世界の子どもシリーズno.0_prologue
「一緒に泳ぐって、どうやって?」
彼はその問いに答えることなく、軽やかな足取りで岩の上へとよじ登っていった。岩陰から出れば、日の光を遮るものはなくなってしまうというのに、その動きにはまるで迷いがない。
岩の上で、出会ったときのように彼が仁王立ちをする。すると、それを見計らったかのように天から風が吹き、彼の深く被っていたフードをさらっていった。
「あっ」
慌ててそれを止めようと、海の中から岩の上へといる、天を見上げる彼に向かって手を伸ばす。間に合わないと分かりきっているのに、誰がどうみても、ここから彼に手が届くはずなどないのに、反射的に動いてしまったのだ。
けれど、喉が震え、声が紡ぎ出されるよりも先に、彼が振り向いたのである。きっと日の光りは彼の身体を蝕み、痛みを感じさせるに違いなのに、迷うことなく堂々と、笑みを浮かべながら。
それにあわせて目覚めた太陽が、さらに外の世界へとその身体を露わにし、彼の顔を明かしていく。
「っつ……」
月明りの柔い光と違い、太陽の眩い光は彼の透き通るような琥珀がかった紅い瞳の曇りひとつない美しさを、くっきりと世界に映しだした。
まるで炎のように燃ゆるその色は、あまりにも情熱的過ぎて、水で生きる今の自分が見てはいけないと、そう思うくらいに。
それなのにその熱量以上に、優しさや温もりが彼の表情から伝わるから。彼の瞳を見つめてはいけないと思う心以上に、彼は何も言葉にせず、見つめてもいいと、その表情ひとつで全てを赦してくれるのだ。
「世界に俺たちがここにいるって、見せつけてやろう」
「え?」
「二人一緒なら、昼も夜も、どこでだって生きていける。……信じてついてきてほしい」
さらに強い風が吹き、ついに完全に彼のマントを天高くに飛ばしていく。それに構うことなく、彼は岩の上で膝をつくと、全く聞いたことのない、どこか懐かしくも不思議な詠唱を始めた。
詠唱と共に漏れ出る魔力は、これまでに出会ったことのある誰よりも強く、全身に鳥肌をたてさせた。けれど、全身から感じる彼の魔力が心にまで浸透したのだろうか、失った記憶の奥底にいる自分が、叫ぶように伝えているような気がした。彼のその力の強さは決して誰かを傷つけるためではなく、守るために存在するのだと。
詠唱が終りきった彼は、沈黙のままに地面に浮かびあがる赤い魔法陣を真剣にみつめている。
突然に動きを止めたことが気になり、彼の様子を覗おうと、顔がよく見える岩の前方へとまわり込む。この辺りは浅瀬のため、顔を出しながら泳ぐと、小さな水しぶきが起こる。ちょうど風が止まったからか、水の弾ける音が、いつも以上によく響いた。
けれど、その音に気付いた彼が魔法陣から視線をこちらへと移した。すると、たちまち二人の視線が絡み合い、彼の情熱的な紅い瞳の中に、淡い緑の髪と瞳の人魚が心配そうに見上げている姿が映り込んだ。
彼はただただ真剣な表情のまま、その瞳にだけ、熱い想いと決意のような何かを宿し、短く言い切る。
「昼は竜になる」
止んだ風は、天高くに舞った彼のマントをあっさりと返却してくる。けれど、返却先を間違えたのか、それは彼の元ではなく、心配と戸惑いで瞳を揺らす、この海で唯一の、緑の人魚の頭へと被さった。
「わ、わわ」
まるで夜のように、漆黒のマントは光と視界を遮った。あたふたと手でそれを払おうとして、ふっと息が漏れるような笑い声が耳に心地よく残る。その声や笑い方はきゅうっと心臓を掴んで、違う意味でブルリと鳥肌をたてさせた。全身で、一瞬一瞬の些細な出来事さえも、憶えようとしているかのように。
けれど、その心を擽る何かの答えを見つける間もなく、上空から突然に巻き起こった風が、マントを再びさらっていく。今度は彼からではなく、私から。
すると、外の世界の光と共に現れるのは、太陽の光が反射しはじめた海の上を飛ぶ、紅色の竜だった。
「……竜」
その呟きに応えるように、竜は大きく翼を動かし、今度は風でマントではなく、私の髪をさらっていく。少し伸びた緑の髪が自身の身長よりも高く、空に向かって流れた。
上半身を纏っていた水滴は一瞬で吹き飛び、髪はボサボサになったであろうことが、感じられる。けれど彼が発生させた風はとても心地がよく、あまりにも楽しくて、笑みが漏れる。
「へへっ、すごい」
すると、竜はあっという間に天高く昇り、雲の遥か上、きっと宙に近い位置から、それでもこの世界全てに、宙とはあまりにもかけ離れた海にいる私にまで届くように、嘶いた。
竜の嘶きが、今日という一日の始まりである朝を、世界に告げたのだ。
そして、竜は海に向かって急降下したかと思うと、風圧で凄まじい水しぶきをあげ、水面ギリギリを飛行していく。
海の向こうへと姿が小さくなっていったかと思うと、また天高く昇り、緑の人魚が控える岩の付近へと急降下しては、風圧で凄まじい水しぶきをあげて、水面ギリギリを飛行するのを、たった数十秒の間に幾度も繰り返した。
朝日と、竜と、海から生じる水しぶき。その全てが壮大で、とても、とても、美しかった。
「わぁ、すごい。まるで、竜が泳いでるみたい」
その呟きを、あんな風圧と水しぶきがあるなか、どうやって拾うのだろうか。けれどきっと、ちゃんと声が届いたから、来てくれたのだろう。
岩の付近まで戻り、今度はその場で翼を大きくバタつかせ、何かを待つように、竜はひとりの人魚を、みつめていた。
「……わかったわ。一緒に泳ぐのね?」
きっと、燃ゆるような紅色をもつ目の前の彼は、竜の中でも火を司る火竜だろう。けれど、今まさにみせてくれたように、彼は一緒に海を泳いでくれるつもりなのだ。水の中を生きる人魚の、私と共に。
それを、できるかどうか考えるのではなく、真っ先にできると示してくれた彼は、太陽が昇り、既に十分に光があるこの世界の中で、本当の光を自分に与えてくれたような気がした。
気が付けば頬を生温かい水滴が伝っていた。ここは海の中ではないから、それらはただの泡ではなく、本当にちゃんと涙として一滴の雫にかわる。そして、あっさりと頬から落ちたその瞬間に、海に紛れてまたただの水へと戻っていった。
ひとたび海の中の一滴となってしまえば、目から零れ出たそれが涙であったということは、零した自分と目の前にいる彼にしか、分からない。
黙って様子を見守る竜は、その翼から発生させる風で海の水は一瞬で吹き飛ばしたというのに、決して涙の水を弾き飛ばすことはなかった。
これは喜びの涙だと伝えるには、あまりにも感情が混ざり過ぎていて、待ってくれている彼に何を言えばいいのか、すぐに思い浮かばなかった。たくさんの傷ついた心と、悲しみの先に得た喜びであるために、ただの喜びと言うには言葉では足りなさ過ぎたのだ。だからきっと、彼が示してくれたように、言葉ではなく笑って伝えるのが一番だと、素直にそうすることに決める。自分の意思で止めることのできないその涙をただそのままに、頬をゆるめて、目を細めて、今ある全ての感情を込めて、竜に向けて微笑んだ。
すると、その笑みに返ってくるのは竜の嘶きで、とても、とても力強いというのに、涙の全てを許し、笑顔の全てを受け入れてくれるとびきりに優しい響きは、まるで抱きしめてくれているかのよう。
そうして、確信するのだ。もう、海は怖くはないと。
私も泳げる、と。
「……ついていく。そのスピードに」
すっと深呼吸して、海へと浸かっていく。顔をつけるのは、一度だけ。涙の跡が分からなくなれば、十分なのだ。首元まで身体に水が馴染んだところで、目を開き、顔は海面から出した状態で、勢いよく尾を蹴り飛ばす。ぐんと、最後まで、尾の先端までしっかりと力をいれて蹴り飛ばし、他の人魚のように優雅というよりは、力強く、脚力頼りで泳ぎ進めていく。
その泳ぎに合わさるのは、竜が天へと昇る音。程なくしてそれは、急降下するものへと変わり、たちまち大きな水しぶきを生み出す。
器用に海面ギリギリを飛行し、風圧で水しぶきをあげて、火竜はひとりの人魚の横を、泳ぐのだ。
全力で泳ぎながら横を向くと、自身の身体よりも大きな深紅の竜の瞳がそこにあった。日の光があたると、宝石のように、深い紅に透き通るような琥珀色が揺れる。どの宝石よりも美しく、誰にも手にすることのできない彼だけの宝石だから、意味があるのだ。そんな彼だけの宝石の中に映りこむのは、ずっと忌み嫌われていたはずの、この海でたったひとりの淡い緑の髪と瞳をもつ人魚。
前を向けば、真っ青な海と空が待ち受けていて、けれどそこに日の光が加わって、遠くの海は青というよりは、光。光の中を、二人で泳ぎ進める。
「…………」
けれどやはり、スピードは竜には追い付けない。彼は決して置いてはいかないから、定期的に天に昇り、急降下を繰り返すことでペースをあわせて泳いでくれているのだ。
だから今度は、彼が海面ギリギリでの飛行位置を決める少し前に、自分から大きく空に向かって、ジャンプする。
他の人魚と違い優雅には泳げないけれど、代わりに誰よりも力強く尾を蹴り飛ばして泳ぐことができるから、誰よりも高く、海から空に向かって、跳び上がれる。
海から跳び上がっている時間なんて、ほんの一瞬だけ。それでも、彼が幾度も天へと昇り急降下を繰り返し共に泳いでくれるから。
泳いでくれている間は、私が何度もジャンプして、一緒に空を飛ぶの。
私が跳び上がると、彼がとても嬉しそうに瞳を和らげて笑ってくれたのがわかり、もっともっと、飛べる気がした。
ああ、泳ぐのは、楽しい。
ああ、飛ぶのは、嬉しい。
火竜が海を泳ぎ、人魚が空を飛ぶ。
共に泳ぎ、共に飛ぶのだ。
たとえ、火と水で相いれない性質をもっていたとしても。
たとえ、昼と夜で生きる時間帯が違ったとしても。
たとえ、その手に触れられなくても。
彼と共に見る世界は、失った過去も、まだ何も見えぬ未来も越えて、ただ今という一瞬一瞬が、一分一秒が、輝いていて、愛おしい。
ああ、私の瞳にうつる世界もちゃんと、美しい。
その手に触れられなくても
✶✶✶
「もう私には、時間がないの」
倒れる彼女を抱きかかえ、そっと、頬にかかる乱れた髪のひと房を払う。周りにいる誰もが、躊躇いがちに様子を覗いながらも、まるで近づかない。見ているくせに、誰も声をかけようともしない。むしろ、目を背けるのだ。心の奥底にある罪悪感のようなものから、自分たちを守るために。
罪悪感を抱えるくらいなら、最初からこんなこと、するなよ!
今さら助けもしないで、赦されるために謝るなんて遅いんだ!
けれど、彼らを罵るような言葉や感情はいくつも思い浮かぶのに、自分もまるで彼らと同じように、彼女にしてやれることが、何もないのだ。
ああ、魔法も持たない、生きる場所も違うただの迷い人に、何ができるっていうんだ。
浅く、小さく息を吸う彼女を、そっと、これ以上壊れないように大切に、大切に、抱きしめる。
すると、彼女は震える手を伸ばし、頬に触れながら笑ったのだ。
「いい、いいんだ! 無理に笑わなくていい。……辛いトキは辛いっていっていいんだ」
褐色がかった肌はそのままでも美しいけれど、きっと、健康的な生活を送れていればもっともっと、彼女の美しさをより引き出しただろう。
「大丈夫」
彼女の方が辛いだろうに、情けなくも止まることなく零れ出る自分の涙を、彼女が拭ってくれる。
「全然、大丈夫じゃないじゃないか。こんなの……こんなの……」
けれど、今にも壊れそうなのに、彼女は自分の腕の中で首を振ると、やはりとても柔らかく、微笑むのだ。
「私は笑いたいトキにしか、笑わない。……あなたが泣いて心配してくれるから、嬉しいの」
胸が詰まり、言葉を返したいのに喉を震わすことしかできず、ただ何度も何度も、頷いた。
自分の動きに合わせて涙がついうっかり、彼女の頬に落ちてしまう。
その雫はあっけなく形を失い、彼女の涙ではないのに、まるで彼女が泣いたかのように、その頬を伝った。
けれど、想いは伝わるのだろうか。涙が伝った瞬間に、彼女がとうとう、笑みを浮かべながらも静かに自らの瞳から、その涙を零したのだ。
「でもね、だから、笑いたいし、泣きたいの。……時間がほしかった。あなたと一緒に泣いて、笑う時間が、ほしかった」
魔法使いの彼女と迷い人の俺。
地上世界と地下世界。
昼を生きたいのに俺は夜を生き、夜を生きたいのに彼女は昼を生きる。
きっと、全てが違うんだ。
それでも彼女と同じ時間を過ごしたい。
彼女が安心して、泣いて、笑えるように。
earth to earth ~古の魔法使い~
✶✶✶
どれくらいの時間を列車の中で過ごしたのかは、分からない。日本で過ごしていた時期も、あそこは物こそ多かったものの、自然にあふれていたから、これまでの環境との差は、然程感じられなかった。何とかロンドンまで来て、運良くも満月のタイミングがすぐにきたから、あの慣れない機械とやらのたくさんある生活とはあっさりと別れを告げられた。けれど、この秘密の地下鉄という列車もまた、ロンドンでみた多くのものと変わらないのが、漠然とした不安を持たせた。
「あまりにも失ったものが多すぎて……便利というものの良さが、分からないんだ」
彼の地での別れを思い出し、息を漏らす。例えばあの日傘というものが、あのトキにあれば何かが違ったのかもしれない。エアコンとか、扇風機とか、ああいうものがあれば、あのトキであれば欲しいと思っていたに違いない。
けれど、失ってしまったものはもう戻らないからこそ、ただ一緒に過ごしたあの景観、自然だけが、自分にとっての変わらない大切な人との日々を思い出すものだった。
それさえも、憎しみに蝕まれれば、同じ場所ではなく、違う場所へと行きたくなり、そこに自分の求めるものがなければ、明確な目的などないのに、少しでも似たものを探してしまうのだ。
ひとりきりの貸し切り列車で、何となく、横たわり眠ることにした。皮肉にも、ずっとこれまでに彼の地で使っていたベッドよりも、列車の座席の方がふかふかであった。
「布団が気持ちのいい寝具なのかと思ったけど、なんだ……こっちの世界の物は何でもよくできているんだな」
いつも自分の足で歩いてきたというのに、ロンドンまでは飛行機というもので移動をした。地上世界に魔法はないというのに、何もせずに、ただ飛行機というものに乗ればあっという間に目的地へと着いていたのだ。
この列車はもうひとつの地下世界へと向かっている。そういう意味では魔法を使っているのだろうけれど、この列車自体は地上世界のものをそのまま使ったと聞いている。
魔法があっても、救えないもの。魔法がなくても、救えるもの。
魔法があれば、できること。魔法がなくても、できること。
「はは、全部がわからないや」
そこからはもう記憶がなく、全てが夢の中。微睡みの世界の中で、懐かしい大切な人たちとの日々が思い出され、もう目覚めたくないとさえ、思ってしまった。どこか遠くで汽笛の音がしたような気もするが、辿りついた先に別に行き先はないので、そのまま懐かしい夢を楽しむことにした。
「ちょっと、起きなさいよ!」
けれど、無理矢理にそれを現実へと引き戻すのは頬の痛み。ゆっくりと目を開くと、目の前にひとりの少女が、いた。
「えっと、痛いんだけど」
「そう? じゃあ、目が覚めたってことね。言っておくけど、何度も声をかけたんだから」
ツンと澄ました顔で、少女は寝そべる自分の真ん前の座席へとどかっと腰かけた。
頬はまだひりひりとした痛みを残している。どうやら目の前の少女につねられていたらしいのだ。
「君は誰?」
「ナタリーよ。……ねえ、私と同じ瞳の、そうね、髪がストレートで……雰囲気が似てる女性、見なかった?」
ずいっと彼女は顔を近づけてくる。瞳をみせようとしているだろう。けれど、それは彼女の目論見とは違った意味で、自分のことを夢中にさせた。全身に稲妻が走ったような感覚を受け、彼女のその深く芯の通った緑の瞳にくぎ付けになったのだ。目覚めてすぐは視界がぼやけていたからこそ、すぐには気づかなかった。けれど、今ならば分かる。
「星が導く運命の人」
勝手に、口から言葉が零れ出ていた。けれど、ナタリーは苛立った様子で、緩くカールがかった長い髪を後ろへと払い除け、言う。
「そう、それよ。エミリーの口癖。そんな人いる訳ないのに。……口癖を知ってるってことは、あなたエミリーを見たのね? まだロンドンに行くって言ってきかないから、困ってるの。ロンドンに……地上世界に行くなんて、馬鹿げてる」
「……っつ!」
すると、次の瞬間には今いる車両の窓ガラスが粉々に割れていたのだ。このナタリーという少女は優れた魔法使いらしい。即座に詠唱なく、簡易的な魔力のシールドを二人分つくり、ガラスの雨から自分だけでなく、二人ともを守ってみせた。
「何!? 一体、何が起こったの……!?」
ナタリーは依然、シールドを引っ込めることなく、辺りを警戒している。彼女は我が身だけでなく、初対面の自分をも躊躇いもなく、守ってくれた。きっと、悪い子ではないのだ。それなのに、久しぶりに地下世界に戻ってきたからだろうか、魔力が怒りで暴発して、自分の意思で止めることができないのである。
「……地上世界で生きた者のことを、悪く言うことは、許さない」
「あなた、何者? これ、あなたがしたの? これほどの魔力……」
「……星が導く運命の人を、悪く言うことは……許さない!」
抑えられない魔力の暴発は、既に割れてしまった真横の窓をスタート地点に、隣の車両へと広がり、威力を増して他の窓も破壊していく。
全ての窓を割り終えた頃には、ドゴンと強く叩き上げるような衝撃が走り、列車が一度ほど、上下に大きく揺れた。
ずっとシールドを保っていたナタリーも、流石にバランスを崩して、倒れそうになる。
本能的に彼女をとても大切に扱いたい気持ちと、姉のことを想うと、素直に彼女の言葉が受け入れられない気持ちとが交差して、手を伸ばすことまではできたのに、一瞬の迷いで、彼女の手を、掴みきることができなかった。
「きゃっつ」
ガラスの破片まみれの床に転ぶと、どうなるのかは分かりきっている。
こういうときほど、魔法を使えばよいというのに、頭が回らず必要な魔法が上手く思い浮かばない。
「ごめっ……」
けれど、そこに逞しい大人の手が伸びてきて、ぐっと、彼女が地面へと倒れ込む前に抱え起こす。
「……父さん」
「すまない、来るのが遅れてしまった」
「破片を集めることはできるけれど……さすがに私たちでは修復魔法までは難しいはね」
「……母さん」
ナタリーの父親らしき人は、ナタリーを立たせると、母親らしき人に彼女を任せ、今度はこちらに向かって手を伸ばしてくる。思わず視線を下げるも、そこには自分が壊してしまった窓ガラスの破片がいくつもいくつも、落ちていた。
こんなことをしてしまい、何か報復を受けるのかもしれないと、身体を強張らせる。けれど、その人は一定のところでピタリと動きをとめ、こちらが身体を強張らせたのをみると、あっさりとその手を引っ込めたのだ。どうやら、握手を求めていたらしい。ほっとするのも束の間、こちらから再び手を出そうかと悩んでいたところへと突然に、頭に大きな手が被さり、何年ぶりかなんて分からない、人に頭を撫でられる懐かしい感触が、続いた。
「思いのほか、若い来客だったので驚いてしまった。ブライトアースへようこそ。私はエンヴァシンプル・ブラウン。まあ、この秘密の地下鉄の創設者の子孫で管理を任されております。……あなたはロンドンに残った魔法族の家系の方か何かかな?」
驚いて顔をあげると、深く刻まれた皺をさらに深くして、その人は微笑んでいた。自分のことを名乗ろうと喉を震わせたところで、母親と話をしていたらしいナタリーの叫び声がそれを遮る。
「どうして!? 私にだけ黙ってもう昨日の満月で行ってしまったっていうの?! 来月って……来月の満月って言ってたじゃない!! それまでに絶対に止めようと思ってたのに!」
「ナタリー……もうエミリーは行くと決めてたの。あの子は自分でメダルも手に入れた。そのタイミングで乗車希望者が現れた。……あなたは反対すると思ったから、みんなで……あえて来月と、言ったのよ」
「うそ、嘘よ! だって、言ったじゃない。……地上世界で姉さんはきっと、長くは生きられない。星が、視えたんだもの。どうして誰も、私の星詠みを信じてくれないの!? ……なんで!!」
ゴクリと唾をのみ、そのやりとりを黙って聞いていた。そして、自分に天秤の試験を出題した人は、ナタリーが言う女性の特徴と一致することを思い出し、何となくを悟る。
けれど、再びエンヴァシンプルが頭を撫でながら、どこか寂しさを残す声で、言うのだ。
「……あなたと入れ違いでロンドンへと向かったのは、私たちの娘、あの子の姉です。私たち一族は、星詠みというのを、しておりまして。一言では言えませんが、それで古の魔法を憶えたり、時折、未来が視えたりするのです。ただ、本来であれば、あまり誰かの生死に関わるものを星たちはみせない。けれど、ナタリーが頑なに、エミリーがロンドンへ行くと、魔法家系図……家族の所在が分かるような、代々受け継がれる魔法具なのですが……それのエミリーの部分が薄くなると、言ってきかないのです。誰も、ナタリーの星詠みを疑ったりはしない……けれど、誰にも、星にも、刻にも……エミリーは止められなかったのです」
母親に強く抱きしめられながら、姉さん、と何度も叫び泣き崩れるナタリーの姿は、いつの日かの自分と重なったような気がした。
「……俺にだって、誰にだって、命のことを容易に理解なんてできない。だけどきっと星々は……エミリーさんが生きたその先の何かを、彼女に託そうとして、みさせたんだ」
けれど、ナタリーは父親を押しのけて自分との間に割ってはいると、きつく眉を吊り上げて、泣きながらもしっかりとその深い緑の美しい瞳でこちらを睨み、宣言するのである。
「あなたのせいよ! 地下鉄が運行されることなんて、もう何十年もなかったのに! この世界に何の用事があってきたっていうの!? あなたが来なければ、エミリーはロンドンへは行かなかった! 私はあなたを絶対に認めないし、許さない!」
「……生きるためだ。大切な人から守られた命で、生きるために来たんだ! 俺だって絶対に、君のことを認めないし、地上世界で生きた者のことを馬鹿にすることは、許さない!」
数秒程睨みあい、どちらからともなく、ふんと顔を背ける。けれど、ここで生きていくには一人では無理で、結局のところ、彼女の両親である秘密の地下鉄の管理者へと、頭を下げなければいけない。
「未来は変わるから、俺はエミリーさんを信じます。……こっちの世界のことはよく分からない。都合がよいことを言いますが、助力願えませんか?」
エンヴァシンプルはとても愉快そうに、今度こそ自分の手を半ば強引に掴む形で握手をしながら、笑った。エミリーの代わりに来てくれたのが、君でよかった、と言いながら。
そこで改めて、彼らから一歩さがり、左拳を右手で包み、膝をついて正式な礼をとり、自らを名乗る。
「キース・ハミル。ハミル家の者です。ロンドンではなく、厳密に言うと、サンムーンからやってきました」
それを聞き、エンヴァシンプルだけでなく、ナタリーも、彼女を宥めていた母親までもが、目を見開き、食い入るようにキースをみつめる。
けれど、先ほどナタリーに問われて、ようやくに決意が決まったからこそ、キースはもう、目的地を悩むことはなかった。
「俺は星詠みを捨てにきたんだ。ブライトアースなら、それができるって聞いた」
エンヴァシンプルは顔に刻まれた皺を深くし、神妙に頷きながら呟く。
「まさか、ブラウン家とハミル家の者が、もう一度顔を合わす刻がくるとは」
サンムーンでも幾度となく、ハミル家とブラウン家の話は聞いたことがある。きっと、こちらの世界でも、そうなのだろう。
キースは彼の地のことを思い浮かべながら、言い切る。
「血筋なんて関係ないですけどね」
「血筋なんて関係ないわ」
けれど、その言葉はナタリーと被さって、反射的に互いが互いの顔をみて、深く視線が絡み合う。
その瞬間に感じるのは、無理矢理に抑え込む、稲妻が走るような衝撃と、本能的に感じる彼女への愛おしさと、どうしても抑えることのできない怒り。
けれど、ふと、内側から星の声が聞こえてきた気がするのだ。
『秘密の地下鉄の最終運行の時がくる』
ああ、きっと、彼女は俺にとっての星が導く運命の人。
俺とナタリーは同じ痛みを抱えて、正反対の考えを持っている。
ずっとあの瞳をみていたいのに、どうしても目を逸らしたくなる。
とても惹かれるのに、反発する心が抑えられない。
けれど、彼女の憎まれ口が、キースがここにいる意味を与えたのだ。
生きるため。大切な人に守られた命で生きるために、ここにいる。
地下世界と地上世界。
サンムーンとブライトアース。
日本とロンドン。
地球から地球へ、世界を跨いで、俺は生きている。
そこに意味を生み出すのは、目の前にいる、自分のことを睨む、星が導く運命の人。
きっと俺は、もう一度、秘密の地下鉄に乗るような気がする。
ナタリーとキースの魔法茶屋
✶✶✶
「ねえ、そこにいるんでしょ?」
目の前にあるのは、一枚の白い扉。
その扉の横も、後ろも、ただひたすらに今自分がいる例の洞窟が続いている。この扉の先には特に建物が続く訳ではなく、本当にぽつりと、空間の一部に、扉が存在するだけなのだ。
けれど、この扉は、ちゃんと意味があってこの世界に存在する。
一枚の白い扉は、彼の元へと繋がっているから。
「…………」
じっとみつめるのは、扉の左上にある、大きく割れた箇所。
近づけば近づく程、扉の白が月投石の淡く青い光を反射して、より一層、その色を青くみさせた。
暗闇に覆われたこの世界を照らすのは、月投石の放つ淡く青い灯だけ。闇夜に白は目立つためこの世界で白は多用されるけれど、本当の意味で、自分たちはその色を見つめられたことがないような気がした。
いつだって、何かを確認するためには月投石の淡く青い灯が必要で、白を白としてみようとも、どこかそこに青が加わるのだから。
彼からの返事はないものの、扉の向こうで、彼が日頃使うと言っていたメタルスーツとやらのパーツ特有の物質がぶつかりあう音が微かに響いた。
彼は気配を消して動くのに長けている。それなのに、メタルスーツの音を耳の良い自分に聞かせたということは、彼なりのここにいるという、意思表示なのだ。そして、その足取りはどこかごつごつとした雨水の湿気のある地面を歩く音を、連れている。
きっと、彼も同じ場所にいる。
扉の向こう側で、違うトキの流れる同じ洞窟を歩いているのだろう。
「ねえ、答えは決まった?」
「そっちこそ」
私たちは扉で隔てられた世界を再び繋ぐのか、完全に閉ざすのか。
太陽と月。
光で覆われた世界と闇で覆われた世界。
彼は夜を求めて光を生き、私は昼を求めて闇を生きる。
「私は扉を……」
「僕は扉を……」
その扉の向こう側に
✶✶✶
あなたは短い刻を大切なヒトと過ごしますか?
それとも長いトキを大切な仲間と過ごしますか?
もしくはそのどちらでもない新しい時を大切な人と過ごしますか?
すべてがあなたの自由で
そのどれもが正解なのです
あなたとあなたの大切なひとが笑っていれば……。
過去、現代、未来。
愛と時空を巡る、トキと時と刻の物語。
世界の子どもシリーズ
※毎週土曜日、朝10時更新予定🐚🌼🤖