死神のホワイトチョコレート3―ナ―
改札へと戻り、俺は珍しく長机とパイプ椅子の指定席から動き、彼女と一緒に、彼女の待合室の扉を確認しにいく。
彼女の名が刻まれたプラカードが掲げられている事実を目にする方が、ひどく自分を焦る心地にした。
けれど一方で、当の本人はやはりケロリとしていて、躊躇う素振りをみせることなく、その扉を強く押すのだ。
ただやはり、扉は押しても開かれることはなく、試しに彼女が今度は引っ張ってみたけれど、施錠されたような、ガシャンという音だけが響き、扉が開くことはなかった。
「やっぱりまだ、開きませんね……」
「はい、押しても引いてもダメみたいです」
けれど、それに合わせてついに彼女がポケットにしまっていた乗車券が光だしたのだ。
「あれ?」
「……! ちょっと見せてください」
「は、はい!」
今度は二人して、乗車券を確認する。うっすらと、彼女の乗車切符にも、行き先が書かれないまま、時刻だけが刻まれ始めたのだ。名簿リストのように、点滅を繰り返しているのである。
「私、もう一度、確認してみます!」
「はい、お願いします」
本当はそんなこと思ってなどいないのに、彼女につられて、そう返事をしてしまった。けれど、時刻が刻まれ始めたのならば、やはり、待合室へは入れる方がいいに決まっているのだ。もしも彼女が列車に乗車するのならば、走馬灯は必要だから。
ただ、響くのは先ほどと同じような施錠された扉の、ガシャンという、開くのを拒む音。
じっと、彼女の横顔を盗みみるけれど、彼女はそれを喜ぶでも悲しむでもなく、ただそのことを受け入れて、怒りも悲しみも感じられない真顔のまま、ぼんやりと開かれることのない待合室の扉を見つめていた。
「…………やっぱり、中には入れないみたい」
「そうみたいだね。普段なら仕事の準備を始める時間だけど……まだ乗車案内する時間ではないから。それでかも」
「そうなんです……か?」
「うん、本当に俺のせいでごめんね。もうちょっとだけ、待合室が開くまで待ってて」
名簿リストの方も、切符と同じく点滅を繰り返すままだった。ただ先ほどよりもかなり、光が弱くなって、名が刻まれている時間の方が、気持ち長くなったように感じられた。
このままだと走馬灯を受け取れないまま、ホームから彼女は列車に乗らないといけなくなるかもしれない。となるとやっぱり……。
ジェスチャーで促すように、彼女の待合室の待合室だと嘘をついた、空と純粋なる水しかない空間、世界の狭間の入り口へと二人で戻っていく。
そして、彼女の切符に時間が刻まれ始めたからこそ、もう俺には視えてしまうのだ。本当に自分が言った通り、時間でいうとちょうど夜が明けて、明日というのが現実世界でくるあたり。彼女の切符は点滅こそしているが、もし完全に時刻が刻まれてしまえば、彼女は明日がくる前に列車に乗ることになってしまう。
発車時刻はまだ決まっていないはずなのに、もし決まってしまえばそれは、その時刻そのものには、猶予がないのだ。
そのことを、俺はもちろん、恐らく彼女も分かっている。
むしろ、彼女は俺の嘘も含めて、本当は色々を察しているのだろう。
発車時刻だけが確実に刻まれようとするなか、列車の行き先はやはり決まっておらず、待合室の扉も開かれない。
そこに気がかりが加わるとすれば、俺がもつ、名簿リストの点滅の、変わり具合。
だから俺は、あえて、彼女に核心をつく質問を投げかけてみる。
「ねぇ、また行きたい場所は見つかった?」
周りの青空を眺めながら、白い道をぼんやりと歩いていた彼女が、驚いたように振り向く。
目が合い、数秒視線を交わした後、彼女が寂しげに笑う。
「はい。全部の場所にまた行きたいし、行かなくてもいいくらいに十分楽しみました」
小さく息を呑み、俺はまた、名簿リストを確認する。明らかに、名前がほぼ刻まれ、光が薄くなっていた。
「本当にまた行きたい場所はない? 別に俺とじゃなくて、他の誰とでもいいんだよ? あなたの記憶を見させてもらったけれど、家族とも仲が良いし、友達だって……」
すると、彼女はずっと穏やかな笑みを浮かべていたのに、グッと苦しげに眉を寄せて、少し声を荒げて、俺の言葉を遮る。
「あるけど、ない!! ……また行きたいし、もう何処にも行きたくない」
彼女の表情以上に、その言葉に、とてもとても、俺の方が胸が痛くなった。それでも、どうしても、俺はその言葉をそのままに受け入れられず、つい言ってしまうのである。
「でも……あなたは戻ろうと思ったら、本当は戻れるはずだ」
彼女は俺から目を背け、じっと青空を見つめながら、この白い道を立ち尽くす。けれど、俺が本当のことを言ってしまったからだろうか、鏡のように水面に映し出される彼女の姿は、とても儚く、脆く、見えるような気がした。
「戻っても、行きたい場所に行く自信が……生きていく自信が、ないんです」
「え?」
「だけど、列車にちゃんと乗車できる自信も……最期をちゃんと上手に迎える自信も、ないのかもしれない。だから待合室の扉も開かないのかも。……何人の人が葬儀に来てくれるのかな? 誰も来てはくれないかもって」
「……別にまだ乗車が決まった訳じゃないし、仮にそうだとしても、きっと……たくさんの人が来てくれると思うよ。あなたの記憶を見る限り、あなたの周りには……」
すると、彼女はやはり視線を何もない青い空間、空の方へと向けながら、ただただ、自分で自分に言い聞かすように首を緩く振った。
「……そう、ですね。何人かは絶対に来てくれる友人が、いると……思います。家族や、親戚も。きっと、みんな、泣いてくれると思います」
「……なら!」
思わず、俺の方が大きな声を出してしまった。それに反応するかのように、彼女がこちらを向いたかと思うと、切なげに眉を顰めて、顔は美術館で泣かせてしまった以上に泣いているくせに、決して涙を零さず、透き通るような声で、言うのだ。
「私、それなりなんです」
ここには風が吹かないはずなのに、どこかから風が吹いてきて、彼女の髪とブラウスのリボンとスカートを順に揺らしていく。
「それは……どういうこと?」
彼女の泣き叫ぶような表情がちゃんと俺には伝わっているのに、情けなくも、その言葉の意味を理解はできなくて、ただ聞き返すことしかできない。すると、ふっと何かを諦めたように、彼女が笑うのだ。けれどもその諦めたような笑みは、俺に対してではなく、彼女自身に向けてのものであるのが、すぐに分かった。俺をみるその瞳そのものには、ずっと優しさがあるままだったから。
「家族とも友達とも仲が良いのに……でも、自分の思っていることを全部言えるような、そういう関係ではなくって……」
「…………」
「私の人間関係って、それなりなのかもって思う時があるんです」
「……みんながみんな、思っていることを全部言い合うような関係を築く性格だとは限らないよ?」
彼女が風で乱れた黒い艶やかな髪を耳にかける。そして、彼女はふと、鎖骨くらいまであるその髪のひと房を人差し指と中指で挟み、自身の髪をみつめながら、まるで決められた台詞のように、言い切る。
「私、ずっと黒髪なんです」
「え? うん……記憶をみさせてもらった限り、ずっと黒髪だったような気がするね」
彼女はどこまでを分かり、どこまでを何気なく話しているのだろうか。ついうっかり、記憶をみさせてもらった限りと白状してしまったけれど、それを責めたりするというよりは、「でしょう?」と確認するように、どこか困り顔で頷くのだ。そして、スカートの裾を摘みながら、わざとらしく肩を竦めるのである。
「なんか、いつもオシャレもそれなり。無難な髪の色に、無難な服で、全部、それなりに終わっちゃう」
そうかな。その服も、髪の色も、似合ってると、俺は思うけど。
「……みんながみんな、派手な服が似合ったり、明るい髪の色が似合う訳じゃないと思うよ?」
だけど、俺は上手く言葉が紡ぎ出せなくて、また先ほどと同じようなことを言ってしまうのだ。彼女の言っていることが、良い意味で分からなくて、だけど彼女の言いたいこと自体はちゃんと分かっている。だからそれを伝えればいいのに、ちゃんと言葉にしているというのに、伝えることができないのだ。
「そうですね。そうかも、しれません……でも」
彼女はとうとうしゃがみ込み、やはり涙をこらえているのだと思う。ほら、その感情と瞳よりも正直に、先に話すその声が震え出している。
「私、全部それなりなんです。どんなに頑張っても、容姿も、性格も、勉強も、仕事も、プライベートも……全部、全部、全部」
「……っつ」
彼女は声を震わせながらもちゃんと全てを言い切って、俯いてしまった。その表情は彼女の長い髪が隠して、俺にも、誰にも分からない。
けれど、髪でその顔が隠されて安心したのかもしれない。彼女が零したであろう涙のひとつが、白い道ではなく、張り巡らされた純粋な水の方へと落ちたのだ。何も混じらないはずのその真水に、涙の弧が、広がっていく。けれど、水はそれを拒まずに弧が消えると共にその涙を受け入れたから、やはり、彼女の想いも、涙もきっと、とても純粋なものなのだろう。
「全部、それなりなのっ。どんなに頑張っても、全部、全部、本当に、それなりなのっ……」
「そんなこと……」
彼女は顔を俯けたまま、けれども明確に否定だと分かるくらいに激しく首を振り、俺の言葉を遮る。そして、また小さく呟くのだ。隠しながら零した涙以上に、泣いていると分かってしまう、震えるその声で。
「それなりの私が頑張ってそれなりを続けても、きっと、何も変わらない。それで、それなりだから。それなりの私が去っても、誰も、何も困らない。どちらでもいいなら、なら……もう、頑張りたくない」
ついにそれ以上の言葉を噤み、彼女は美術館でみつけたときのように、小さく小さく丸まっていた。ただ、その時よりも泣いているとはっきりと分かるくらいに、その身体が小刻みに震えているのだ。
「泣かせるつもりじゃ、なかったんだ」
まだ戻れるならって、勝手に思ってしまったんだ。
彼女の記憶をみさせてもらって、確かにすごく努力家で、上手くいかない時も、寂しげに笑っては、またすぐに次のことを取り組み始めて。すごく、強い女性なのだと、そう思ってしまっていた。
だけど、ここへ着いてすぐの時も、確かにずっと不安や驚きを抑えていた。今話してくれたように、家族や友人と仲が良いことに嘘はないのだろうけれど、周りに気を遣うあまり、何かが、彼女の中で言葉や感情として外にでることなく、たまり続けていたのかもしれない。
それなりという言葉に隠れて。
躊躇いがちに、小さく丸まってしゃがみ込む彼女の、その壊れてしまいそうな背に、触れる。彼女はそれを拒みはしなかったけれど、ぴたりと、その身体を震わすのをやめてしまった。
泣くのを、やめさせたい訳でもなかったんだ。ごめん、ごめんね。
「大丈夫。大丈夫だよ。あの、さ。せっかくだから、聞かせてよ。……あなたは乗車を拒む気はなさそうだけど、進んで無理矢理に列車に乗ろうともしていない。何がそうさせるの?」
彼女は戻るのも、列車に乗るのも自信がないと、言っていた。まるで自信がないから待合室が開かなくて、戻るに相応しくないというように。
だけど、俺は逆だと思うんだ。
あなたの戻ることを怖がらせる何かが、待合室が開くのを拒んでいるんだ。
すると、思いがけない質問であったのかもしれない。その瞳も、頬も。涙で濡れてしまっている顔をようやくにあげてくれて、濡れた睫毛を何度も上下に動かしながら、一生懸命、律儀な彼女は考えだしたのである。そして、真面目故に答えようと、その喉を震わすのだ。
「……分からない。だけどこのままだと、身体がもう、動く気がしないんです。でも、心が、もう身体にむかって頑張れって言わない。もう……言えないの。自ら進んで乗ろうとは思わないけど、別に乗る時が来たのなら、拒んでまで戻ろうとも、思えないんです。あまりにも突然だったから……もしかしたら、気づくのが遅かったって、家族は責めるかも。でも……みんな優しいから、術後の看病とかも……絶対にずっとしてくれるから……その方がみんなに負担かもって。このままの方がいいのかもって」
「そんなことないよ。みんな、心配してるけど、嫌そうな顔なんてしてないよ」
そうしてやはり、彼女は自分で自分に言い聞かすかのように首を振り、自らを戒めるように、言葉を訂正するのだ
「いえ、わかってます。やっぱりただの言い訳ですね。家族は悪くない。友達も心配してくれてるの、知ってる。だけど、私がもう頑張れない。もう、頑張れないの……」
再び流れ始めた彼女の頬から伝う涙の雫が、白い道へと何粒も落ちていく。そのうちのいくつかが、何も混ざることのない純粋な水にも零れ落ちて、水面に涙の弧を広げていった。やはりこの純粋な真水は、彼女の涙を受け入れて、拒みはしないのだ。けれど、この美しく張り巡らされたこの水面より、零れ落ちてしまった涙より、彼女の瞳から今まさに零れ続けるたくさんの感情が入り混じった水滴の方が、その何倍も美しいと、そう思った。
「うん、すっごく、すっごく頑張ってたもんね」
「……ちゃんと分かってるんです。手術から目が覚めて、ちゃんと薬を飲んで、療養したら治るって。でも、問題なのはそこじゃなくって……頑張りきったその後も、私は自分がそれなりなのを知っているのに……もう、耐えられないの。それなりの私に、みんなの時間をかけさせられない。手術代も治療費も、意味があるのか、分からない」
思っていたことを吐き出して、少し楽になったのかもしれない。彼女の瞳から零れる涙の量が少しずつ、減ってきたのだ。
「す、すみません……私……」
謝られるのがすごく嫌で、何も言わずに、俺は彼女を細い腕をぐいっと引っ張り、立たせた。
ああ、これがもし仕事中ならば、業務違反。それでも、彼女の話を聞きたいし、そのまま一人で泣かせたくは、ないんだ。
仕事としてではなく、個人的に動いているからと言い聞かせ、俺は壊れ物を扱うかのように、そっと、彼女を抱きしめた。
「あ、あの……」
「いいよ。ここでの出来事は、何にも刻まれない。俺しか知らない。だから、泣いていいよ」
なるべく、優しく微笑んで、彼女の頭を撫でてみる。
そうしたら、また苦しげに眉を顰めて、俺の胸に顔を埋めて彼女は静かに泣き始めた。ほんの少し、身体を震わせて。けれども決して、声は漏らさずに。ただただ、彼女の生きた分の頑張りが詰まった温かな涙が、ちょうど彼女の目元に位置する辺りで、俺の胸を湿らせていった。
もっと、泣いたらいい。
しばらくそうしていたら、とうとう彼女の切符には行先が刻まれないまま、発車時刻の数字だけが濃くなり始めて、けれどやっぱり、狭間の空間の向こうにある待合室の扉は閉まり切ったままだった。
落ち着いたのか、彼女の震えと涙が何となく止まったのが感じられて、声をかけてみる。
「もう少しだけ時間があるから、あと一か所、行ってみない?」
「え?」
「本当に、ただ純粋に、遊ぶだけ。何処に行きたい?」
「えっと……」
「特別な待合室だから、何処でも連れて行ってあげるよ?」
こんな所にくるまで、泣くのを我慢して頑張っていたのだから、やっぱり最後まで俺が諦めたくない。
だけど、現実世界で起こる物質的なことに、俺は干渉することはできない。だからその時は、ちゃんと走馬灯は持って行かせてあげたい。だけど、待合室の扉はやっぱり閉まったままだから、まだ、可能性はあると思うんだ。だから、せめて、最後の望みと、もしものときの、走馬灯の代わりとなる思い出を求めて、時間のギリギリまで何処かへ連れて行ってあげたい。
「じゃあ……」
そうしたら、彼女が指定したのは、小さな川の前の、小さな芝生広場がある、川沿いに設置された石段。
「もう時間的にここが最後かもしれないけど、本当にここでいいの?」
あまりにも普通過ぎて、そして、彼女の記憶の中でも、ここは本当に子どもの頃から思い入れがあるとか、そういうのではなく、ただただ、彼女が今住んでいるところの近くの河原であるだけなのだ。だから、つい、何度も確認してしまうけれど、彼女は笑って頷くだけ。
「よく時間がある時にこの川を散歩して、ここに座って、ぼーっとしてました」
「う、うん……」
戸惑っているのは俺だけで、彼女は本当にこの場所でよいみたいで、綺麗なスカートを履いているのにそんなのお構いなしに、その石段に躊躇うことなく座り込む。
「えっと、いいの? 綺麗な服着てるのに」
彼女はきょとんとした顔で一瞬考えた後、「そんなことか」とでもいうように、微笑みながら頷くのだ。
「はい。本当に、それなりの服なんです。……特別高いブランドのものでもなくって。きれいめだけど、ちょっとリーズナブルで、特別なお出かけ用でもなくてって、だけど何となくちゃんとしたお出かけ用にもみえるやつ。本当に、何処に行くにも無難な私服なんです」
「へぇ……」
泣いてスッキリしたのかもしれないけれど、あっけらかんとそう言う彼女の『それなり』という言葉が、とても力強いものに感じられた。
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