小説・児童文学

死神のホワイトチョコレート2―レ―~はるぽの物語図鑑より中編物語~

2025年1月4日

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死神のホワイトチョコレート2―レ―

 

 人は母親のお腹に宿ったその瞬間から、一分一秒であっても、生きている時間は何にも代えがたいもので、それは褒美を受け取るのに値する。
 もちろん、もらえる褒美以上に悪いことをする奴は知らないけど。
 だけど、悪いことをしていない人がご褒美もなしに、望む場所へと辿り着くか分からない状態で、列車に乗るのは、何か違う気がする。何とか、しないと。

 そんなことを考えながら一緒に無言で歩いていると、女性に尋ねられる。

「特別な待合室って……別の、待合室を用意して下さるってことですか?」

 特に行先を考えてなかった俺は、慌ててまたもっとももらしい嘘を重ねていく。

「……そうですね。俺のミスですから、別の待合室ではなく、本当に特別な待合室へとご案内したいと考えています」
「……特別な、待合室……」
「はい、こちらです」

 表面上は冷静に、けれども内心焦りながら、咄嗟に指差したのは、何処でもない、世界の狭間へと繋がる入口。
 白いコンクリートの道が続き、その周りは真っ青な雲一つない空。その下は純粋な、何も混ざることのない水。その水面に、真っ青な空の青が映り、ここは白と青しかない空間となっている。

「……綺麗」

 そう彼女がボソリと呟いたのを聞いて、ほっと心の中で安堵の息をつく。

 よかった、特に疑ってはないみたいだ。

「……ここが、私が使ってもいい待合室ですか?」

 そう問われ、俺は彼女が少しでも安心できるように、不気味に映らないよう心がけ、ゆるく、微笑んで見せた。

「……はい。といっても、今回あなたが待合室へと入れなかったのは俺のミス。だから、あなたの待合室へ行くまでのさらに特別な待合室です」

 何もないこの狭間の空間は、どこをみても同じ景色が広がっている。彼女は焦点を定めぬまま、考えるように遠くの方をみつめていた。けれど、徐々に瞬きの回数が増えてきたかと思うと、終始落ち着いた口調で話していた彼女がとうとう、視線をこちらへと向けるのだ。まるで言葉では足りない感情の表現を補うかのように、少し、首を傾げながら。

「待合室へ行くまでの……待合室?」
「そうです」

 けれど、彼女はやはり、その不安を口に出すこともなければ、不平不満を言うでもなく、黙り込んだ。そして、それ以上なんて言葉を足したらいいのかを分からないでいる俺の代わりに、彼女は自らで答えを出すかのように小さく俯き、一拍置いて、また尋ねる。

「……あの。こんな部屋初めてで、使い方が、よく分らないんですけど……この白い道を、歩いていたらいいのでしょうか?」

 すると、ずっと冷静であり、そのまま冷静であり続けようとしていた彼女も、ようやくに肩の力を抜くことができたのだろう。ほんのりと眉を少し下げ、泣くまではいかないものの、どこか潤んだ瞳を揺らし、不安というものの片鱗をその表情からみせてくれたのだ。
 そしてようやく、本当の意味で俺を頼って質問してくれたような、そんな気がして、思わず意識した微笑みでない、完全なる笑みが漏れる。

「うん、大丈夫。特別な待合室だから、普段は誰も入ることができない。だから、部屋の使い方なんて分からなくって、当たり前。俺が、あなたの待合室が開くまで、一緒にいるから、大丈夫」

 こちらを見ながら何度も瞬きし、口を動かそうとするも、真っ青な周りをキョロキョロと確認してから、彼女は口を動かすのをやめて、そっと頭を下げる。

「……よろしく、お願いします」

 そこで完全に、彼女が遠慮するのではなく、待合室の件は俺のことを頼ると決めてくれたのだと判断し、彼女の手を握る。

「じゃあ、行こう」
「え?」

 今度は彼女の目が僅かに見開き、驚いているのが窺えて、またひとつ、彼女の感情がみられたと、何故だか嬉しくなった。

「特別な待合室って、言ったでしょう? だから、ここは時間を待たない待合室なんだ」
「えっ!?」

 彼女と俺の身体が宙に浮き、一方的に握った手を、今度は彼女の方からぎゅっと強く握り返したのが分かった。

 なんだ、やっぱり冷静を装ってただけで、ちゃんと感情がいっぱい動くじゃないか。

 俺は益々嬉しくなって、少し声をあげて笑いながら、彼女を見て、言う。

「誰かに会いに行ったり、誰かをここに呼ぶことは出来ない。だけど、走馬灯の上映にはまだ早すぎる。だから、あなたの一番好きな場所や一番好きな物が見られるところに連れて行くよ」

 彼女の目が、また僅かに揺れる。明かされる行き先が怖いところではなく、好きな場所というのに少し安心したのかもしれない。彼女は小さく微笑み返してくれる。

「……よかった。よろしくお願いします」

 目尻を下げて、口角を若干上げて笑うその微笑みは、二十代にしては幼いその子どもっぽい顔つきを、一気に年相応に見せさせる。
 肩くらいまであるその黒髪に合わせた白いブラウスにはリボンが付いていて、ベージュのスカートのその裾部分には紺色のラインが控えめに入っている。
 きれいめにコーディネートされた服装が、清楚な雰囲気の彼女に合っていて、何処かに出かける時のものなのかもしれないと思い、彼女が気を許し始めたのをこれ幸いにと、聞いてみる。わざわざ視るよりも、本人の口から聞き出せるに越したことはないのだから。

「それは、一番お気に入りの服? その服を着て、いつも何処へ行っていたの?」

 買い物かな、映画館かな。それとも、デートの時の服装かな?

 けれど、行先を決める参考に軽く聞いたはずが、返ってきたのは思いがけない言葉。

「えっ、分からない。一番、無難な服を選んだから。何処にでも、何となく行けそうな、服」

 予想外すぎて反応に困り、俺はゆるやかな笑みを浮かべるのも忘れ、目を丸くして、うーん、と小さく唸る。そしてやっぱり、手を握っているのをいいことに、結局、こっそりと彼女の記憶を見させてもらうのだ。

「そっか、俺はその服装、とても似合っててオシャレだと思うよ。だから、その服に合う場所へ行こう」

 ぎゅっともう一度、強く彼女の手を握り、さらに浮いている自分たちの高度を上げて、360度、空しかみえない空間である狭間の世界を、移動していく。

「わっ」

 また彼女が驚くのがおかしくて、あんなに落ち着き払って澄ましていたのに、一度警戒を緩めるとこんなにも感情豊かになるのかと、こちらもとうとう、感情を抑えることができず、もう営業スマイルなんてとんでしまって、普段の笑い方が漏れ出てしまう。

「ははっ。ほら、ついたよ」
「え、すごい……」

 彼女の目がみるみる見開いて、繋いでいる手にどんどんと力が籠って、彼女から溢れる驚きが、今度は喜びに変わっていくのが分かった。

「え、すごい!」

 ここで怯えずに喜ぶあたりが、やっぱり彼女は冷静を装っていただけでなく、元々何事にも動じないタイプでもあったのかもしれないと思い直す。

「私、この場所、好きなんです」

 彼女がハニカムように笑い、同意するように小さく数回ほど頷いた。そして、彼女の反応的にこの地を選んで間違いないだろうと判断し、着地体勢に入る。
 怖がらせないよう、まず俺から先に降りて彼女をエスコートしようと思ったけれど、彼女に迷いはないらしい。ほぼ俺と同時に、彼女はそのままこの地に降り立ったのだ。
 終始怖がる様子はなかった。けれど、唯一彼女の性格が表れている箇所があるとすれば、それは自分と繋がれた手であった。
 もう着陸したため手は放してもいいのだけれど、彼女はずっと手を繋ぎっぱなしでないとダメだと思っているようで、手を離すどころか、しっかりと握り返したその手の力を緩めることさえしない。
 例えば幼稚園などで、幼い子どもたちが安全のため、移動するのに隣の友だちと手を繋ぐようにと先生に言われれば、手を離してもよいと言われるまでずっとそうするだろう。
 けれど、子どもであっても、小学校に入ったころくらいから、年齢があがるにつれ、手を繋ぐということもあまりしなくなってくる。大人になれば尚のこと、恋人や夫婦でない限り、大人同士で手を繋ぐなどしないだろう。むしろ、恋人や夫婦でなく大人同士で手を繋ぐ機会などあれば、どこか恥ずかしさや躊躇いが生じる場合がほとんどだ。

 彼女はあれほどに遠慮がちであったというのに、ひとたび頼ると決めたら、知らない俺と手を繋ぐことも素直に受け入れ、律儀にこちらが何かを言うまで、ずっとそのままでいるのである。

 とても、純粋で大人とは思えないくらいに素直な人だな。

 だからかもしれない。何となく、彼女をみていたら手を離すタイミングを逃してしまったのだ。
 けれども逆に、手を繋いでいても移動に困りはしないので、俺は結局、手を繋いだままでこの場所を巡ることにした。

「誰もいないですね……」

 最初は嬉々とした目で辺りを見渡しながら軽やかに歩いていた彼女の感想は、どこか不安が滲むものだった。
 俺はこの光景に慣れているから、つい、他の人にとってそれは珍しいということが抜け落ちてしまっていたのだ。

「あー、えっと……」

 俺の声に合わせて、彼女がこちらを見上げたのが分かった。少し小柄な彼女がただ横を向くだけでは、俺とは目は合わない。けれど、彼女は目を合わせて話すタイプらしい。この数分でもそれが分かるくらいに、ひとたび会話が始まると、必ず首をしっかりと動かして、見上げてでも目を合わせてくれるのだ。
 そんな彼女の瞳はどこか澄んで見えて、俺の答えを待つかのように、ゆっくりと瞬きをしている。
 純粋さが溢れ出る彼女には、世界の狭間だから、と説明するのはややこしいく、何よりも世界の狭間のことを知りすぎるのもよくないと思って、俺はまた適当な嘘を重ねていく。

「ほら、特別って言ったでしょ? まだ開館前の貸し切り」

 そっと、人差し指を口元に当て、それっぽく仕草も加えてみる。
 そうしたら、あれほどに用心深そうだったのが一転、ころりと信じて、にっこりと微笑みながら、とても嬉しそうに頷くのだ。

「すごい……。何だか贅沢ですね。美術館の貸し切りなんて、初めてです。それも、こんなに大きな美術館」

 ゆっくりと歩きながら、本当は狭間の世界だから自分たち以外の誰もいない美術館を、開館前の貸し切りの美術館ということにして、二人だけで、たくさんの名画を観てまわる。

「私、この絵、好きなんです」
「うん。美しい色だよね」
「あ、この絵も好き」
「うん、瞳が、生き生きとしてる」
「あ、これもすごく有名なやつ」
「そうだね。この画家は少しずつ画風が変わっていくから、こうやってみると面白い」

 くるくると表情を変えながら、絵を見る彼女がとても楽しそうで、本当にこの場所を選んでよかったと改めて思った。
 彼女の記憶の中で、唯一、わざわざ二回も旅先に選んで訪れていた場所だから、一番好きな場所なのではないかと予想をしたのだ。

「ここ、めちゃくちゃ好きなんです」
「うん。俺も好きだな」

 中でも彼女が特に喜んだのは、絵だけでなく、空間自体をそのままに再現したとあるチャペルだった。天井から壁一面に描かれた絵はもちろんのこと、椅子までもがきっちりと設置されている。美術館だからだろう、白を基調とされているスペースが多いなかで、このチャペルは青を基調として造られている。そのためひとたびこのチャペルに足を踏み入れると、美術館の中というよりも、本当に別の空間へと飛んだのではないかと思えるくらいに、独特の世界観へと惹き込まれる感覚があった。中に入った途端、彼女は息をのみ、くるくると動かし回っていた表情をぴたりと止めたのだ。きっと、この空間の全てを味わっているのだろう、ゆっくりと歩いては止まり、目を凝らすように近づいて壁の絵を真剣に見てまわるのだ。右側も、左側も、天井も。天井なんてそんなに見上げると首が痛くなるのではないかというくらいに見つめ続けていた。
 例えば、今は二人だけの貸し切りなのだから、寝そべってみるとか、そういう悪いことを、俺が彼女の立場なら絶対にしているに違いない。けれど、この期に及んでも彼女はそんなこと思い浮かびもしなければ、思い浮かんでもやらないタイプなのだろう。
 ただただ、長い間、空間そのものを彼女は楽しんでいた。きっと、時間でいっても、この場所が一番長く滞在していたと思う。けれども、彼女がこのチャペルを熱心に堪能している間中、隙をみては名簿リストを確認したけれど、彼女の名は点滅したままで、確実に刻まれる気配もなければ完全に消えることもなく、また、向こうの待合室が開かれた気配も感じられなかった。
 そして彼女は自らで「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀をし切り上げると、最後だと分かっているはずなのに、名残惜しい素振りは一切にみせず、あっさりとチャペルから出ていくのである。けれど、これほどに熱心に観ていたことを思うと、やはりこの場所に賭ける方がいいと、「あっちの方も見てみよう」と声をかけ、広い美術館の中を引き続き、巡っていくことにする。

 そうしていくつもの名画を楽しみ、最後に辿り着いたのは、大きな壁画のところ。

「ここ、修復前と修復後の両方の絵を楽しめるんですよ。すごいですよね」
「確かに。これはこれで楽しいね」

 少しずつ打ち解けてきたのだろうか、二人で顔を見合わせて、笑いながら絵の感想をちらほらと話し、壁画を楽しんだ。そうしたら、俺はただの案内人だというのに、普段の案内とは違って、あまりにも長い時間を特定の誰かと過ごしてしまったからかもしれない。もしくは仕事ではなく個人的に動いているという認識があったのも大きかったのだろう。少し、照れ臭くなってしまったのだ。すると、彼女はそのままだというのに、俺の方がつい恥ずかしくなってしまって、咄嗟に、彼女と繋いでいた手を離してしまったのだ。

「……ちょっと、待ってて」
「え?」

 彼女の顔をみずに、本来美術館で走ったりなんてしてはいけないというのに、誰もいない貸し切りであるのをいいことに俺は走り続けた。そうして向かうのは、誰もいないお土産売り場。
 お土産売り場にもまた、小さな美術館でもあるのかというくらいに、店内に所狭しと名画がプリントされたお菓子やグッズが並べられているのだ。その小さな美術館の中から、彼女と時間を気にせずに見てまわったたくさんの名画の、さらに厳選されたものが何枚ものポストカードとして陳列している棚をみつける。どれもきっと綺麗であるのだろうけれど、彼女が好きだと言った絵画のものも何枚もあったけれど、その中で二枚ほどがほんのりと光ったのを確認する。俺はほっとしたように、それらを二枚とも手に取った。

「やっぱり……コレなら持って行っても大丈夫そうだ」

 彼女が喜ぶに違いない、そう思ってまた誰もいないのをいいことに俺は美術館の廊下を走り続けた。これが本当の世界なら、きっと汗のひとつだって流れていただろうに、世界の狭間では息ひとつ乱すことはない。先ほどまでと同じように、落ち着いた様子を装って戻ってみるも、彼女の姿がなくなっていたのだ。

「あれ?」

 一人で世界の狭間を移動できるはずがないし、まさかと思って名簿リストを確認するも、変わらずそのまま。向こうの待合室も、まだ開かれてはいない。一体どうしたのかと思い、慌ててキョロキョロとあたりを見渡すと、名画の中に紛れて、小さな小さな丸い影が、隠れていたのである。
 彼女は二枚の壁画の真ん中で、器用に頭もその膝上へと納め、髪と腕でその顔を隠し、蹲っていた。

「どうしたの!?」
「え?」

 ここに物理的な痛みや怪我というものは存在しない。きっと、調子が悪いということは、無いはずだ。けれども、顔をあげた彼女の頬には涙が伝っていて、俺はただただ慌てて彼女へと駆け寄った。

「え、ごめんね? もしかしてここ、悲しい想い出の場所だった?」

 反射的に彼女の腕を掴み、ポストカードを持つ手をその背に添えて、そっと支えるように、けれどもぐいっと半ば強引に引っ張るようにして、彼女を立たせた。すると、彼女は素直に引っ張られるままに立ち上がり、驚いた表情のまま、じっとこちらを見つめ返すのだ。

「い、いえ……。悲しい想い出とかじゃなくて……」
「うん。何かしんどいこと、思い出したの? ここはあなたにとって、辛い場所だった?」

 そうすると、彼女が虚を突かれたとでもいうように目を大きく見開き、ぴたりと泣くのをやめたのだ。けれども、すでに瞳に溜まってしまっていた涙はどうすることもできなかったのだろう、彼女は笑い出したけれど、口角があがるのに合わせて、その頬に涙が美しく伝っていった。

「いえ……確かにしんどいし、辛いのかもしれない。だけどそれは、場所では、ないのかも。だって、ここ好きな場所だから。……だからここだからというよりも、どこでも。きっと、毎日、ずっとそう」

 話している内容と、笑っている表情があまりにも違いすぎて、俺はどこか胸が痛くなった。
 ああ、感情を抑え込んでいるのを漠然と分かっていたのに、どうして気づいてあげられなかったのだろう。
 彼女にバレないように唇を噛み、どうにか本音を引き出せないかと、先ほどの言葉を彼女の独り言にさせないよう、慣れないなりに会話に持ち込もうと、言葉を選んでいく。

「えっと、じゃあ、さっきまで笑ってたのに……今はどうして泣いてたの? どうして突然泣きたくなったの? もっとしんどくなったの?」

 焦る俺をじっと彼女は見つめたまま、言おうか言わまいか悩んでいるのだろうか、彼女はその唇を震わすことはなかった。けれど、俺が視線を逸らしたりしなかったからだろう、彼女はどこか観念したように若干に俯くと、視線をポストカードの握られた手元へと移し、躊躇いがちにポストカードにぶつからない絶妙な位置に、自身の手を重ねてくるのだ。
 だから反射的に、もう片方の手を彼女の手に重ね、大丈夫だと言う意を伝えようと、俺も彼女の手を握り直した。

「お、置いてかれたのかと、思って……」
「え?」
「手を、繋いでないとダメなんですよね?」
「あ」

 慌てて俺は握られていた手を離して、不可抗力だとでもいうように、肩の横に手をあげながら言う。

「ご、ごめん。手は移動する時だけで、大丈夫」
「え?」
「ずっと繋いでて、ごめん……ね? 一人だと不安にさせるかなって思って、そのまま繋いだままにしてしまって」

 彼女は何度も瞬きをしながら、少し頬を赤らめる。けれど、もう涙は乾いたようで、彼女の顔はすっかりと泣いた後のそれに変わっていた。

「あ、いえ。私こそ、いい大人が……すみませんでした」
「ううん。そうだね、こんなところに急に置いてかれたら、怖いよね」
「……その。流石に……美術館の幽霊とか、なりたくないな、なんて……」

 小さな声でそう呟き、苦笑いする彼女に心底申し訳なくなり、俺は頬を掻きながら、お詫びの代わりに、彼女を泣かせてまで取りに行っていた二枚のポストカードを渡す。

「……コレ?」

 躊躇いながら、差し出されたからだろう、反射的に受け取ったポストカードを、俺は彼女の手にしっかりと持たせるよう、ぎゅっと、彼女の手の上に自身の手を重ねて力をこめた。

「大丈夫。美術館の幽霊になんて、しないよ。ここは、本当に遊びに来ただけだから」
「ポストカード、いいんですか?」
「ここにあるだけの物は持っていけないけど、あなたが実際に向こうで持っている物なら、持っていけるんだ」
「え、どういうことですか?」

 けれどやはり、置いて行かれて美術館の幽霊になると思ってしまうような純粋な彼女に、世界の狭間のアレコレを説明したくはない。
 俺は緩く首を振り、何でもないというように、もう質問は受け付けないという意を込めて、きっぱりと言い切る。

「ううん。コレ、好きかと思って。ここのお土産屋は買えるものと買えないものがあるから、俺が代わりに買ってきた」
「…………はい。ありがとうございます。私、美術館に行くと、いつもお気に入りの絵のポストカードを、厳選して買ってたんです」
「うん、そうだと思ったんだ。よかった」

 彼女はやはり全てを受け入れて、それ以上の質問をする代わりにニコリと微笑み、ポストカードに目をやった。もうその瞳には涙はおろか、その顔からも泣いた形跡がすっかりと消えていて、俺はとても、安心した。ポストカードを見つめながら「嬉しい」と呟いてくれたのが、俺もどこか嬉しくて、やっぱり彼女の名簿リストをどうにかしたいと、強く思ったのだ。

「さあ、次の場所へ行こう」
「え、いいんですか?」
「うん……まだ、時間があるからさ」

 俺が彼女に用意したのは待合室の待合室。もうとっくに、その域を越えているけれど、まだ彼女の待合室は開かれてはいないから。だからもう少し、許されると思うんだ。

 俺は遠慮がちにそろそろ戻った方がいいと申し出る彼女に、まだ明日の仕事の時間にはなっていないからと言い聞かせ、再び彼女の手を握り、次の彼女の楽しかった想い出の旅先を訪れる。

 彼女が一番好きだった宿、一番好きだったコテージ、彼女が訪れたことのある一番遠い場所。

 どの場所もすごく綺麗で、とても楽しそうに笑ってくれるのに、彼女は絶対に言わない。

 また行きたいな、とは。

 何度も何度も、彼女の意識が違うものに集中している隙に、名簿リストを確認し続けた。けれども彼女の名は、未だに点滅が続いている。完全に刻まれることもないけれど、完全に消えることもない、その狭間。
 けれど、俺が思いつく限りに訪れた旅先の最後の場所を笑顔で出発したそのあたりから、光る間隔が少しずつ、空いてきたように思われるのだ。目を凝らして確認すると、明らかに名が刻まれている時間の方が長くなってきてしまったのである。
 それなのに、向こうの待合室が開かれた気配も感じられないまま。
 彼女には明日の業務に回してしまったと言ったけれど、もう、現実世界では完全に夜が明けてしまう頃合い。
 俺は悩むも、どうにもならないのならば最後、せめて待合室を確認する方がいいと、判断する。

「……一旦、待合室の様子を確認しにいこう」
「はい」

 

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