オリジナル小説

私の達人

2020年11月15日

スポンサーリンク

 

 いつもの帰り道。多くの人が足早に駅へと向かう中、一人のろりのろりと歩き進めていく。まるで、自分だけに違う時間が流れているかのように。

 今日は久しぶりの定時あがりだ。来る日も来る日も残業で、誰もいない真っ暗な部屋に帰っては、そのまま寝て終わり。翌朝、何とかシャワーだけ浴びて出勤。もっぱらカロリーメイトの世話になり、食べてもカップ麺やコンビニの弁当くらい。のんびりとお湯につかることもなければ、手作りの温かいご飯を食べることもすっかりなくなってしまっていた。

 そんな中で訪れた月末のプレミアムフライデー。法律とイメージづくりだけはしっかりと守る会社の方針で無理やり帰らされたけれど、だからと言って今日できなかった分の仕事がなくなるわけでも、誰かが代わりにやってくれるわけでもない。

 早く帰れて嬉しいはずなのに、何とも言えない気持ちの深いため息が漏れる。その息が冷たい空気に放たれ、白く濁っていく。外はこんなに寒くなっているのか。そう思い、改めて周りを見渡すと、月は雲で覆い隠されてしまっているというのに、辺りは緑や赤の光でチカチカと眩いばかりに明るかった。世間ではもうじきクリスマスらしい。

「今日は久しぶりにゆっくりと飲みましょうよっ!」
「今から行くお店、予約とれたのすごくない?」
「ねぇねぇ、今年のクリスマスはどこのイルミネーションを見に行く?」
「よし、今日こそはレイトショー観て帰るぞ」

 そして、よくよく見てみると、自分と同じだと思っていた足早に駅へと向かう人々は、皆それぞれ楽しそうに笑っているではないか。

 プレミアムフライデーとは友人や同僚と飲みに行ったり、恋人とデートをしたり、趣味に使うもののようだ。そう思と、のろりのろりとゆっくりでも進んでいた足はピタリと止まってしまった。まるで、自分だけ違う世界に放り出されたかのように。

 自分には一緒に愚痴を言い合える同僚も、急に飲みに誘える友達も、支えてくれる恋人も、夢中になれる趣味もない。どれだけ考えても、誰も、何も、思い浮かばない。

 私は何をしているのだろう? 何のために、働いているのだろう?

 仕事に追われ、何一つ、プライベートを大切にできていなかったのだと急に実感する。
 道の真ん中に立ち尽くしていたのもだから、何度かすれ違う人たちと激しく肩がぶつかった。その度に身体は大きく揺れるものの、決して進もうとは思えなかった。

 かなりの時間をそうしていたと思う。周りからジロジロと白い目で見られ始めた頃、すれ違った一人からふわりと懐かしい匂いが漂ってきた。

 カレーの匂いだ。

 カレー屋なんて、いくらでもある。けれども、あのすれ違った人から微かにしたカレーの薫りは、どこか実家のものと似ていた。辛いのが苦手な私のために、林檎と蜂蜜、そしてコーンがたっぷりと入った母の特製カレーの薫りと。

 あのカレーを思い出すと、無性に母に電話をかけたくなった。何となく、母へと電話が繋がれば、一人だけ放り出されたこの世界から戻れるような、そんな気がしたのだ。

  実家に電話をかけるのも久しぶりだ。ゆっくりと少し震える手で、電話帳から母の番号を開く。じっと、その番号をみつめ、軽く深呼吸をして、通話をタップする。

「もしもし?」

 数コールで出た携帯の向こう側から、いつもと変わらない声が聞こえてくる。

「もしもし、私やけど……」
「理沙? どないしたん? なんや、元気ないね?」

 その言葉にぎゅっと口を縛る。母は声一つで、私のことなら何でも分かってしまう達人だ。

 すぐに言葉はでなかった。それを何も言わずに待ってくれている母との間に流れる沈黙は、日々の生活にある冷たいものではなく、とてもとても温かいものだった。

 喉から漏れそうになる嗚咽のような声をぎゅっと飲み込み、震える唇を何とか動かして言葉を絞り出す。

「何も……ないよ。あんな、急やけど……、今から帰ってもええ?」

 定時あがりとはいえ、今から地方の田舎へと帰れば、終電ギリギリ、真夜中だろう。母が何て言うかなんて、分かりきっている。それでも、聞いてしまうのは甘えなんだと思う。

「うん、ええよ。帰っておいで」

 その言葉に周りのネオンの光が歪み始める。母は言葉一つで、私の不安をかき消してしまう達人だ。

「……うん。うん、ありがとう」

 泣きそうなのがバレないように、ゆっくりと慎重に声を絞り出していく。それでも、達人の母にはきっとお見通しなのだろうが。

「あ、せやせや。今日は偶然な、理沙の好きなカレーの日やってん。つい作りすぎちゃったから、いっぱい食べるとええよ」

 そう言う母の声に混じって、車のキーとキーホルダーがカチンとぶつかり合う音が響いた。きっと、冷蔵庫に張り付けてあるマグネットの鍵フックから、キーを取ったに違いない。

「……うん。食べる……ありがとう」
「うん。ほなら待ってるから、はよお帰り」

 その言葉に一筋の涙が頬を伝った。母は笑顔一つで、優しい嘘をつく達人だ。

 今から急いで材料を買いに行き、作ってくれるのだろう。私の大好物の、林檎と蜂蜜、コーンのたっぷりと入った、母の特製カレーを。

 携帯を切り、涙を拭い進みだす。足早に駅へと向かって。

 

補足

「私の達人」はMGNET MCROLINKさまの第9回 三題噺にて松賞を頂いた作品になります。

そのため、原文ママにしています。

MGNET MCROLINKさま(現在は自由投稿スタイル)でも読むことができます。

-オリジナル小説

© 2021 はるぽの和み書房