自分の頭を撫でて、一日の疲れを取り除き、君への愛しさと幸せでいっぱいにしてくれる。
「おやすみなさい。幸せな夢がみられますように」
そんな、優しい声と共に。
目が覚めて、ああ、全てが夢で幻だったのかもしれないとそう思って寝返りを打った瞬間に、視界いっぱいに、君の顔が映りこむ。
「うわっ」
あまりにも近くて、それでやっぱり綺麗で、それで普通に寝てる君がちょっと恨めしくなってくる。
なぁ、妖精でも、やっぱり女の子は女の子じゃないのか?
それで、例えば俺は君にとって人間だとしても、男の子は男の子じゃないのか?
ムッとしてくるけれど、気が付いたらしい君が、とびきりの笑顔で言うんだ。
「おはよう」
こちらを見て、俺に向かって。
ちょっとだけ、寝起きの目つきが悪い顔を見られるのは恥ずかしい。
ちょっとだけ、寝起きの跳ねた髪をみられるのは、格好悪くて複雑。
それなのに、それ以上に、君とおやすみとおはようが迎えられたことに幸せを感じた。
ずっと、そうだったらいいのに。
そう思ったら、君の姿は透けていって、それで言うんだ。平気な顔で、「あ、それじゃあ、またね。元気でね」って。
きっと、寂しいのは俺だけ。
きっと、君が必要なのは俺だけ。
きっと、心を囚われてしまったのは俺だけ。
君が消えてしまった部屋に取り残されて、それで呟く。
「胸が痛い。全部、奪うなよ」
日常が、過ごせなくなるじゃないか。
あいつが今一番しんどいだろうから、俺は泣き言は言わない。言えない。でも、俺だって本当はさ、もう限界なんだ。
「傍にいてくれよ。君のことを、もう知ってしまったんだから……」
❁
また苦しい仕事をこなして、さらに少ない休憩時間にもう一度、仲間に声をかけて、危険を冒しながらも、証拠集めを開始していく。
「なぁ、もうやめとかないか?」
「…………いえ、もう少し俺だけでもやってみます」
悪意はないけれど、困惑した顔。
善意はあるけれど、明らかに嫌そうなその態度。
ああ、やっぱり、慣れないことなんてするんじゃないな。
ああ、前髪で全部隠してしまいたい。
だけど、あの子の優しさが離れないんだ。
昨日の勇気が、少し自分の未来を変えたのを、感じたんだ。
もう少しだけ。限界の限界に進んでみる。
それでまた、あいつに缶コーヒーを届けに行く。
チャイムには、やっぱり出ない。
あいつがこんなにも悩んでるんだから悪いって思うのに、あの子に会いたいとも願ってしまって。自分自身に問いかける。
これはどっちの意味のチャイムなんだ?
あいつの為か、それとも自分の為か。
自分って嫌なやつだな。
そう思いながら缶コーヒーを置くと、やっぱり、君が顔を出したんだ。
例にもれず、また壁から。
だから、そんな変な登場の仕方されたらインパクトが強すぎて、頭から離れなくなるんだって。心臓にも悪いし。
だけど、あいつを心配してるはずなのに、君に会えたことの方が嬉しくて、じわりと胸が温かくなる。
ちょっと照れ隠しで、君はまたついて来てくれるに違いないと、スタスタと戻って家に入ろうとして振り返ったら、君はついて来てはくれていなくって。スルリとあいつの家に戻ろうとしてたんだ。
凄く、モヤモヤした。凄く、イライラした。
それでも、行ってほしくなかった。
それで白状すると、きっとあいつの方がしんどいだろうに、友達のあいつに君をとられるのが、友達だからこそ、もっともっと嫌だと、そう思ってしまったんだ。
あれほどまでに触れてはいけないって思っていたのに、気が付いたら、ほとんどあいつの部屋に戻りかけの君の手を掴んでいた。
「……なんで、今日は来ないの?」
君が俺の方を向く。君が俺をみている。
ああ、前髪がやっぱり邪魔だ。だけど、ああ、前髪があってよかった。
今の俺は、君を優しくは見つめることができないんだ。この隠せない想いが、絶対に目が合ったらバレてしまう。
そうしたら、躊躇いがちに、君が言ってくれる。
「……やっぱり、行く」
ああ、前髪がやっぱり邪魔だ。君の全部をこの目に焼き付けたい。
だけど、ああ、前髪があってよかった。今、すごく顔が緩んでる。勝手に口角があがってしまった。
少し強引に君を連れて、俺は家に帰る。
ダメだって思うのに、君とまた、おやすみとおはようを言い合いたいんだ。そうしたら、限界の限界のその先まで、行ける気がするんだ。
だけど、君との時間が少しでもほしいのに、俺は風呂へ行かなければならない。
けれど、俺が風呂へ行くと言っても、君はあっさりとそれを見送る。
別にいいけど、君が消えないでいてくれるなら。
だけど、やっぱり君との時間が少しでもほしいから、一緒に食事をとろうと誘う。
けれど、君は食べられないというから、いつも通り、一人で食べる。
別に仕方ないんだけど、君にも食べさせてあげたかったんだ。
だけど、君が食べてる様子をニコニコと眺めながら、俺の話を聞いてくれて、君の話を聞かせてくれる。
そしたら、なんでだろうな。ひとりで食事をしているのに、ひとりじゃない気がしてくるんだ。それがじわりと胸を温かくしていく。
「ねぇ、どれが一番好きなの?」
「……これかな」
「じゃあ、何をメモしているの?」
「……恥ずかしいから、内緒」
君が俺の好きなものを聞く。
君が俺の好きなことを聞く。
嬉しくて、好きな絵を語る。
焦って、好きな君のメモだというのを隠す。
全部が面白い。
全部が楽しい。
「君は、どこから来たの?」
「……夢の中から」
「君は、どこに帰るの?」
「……夢の中へ」
君は俺に君のことを教えない。
君から俺に君のことを教えて欲しい。
だから探る。
たくさん質問をして。
それで推測する。
うっかりやの君が漏らしたその情報から君のことを。
だけど本当は、堂々と色々なことを教えてほしい。
だから本当に、俺の傍にいてほしい。
例え、他の人に君の姿が見えなかったとしても。
全部が切ない。
全部が苦しい。
君の鼻歌を聞くと、自然と笑みが漏れる。
君の歌を聞くと、手拍子したくなる。
君が踊るのを見ると、柄にもなく、手をとってしまう。
それで毎晩、風呂場で眠ろうとすると君が止めてくれるから、複雑な男心を抑えて、ベッドで眠る。
それから、朝起きて君がいなかったらどうしようという恐怖で睡眠が浅くなり、唸ってしまうその時に、君の優しい手が触れる。
それで毎夜、その柔らかな手で、ちょっと気にしてる猫っ毛なパーマがかった髪を撫でてくれるんだ。
それから、言ってくれる。とびきりの優しい声で。
「おやすみなさい。どうか、幸せな夢が見られますように」
それで朝起きて、君の顔が視界いっぱいに映りこんで、ほっとすると同時に、ドキドキするんだ。
だから、妖精でも女の子は女の子だろ?
それで、人間でも男の子は男の子だろ?
絶対に俺だけがドキドキして、それで、君を失うかもしれない恐怖を抱えてるんだと思うと、やっぱり腹が立って、怒りの滲んだ声で、起こしてしまう。
だけど、朝日を浴びながら目覚める君のその姿は、全てを吹き飛ばしてしまうほど美しくて、可愛くて、それで、ものすごく愛おしいんだ。
その姿を脳裏に焼き付ける。
それで、お互いに「おはよう」と言って、微笑み合う。
そして、じわりと温かくなるこの瞬間と感情を、胸の奥底に刻む。
その栗色の髪を君は帰ったその後で、誰に触れさせる?
その自由で無防備な振る舞いを、帰ったその後で、他の奴にも見せてるの?
それなのに、この暴れ回る感情以上に、君のことが愛しい。
愛しいんだ。
きっと、俺は恋をしている。
本当は、君を返したくない。
どうか、俺をひとりにしないで。
ちがう、君をひとりにしたくないんだ。
君を俺の欲望のままここに縛り付けたら、君はきっとひとりになる。
だって、誰にも君のその可愛らしいその姿が見えないんだから。
自分だけの世界に閉じ込めてしまいたい感情に毎朝ケリをつけて、君を君の世界へと返す。
君から自由を奪ってはいけないって言い聞かせながら。
君は自由だから、そんな無邪気に笑えるんだ。
今日の別れが、永遠の別れかもしれない。だから、この朝の光景をしつこいくらいに脳裏に焼き付けて、肝心な言葉は口に出さずに、おはようとおやすみを繰り返す。
その無邪気な笑顔を一度でも多く見つめて。
その美しい姿を漏れることなくメモして。
❁
「今日、ついに抜き打ちチェックがある」
「よし、よし、よし!」
「今回は全員で動くんだ」
皆で固く円陣を組み、誓いあう。
「これで上手くいかなくても、全員でストライキを起こす。流石に全員が辞めたら、会社の方が困るし、社会的にも問題になる」
「ああ、あいつを呼んでこよう」
誰が呼びに行くかで、満場一致で俺がその大役を預かった。
俺は今日、友情の為に動く。
俺は今日、自分の為に動く。
「今日、動くんだ」
「どこに?」
ぐっと喉を詰まらせて、俯いて、拳を握る。
「今から、あいつを起こしに行く」
「そう、よかった」
微笑みながら、確かに君は返事をしてくれた。だけど、その睫毛は伏せられている。
なぁ、嫌だとは言ってくれないのか?
君はちょくちょくボロを出すから、質問して、推測して、気が付いた。
あいつが寝ている時しか、君はここにいないんじゃないのか?
本当のことを言ってくれ。
例えば、君が訪れたのは、あいつが退職を強いられて、籠りがちになってから。
例えば、君に欠かせないのは、窓際に咲いている俺が模写用に育ててる花。
例えば、花が無くなって、あいつが起きて、あいつの悩みがなくなったら、君はどうなる?
時折漏らす、迷い人って何なんだ?
俺は君をひとりにしたくない。
だけど、俺はひとりになってでも、君の特別になりたい。
この友情にしっかりと応えたその後に。
俺は迷い人にはなれないのだろうか。
もう君がいないと、人生に迷ってしまう。
「……でも、そうしたら、君は……」
何も言ってくれない君に痺れを切らして絞り出した言葉を君が遮る。
「大丈夫よ。私はゼフィランサスの花の精。あなたが私の花を咲かせてくれたら、いつだって会えるんだもの」
「え? ……本当に?」
嘘だ。それは君のいつもの無邪気な笑顔じゃない。
だけど、本当だったらいいって、そう心から願ってしまうから、本当に、と尋ねてしまう。
「もちろんよ。横の家の人が、ちょっと心配だっただけ。妖精は、素敵な夢を提供するお仕事があるの。仕事終わりに、あなたの家に遊びにこさせてもらってただけよ」
「……う、ん。そっか、なら、いいんだ」
ああ、きっと嘘だ。だって、俺の方があいつより悩んでる。狂おしいほどに、君を求めてるのに。
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
「うん。行ってくる。今日は明け方に戻るから、会うなら明日の夜かな?」
「そうね。約束ね」
そう言って、きっと守られることのない約束を君と交わした。
君は終始、笑顔だった。俺は本当は、泣きそうだった。
❁
「なぁ、打ち上げしないか?」
あいつが、笑顔で言った。
ああ、嬉しい。お前のその笑顔がまた見られて。
だけど、俺はもうひとつの大切なものを、追いかけないと、きっと後悔するんだ。
「打ち上げは明日でもいいか? 頼む、今日は、一度眠ってくれ」
何も詳細は言えないし、言わない。だけど、今回のことで、確かにお前と俺の間に確固たる絆ができたと、そう思うんだ。
前髪をかき分けた状態で、しっかりと友の目を見つめる。
「……わかった」
「ごめん、俺、行かないとダメなところが、あるんだ」
そのまま、あの窓際の花の所へ駆けようとしたその時、友が言うのだ。
「なぁ、妖精って信じるか?」
「え?」
「栗色の綺麗な髪の小柄な女の子で、白いワンピースを着てるんだ」
「つ……」
やっぱり、君は妖精で、それで俺じゃなくて、あいつに心を許すのだろうか。
「毎晩、その子の夢をみてたような気がするのに、森の中で踊ってたのに、今日だけずっと泣いてたんだ」
「……泣いてた?」
「もうあの人に会えない、だってさ」
それを聞き、目を見開く。
ああ、やっぱり、君を追いかけたい。
「ありがとう」
「いや。あれ? 俺なんでこんな話したんだろ? ただ、急になんか話したくなったんだ」
「いや、いいんだ。ゆっくり眠ってくれ」
「ああ、俺の方こそ、本当にありがとうな」
歩きながら、思う。
許せないと。
君に対してではなく、自分に対して。
会えなくなると分かっていたのに、薄々気づいていたのに、何故、肝心な気持ちを伝えなかったのだろう。
泣かせてしまうくらいなら、自分が傷ついてでも、君を傷つけないことを選べばよかったと。
明け方から朝の時間にかけて、一睡もしなかった。だけど、君はとうとう現れなくって、朝日に君が自分の花だと言った、ゼフィランサスだけが反応して白く輝いていた。
❁❁❁
あの日から、迷い人と入れ替わることはなくなった。
「きっと、生きる活力を取り戻したのね。とてもいいことだわ」
だけど、私は大粒の涙をそっと零す。
どうして、叶わない恋などしてしまったのだろう。
住む世界が違うのに。
どうして、あなたと出会ってしまったのだろう。
一緒に過ごした時間が忘れられない。
思ってしまう。入れ替えが違う人間とだったならば、私はこの苦しい感情を知ることはなかったのに、と。
思ってしまう。入れ替えがあんなに長い期間でなければ、私はこの熱い想いを友情として保つことができたのに、と。
私はただ、自分の醜い感情を知り、私はただ、自分のダメな所だけをみつけて、私はただ、抱いてはいけない恋心を抱き、私はただ、知りたくなかった恋の苦しみを知って、何の役にも立たずにここへと戻ってきてしまった。
「……意地悪だなぁ」
運命って。知らないままならば、こんなに苦しくはないのに。
「……でも」
彼のあの真っ黒な優しい瞳と、あの美しい横顔はちゃんと脳裏に焼き付いている。瞳を閉じて、心に刻んだ彼とのあの瞬間を、思い返す。
「やっぱり、あなたと出会えてよかった」
あなたとの思い出の方が、この恋の胸の苦しみ以上に、きっと、もっともっと私の心を満たしてくれるだろうから。
そうして、腰掛けていた森の切り株から立ち上がろうとしたその時、友人のひとりが声をかける。
「迷い人からのご指名よ」
そう言われて、私は首を振る。
「ごめんね、しばらくは私、迷い人との入れ替えのお仕事したくないの」
睫毛を伏せながら、ゆっくりと瞬きをして、そう答えた。
まだ、恋の痛みが消えていないの。
そうしたら、クスクスと笑い声が響いてくる。
「違うわ。私が入れ替わる迷い人からのご指名よ」
「え?」
「さぁ、こっち」
躊躇う私に構うことなく、友が強引に私の手を引っ張っていくのだ。
遠く向こうの方に人影があり、近づくにつれ、全身を黒で包んだ、一人の背の高い男性の姿が、露わになっていくのだ。
「……嘘つき」
ああ、私、私ね。本当はもう一度、その瞳がみたかったの。
友に連れられた先にいたのは愛しい彼で、その真っ黒な優しい瞳をとても切なそうに揺らしながらも真っすぐにこちらを見つめてくれていた。彼の声は、共に過ごした日々の中で、朝を迎えるときにいつも聞いた、少し怒りの滲んだもの。
きっと私は怒られているはずなのに、ただただ、喜びで全身が震えた。
「……うん。嘘ついて、ごめん」
「いいよ」
少し困ったように眉を下げながら、彼がゆるりと口角を上げて微笑んでくれる。そして、彼が私の手を取ってくれるのだ。
ああ、彼の温もりが感じられる。
もう触れることのできない彼と、手が触れ合っている。
「うふふ。こんなに意志の強い迷い人って初めて。心が決まってるのに、迷っているんだから不思議よね」
友の声が響き、ここが彼の部屋ではなく、私の世界だということを、はたと思い出すのだ。すると、もうひとつ、私の世界のはずなのに、声が重なる。
「久しぶりだな。この不思議な夢」
それはかつて自分が入れ替わっていた迷い人の男性で、瘦せこけていた頬はすっかりと肉付きが戻っていて、それで、あの虚ろだった瞳にはちゃんと光が戻っていた。
「よか、よかった」
何もできなかった自分の、心残りがひとつ解消されていく。
あの男性は、今、きっと幸せだ。
そうして、湧き上がるのは矛盾しているこのたくさんの状況で。私は首を傾げることしかできなくなる。
「あの人、また迷ってるの?」
すると、決して離すことなく繋がれていた手に力が込められる。
「迷ってない。俺が無理やり、酒飲ませて、一緒に部屋で寝落ちしてもらった。君に会いたくて」
「え?」
愛しい彼が目の前にいる喜びの感情はすぐに全身で感じることができるのに、その状況をすぐに理解することができない。
けれど、ここは私の世界だから。友が横にいて、クスクスと笑いながらも、私が分かっているのに分かっていないこの状況に、代わりに答えてくれるのだ。
「私たち妖精は、迷い人と夢で入れ替わる。それで、少しでも心安らぐような夢の時間を提供するでしょ? 自然に囲まれたり、会いたかった人に夢の中で偶然、出会えるように導いたりして」
その言葉を聞き、はたと気づいて、彼を見つめる。
「……会いたかったんだ。君に」
「わた……私も」
ここは私の世界であり、私の世界ではない。彼の世界ではなく、彼の世界でもある。
触れているこの手が、温もりが、本当であるのが分かっているから嬉しいのに、やっぱり本当であることを確かめたくて、私はぎゅっと、繋いだままの手に力を込めて、彼の手を握り返した。
そして、彼はゆるりとその口角をあげ、その優しい黒の瞳でとても真っすぐに私をみつめかえし、何も言わないまま、けれども、これが二人の世界だとその表情で肯定してくれたような気がした。
「それで、見たい夢がみられるんだろ?」
「まぁ、そうね。夢であって、夢でなくて、夢でなくて、夢だけれども」
彼が私ではなく友に聞き、そうしてまた、はたと気づくのだ。
私たち妖精は、何も喋ることができない。だけど、こうやってどれが答えか分からないように喋り、推測してもらえたら、伝えることができなくもないのかも。
「もう時間がない。急いで」
彼が触れ合う手をしっかりと繋ぎ直し、私の世界でもあり、彼の世界でもある夢の中を、引っ張るように歩きだす。完全に理解ができていない状況の中だというのに、答えは決まっていて、彼と繋がれたこの手を離したくなどないから。手を引かれるままに、二人で駆け出す。
「こっち」
「え? ええ?」
ぐるぐると回る視界の中で、私の世界だけれど、彼の世界の方へと強く引き込まれていく。
そして、夢であって、夢でなくて、夢でなく、夢である中を、二人で進み続けるのだ。彼に引かれるままに。
気が付けば景色は森の中から、彼と共に過ごしたあの小さな部屋からよく見ていた工場の中へと変わっていた。
「ちょっと危ないけど、気を付けて」
「え、う、うん」
そのまま工場のお手洗いから窓の外に出て、その横にある屋根の上を歩き、隣の建物に飛び移る。
これ、私が妖精で飛べないと、絶対に危ないやつ……!
お、女の子にさせることじゃないわ。
そう思って少し剥れたくなるも、そのまま彼についていき、風が吹いて揺れそうな梯子を登っていく。その梯子を登り切るか登り切らないかで、しっかりと彼が私を引き上げてくれて、それでツンとした顔で言う。
「な? 妖精だけど、女の子だろ?」
ちょっと心を読まれたのかな、って慌てて瞬きすると、また大好きなあの優しい視線のまま、ゆるりと口角をあげて微笑んでくれる。
「悔しかったから、女の子だけど妖精な君しか連れてこれない場所を選んだんだ」
「何それ? どういうこと?」
彼がしゃがみ込んで、あっち、と言って指差す方を見る。
今の時刻は明け方で、それで、あちこちの工場の夜間の光が、こっちは赤や緑、そっちは黄色や白、といった感じで点滅している。その向こう側の海から、太陽が朝を告げようと、顔を覗かせ始めた。海に太陽の光と、工場のライトの点滅の光が反射して、ここは一体、どこの世界なのだろうと思えるような美しい光景を作り出す。
「一番好きな場所なんだ。毎日、ぐちゃぐちゃで、クタクタで、限界で、格好悪い俺にとっての、唯一の救いの場所だった」
「……すごく、綺麗」
「うん。この景色を、俺のことを救ってくれた、一番好きな女の子と、一緒に見たかった」
そう言われて、泣きそうになりながら、彼の方を見つめる。
「わた、私……」
「いいんだ。無理に何も言わなくったって。俺が言うから」
彼が立ちあがり、私との距離を詰める。そしてそのまま、そっと私を抱き寄せる。本当は空だって飛べちゃうから、風に飛ばされても大丈夫なのに、強風から一人の女の子を守るように、大切に大切に抱きしめてくれる。
「君が好きだ。例え妖精だろうと、何だろうと、君が好きだ」
気がつけば、一筋の涙が、頬を伝っていた。
「私もあなたが好き。ずっとずっと、あなたのことを大切に想う。絶対にどれだけ苦しくても、忘れない。あなたのこと」
きっと、もう見ることのできない、彼の黒く優しい瞳。ゆるりとあげる、その口角。
一緒に過ごした中で知った、雑誌を捲るときや嬉しいときにみせる、子どものように純粋な、無邪気な笑顔。
彼の目を、頬を、その笑顔を。
彼が連れてきてくれた、たくさんの光が行き交う、この美しい世界の海を背景に。
私は全てを夢の中から記憶へと刻みこむために、心に愛しさを、脳裏に光景を、しっかりと焼き付ける。
そして、そっとその額に触れるだけの口づけをして、彼に妖精の祝福を贈るのだ。
「どうか、あなたがずっとずっと幸せでありますように」
少しずつ、身体が透けていく。
彼にこの祝福の口づけが、感触として届いたかは分からない。
だけどきっと、妖精の祝福は、夢の中から彼へと届いたはず。
だから、大丈夫。
それに妖精の祝福があってもなくても、あなたなら、大丈夫。
だけどあなたは妖精の祝福があってもなくても大丈夫だからこそ、受け取ってね。
他の女の子からは与えることのできない、妖精の女の子だから贈れる祝福を。
さあ、もうすぐ、私は目覚める時間。帰らなくっちゃ。
「大好き! ありがとう!」
涙が止まらないなか、それでも心からの笑顔で、おはようの言葉を、就寝の挨拶として告げた。すると、彼もまたあの優しい黒の瞳で私を見つめながら、ゆるりと微笑んで、いつものように目覚めの挨拶を返してくれるのだ。
「俺も愛してる」
彼のおやすみの言葉は、とても、とても、切なく、愛おしかった。
もう会うことの出来ない、大切な人。
叶うことのない、私の初恋。
初めて知ったこの苦しみは、私たちの中で、一瞬の美しい思い出として、深く、愛しく、大切に胸の奥底に刻まれるだろう。
とびきりの一日の終わりと始まりの挨拶を交わし、私たちは夢の中から自分たちの世界へと、戻った。
❁❁❁
「あれ? ごめん。俺寝落ちしちゃってたわ」
友の声で、目が覚める。朝日が、狭く前よりも汚れて荒れ散らかった部屋を照らしている。その中で、ゼフィランサスの花だけが純粋さを保つかのように、白く輝き、朝日に応答する。
「おい、大丈夫……か?」
「何が?」
「お前、泣いてるぞ」
そう言われて頬に触れ、涙が伝っていることに気づく。
「ああ、美しいものをみたから。ずっと、描きたいって思ってた光景を」
「……美しい、もの? かきたい?」
もう、隠すことなどないから。友の戸惑い気味の質問に、しっかりとあげられた前髪で開けた視界の中、真っすぐに、前を見据えて、言う。
「本当は画家になりたかったんだよ。だから、絵を描くんだ」
隙間時間をみつけて、まずは少しずつ。別に趣味でも、何でもいいから、自由にしてみるよ。君みたいに。
「ずっと決めてたんだ。描きたいもの」
ようやく描ける。君に想いを告げられたから。
あの一番好きな場所で、俺のことを想って、涙を流しながら笑う、一番愛おしい君の絵を描くよ。
俺も君のことを忘れない。だから君も俺のことを忘れないで。
※毎週土曜日、朝10時更新予定🐚🌼🤖