世界の子どもシリーズNo.3_過去編~その手に触れられなくてもepisode0~
こちら直接的な表現はありませんが、災害を連想させる言葉や描写があります。苦手な方は該当シーンを飛ばし読みするなど、何卒、無理してお読みなさらないでください。
特別な時間。特別な空間。特別な部屋。
惹かれてやまないあの人の向こう側で、一枚の白い扉だけが、私たちのことを見ている。
「「波が、くる」」
その日、初めて二人の声が被さった。
どうして、今日なのだろう。今日は私と彼しかいないのに。
特別な羅針盤が放った淡い光の先に映し出される光景を覗き込み、息をのむ。
「本当なら一週間後のはずだったのに……どうして……」
「分からない。でも、この羅針盤の……この光り方は確かだ」
珍しく、彼の口から分からないという言葉が零れ出た。食い入るようにその羅針盤を見つめる彼の額には、微かに汗が滲んでいる。羅針盤は両手で抱えるくらいに大きな深い紺色の正方形をしており、中央には針を守るように特殊加工した半球の水晶が、その周囲には時空と次元を示す白銀のメモリが刻まれている。
この羅針盤が示す方向はトキの位置。時空と次元が一致した座標のトキの未来を、中央の水晶の中へと映し出すのだ。
彼の詠唱に合わせて、羅針盤は紺色の中に時折、紫や赤を交えながら、宇宙の星々を代わる代わる点滅させていく。針が回転しては、止まり。また回転しては、止まる。羅針盤はもう、他の座標を示そうとはしなかった。けれども彼は、詠唱を続けては羅針盤の針を動かし、宇宙中の星々をその周囲に点滅させ続けた。
羅針盤はとても精巧に造られており、メモリには寸分の狂いもない。針を覆うようにして取り付けられた半球の水晶の層はとても薄く、かつ透明度も高いため、中に映し出される光景はとても鮮明だ。けれど、たとえ落としてしまったとしても、この水晶は決して割れることがないくらいに頑丈で、どれほどの歳月を経ても白銀のメモリからその紺の色までが褪せることなく美しい。それは、この羅針盤が今では滅びし最高峰の技術の結晶で作られた古の魔法具だからだ。彼の国にだけ受け継がれる、決して王族以外が触ることは許されない代物。それは希少だからではなく、危険だから。何も知らずに、能力以上に星を詠もうとこの羅針盤に触れてしまえば、ひとたび命を失うのだ。この羅針盤は触れるだけで生死に関わるくらいのとてつもない量の魔力が持っていかれる。
この滅びし魔法技術が詰め込まれた羅針盤を今も尚扱える者がいるとするならば、きっと彼くらいなのだ。
座標が変わらないと分かると、彼は何度も何度も、羅針盤の角度を変えては、揺らし始めた。星々がみせる絶望的な未来の中のどこかに、希望の光が残っていないかを、身体はもう悲鳴をあげるくらいにボロボロだろうに、最後まで諦めずに探しているのだ。
「くそっ」
彼が次に大きく羅針盤を傾けたそのトキ、彼の前髪が揺られ、とうとう額に滲む汗がぽたりと床に落ちた。この汗はきっと、魔力を使いすぎたというだけでなく、焦りが混じっている証拠なのだ。ずっと、ずっと、彼のことを見てきたから分かる。彼は嘘をつかないし、動揺している様など絶対に他者に、私にだって、みせはしない。その彼がこれほどまでに余裕がないというのは、そういうことなのだ。
十分に、十分すぎるくらいに、私たちは確認をした。
尚も羅針盤を何度も傾け、彼は僅かなものでも見逃さないようにと、水晶の中のさらに奥を、必死に覗きこんでいる。彼の動きに合わせて、彼の鎖骨くらいまである、ひとつに束ねた漆黒の髪が幾度となく揺れる。そしてあまりにも動くものだから、髪だけでなく、いつもきちんと羽織っているマントまでもがとうとうズレ落ちる。完璧に全てをこなす普段の彼ならば、これほどに髪を乱し、マントを落とすなどあり得ないこと。けれどズレ落ちたマントから露わになるのは、彼が王族として正式な場に赴く際に着用するアヴァロンの文様の金刺繍入りの魔導騎士服。
水晶の中に映し出される光景が、海の青一色だからなのか。それとも、部屋が薄暗いからなのか。彼が傾けた羅針盤の水晶は、傍で見ている私の姿をまるで鏡ようにその表面に映し出した。
王族が集うといっても、この空間に入れるのはよく知った彼と私と、アトラントの皇子とレムリアの姫だけ。特に今日は彼と私の二人だけだったから、水晶に映し出される私の髪色は、甘栗色。あえて、少しでも彼と同じ時間を感じたくて、アヴァロンの国を走り回っていたときと同じ髪型にしてきたのだ。
けれど、水晶は皮肉にも顔だけでなく、私の全身を捉えてしまっていたよう。ムーの王族の正装とされるシルクの白い舞踏ドレスに身を包んだ自分の姿が映し出されてしまった。
逃げることなど許されない運命を分かっているからこそ、せめて気づかなかったことにして、私は肩だけを浮かす深呼吸をする。もし、彼がうっかりとマントを落としてしまったのが日常であれば。彼が焦ってその髪を乱すようなことを、傍で支えることがこれから先に続く未来として私に許されるのならば、それはどれほどに、愛おしい感情へと変わったことだろう。
声を出そうとして、唇が震え、喉を震わすことなくただ空気だけを飲み込んだ。すると、集中している彼の方が口をあけ、もう一度詠唱をしようとしているのが分かった。彼はもう、十分すぎるくらいにやってくれたのだ。これ以上、無理をさせたくはなかった。決心よりも先に反射的に身体が動いて、ちゃんとこの空間に自分の声を放つことに成功する。
「私、行かなくちゃ」
勢いよく顔をあげた彼の、どこか琥珀がかった深紅の瞳が私の姿を捉えた。まるで燃えるように揺れる彼の瞳は、みているこちらが吸い込まれそうなくらいに熱く、そしていつまでも見ていられる宝石のように美しかった。
「どこへ?」
その声はどこか強張っていた。彼は聞き返したけれど、本当はきっと、どこへ行こうとしているか分かっているのだろう。言葉よりも先に、私がその瞳が大好きだというのを知っていて、それに弱いと知っていて、強く、熱く、私をみつめ、囚えて離さないのだから。
彼は自ら視線を逸らしはしないだろう。けれど、彼に見つめられたままでは、身も、心も。私の全てがこの特別な空間から、彼の傍から離れたがらないのを私は一番に知っている。だからこそ、本当は彼に囚われ続けたい嘆きのような想いを封じ込め、自分から視線を逸らすのだ。ずっと見ていたい彼の瞳から、何事もなかったのかのように微笑みながら。
「まだ陸の人は避難場所が決まっていない人が多いわ。伝えなくっちゃ」
これ以上は会話をすることも辛く、言い切るや否や私は彼に背を向け、部屋を出ようと動き出す。手にかけるのは行きたくて仕方がなかった白い扉のものではなく、自分が戻るべき方の、長い階段へと続くこげ茶色の扉のドアノブ。
「ダメだ。この光り方は確定事項。もうほとんど時間がない」
けれど、彼はどうしようもなく、私を弱くするのだ。躊躇うことなく私の腕を強く掴み、一切の迷いのない言葉で引き止めるのである。
例えば、これほどまでに彼が確認する星々のみせる絶望的な未来の、最後の希望の星を詠むことが、私にしかできないと、知っていても。
「……わかってる。だけど、みんなのこと、見捨てられない。でしょ?」
「だけど、絶対にダメだ! 俺が何とかする! 直前で星が変わるかもしれないだろ!? 最後まで諦めない! だから行くな。お前に何かあれば……」
けれど、二人のその声を遮るのは、彼がもう片方の手に握る羅針盤から放たれる光。それはピンクがかっていて、とても柔く、鮮やかだ。そこに羅針盤の紺色が合わさってとても美しく神秘的に輝くのに、光が伝えることはひどく残酷だった。見ようとしなくとも、二人の瞳いっぱいに、星々が視せる未来の見慣れてしまった光景が広がっていくのだから。羅針盤が示す時刻のメモリだけを、早めて。
「「波が早まった」」
もう、一刻の猶予もない。最後、座標が変えられないのであれば、今という時間に流れる、一分一秒のそのトキそのトキの選択肢に賭けるしかないだろう。もしそこに希望を繋ぐのならば、羅針盤でも詠むことのできない最後の星、その声を私が外に出て聞き、伝えるしかないのだ。
本当に、本当に私たちは十分過ぎるくらいに確認した。
彼は私の身体に負担がかからないよう、四人の力を羅針盤に溜めてから、一人でずっと、星を詠み続けてくれた。
その彼の優しさの分、私には最後、星を詠む力がまだ残されている。
「私、行かなくっちゃっ」
あの星は、私にしか詠めない。逆に、彼にも、他の誰にも詠ませてはいけない。だから私が、行かないとダメなのだ。
そして、この決断は私がしたものだけれど、私だけのものではない。彼は止めてくれるけれど、とても、とても優しい人だから。彼は絶対にみんなのことを見捨てられるはずがないのを私は知っている。きっと、この決断は恐怖や弱い心の全てを取り払ったときに残る、二人の意志。
心が一緒であることが、私に今から動く勇気を与えてくれるのだ。
依然、彼は私の腕を力強く掴んだままだけれど、私は再び、もう片方の手でこげ茶色の扉の方のドアノブを握り直した。しっかりと、彼の瞳を見つめ返しながら。
「ダメだ、行くな。もう間に合わない」
「……いいえ。まだ、間に合う。全員じゃなくても、一部の人だけでも」
「嫌だ。お前に何かあったら、俺は耐えられない。それに、きっとみんなだって耐えられない。……頼む」
何時だって、どんなトキだって、強く、完璧な彼がその瞳を潤ませたのをみて、全身が震え痺れるような心地になった。私はゆっくりと瞬きし、その宝石のような瞳を、心に、脳に、身体に、魂に。私のもつ全てに焼き付けるように、深く、とても深く刻み込んだ。
「私……」
数センチほど、向かおうとする先のドアノブから、指が離れてしまう。彼の手を両手で握り返したくなってしまったのだ。彼の瞳の色をもっと深く記憶に刻み込みたくて、その瞳の奥底まで覗きこもうとする。するとそのトキ、彼の瞳の色は紅色のはずなのに、無常にも突然に割り込む色が、彼の瞳を紫にしてみせた。
それは羅針盤が告げる次の未来で、そこから放たれたピンクがかった光と、水晶に映る海の青が、そうさせたのである。
「「……波が、くる」」
再び声が被さり、視線は必然的に羅針盤に映るそれへと、向かう。
何故ならそれは座標がそのままに、見慣れているはずなのに、確実に初めてみる光景へと変わったからだ。
「「二回も」」
羅針盤に刻まれる時刻のメモリが僅かばかり進み、規模を一度目よりもさらに大きくして、星々は新たな未来を伝えたのだ。先ほどと同じく、確定事項として。
もう彼に言葉を残すことさえ出来ないくらいに、時間が迫っていた。私は彼が羅針盤を食い入るように見つめているその隙に、彼が掴むその愛しい手を、心とは裏腹に振り払い、勢いよくドアをあける。その先に続くのは、サンムーンへと続く、長い階段。
「行くな! もう間に合わない!」
「一度目よりも、二度目の方が大きい。せめて、一度目を逃れた人たちだけでも、一人でも多く助けなくっちゃ」
階段を数段ほど降りたところで、いつの間にか腰元まで伸びた、揺れる私の髪の先端を、彼の手が掠めとる。それに気づいて振り返ると、彼が扉から身を乗り出せるだけ乗り出し、懸命に手を伸ばしてくれていた。
初めてみる彼のあまりにも必死な姿は、私に平常心を取り戻させてくれたよう。そのまま降りた階段を一段ほど登り、彼へ触れられるかどうかのギリギリの距離の中。かかとを数センチほど浮かせて背伸びをし、彼の唇へと、触れるだけのキスを落とす。
「私、あなたの元にしか行かないって決めてるから」
自然と、子どもの頃のように、無邪気な笑顔が漏れたのが自分でも分かった。それと同時に紡ぎ出された言葉は、再会したトキに、本当は真っ先に言いたかった自分の本心。
「カイネ!!」
もう後ろは振り返らない。勢いよく、階段を駆け降りていく。彼はあの特別な部屋からでることはできない。
ここからは、私が星を詠む。
誰の為に?
自分の為に。
※毎週土曜日、朝10時更新予定🐚🌼🤖