死神のホワイトチョコレート4―リ―
そのまま何をするでもなく、石段に座りながらぼんやりと川を見つめる彼女の横に腰掛けて、俺も一緒に川を眺めてみる。
彼女の切符に刻まれ始めた発車時刻が確定すれば、もしかしたら待合室が開くかもしれないし、ホームにだって従業員入り口から入らせてあげることはできる。けれど、恐らくもう、待合室に入れたとしても、彼女の生涯分だけの十分な走馬灯の上映時間は残されていない。
何となく、これまでの経験上、列車の発車時刻が決まって発車しなかったことはないから、その際は自然と、彼女も列車には乗れているのだろう。
でもさ、仕事がどうとかの前に、個人的に走馬灯は大事だと思うんだ。仕事ではなく個人的に動いたけれど、一緒に過ごした時間だけでも、彼女にはご褒美がとても必要で、もらうに相応しいと思ってしまったんだ。
できれば、本当に、とてもとても長い、走馬灯の内容と上映時間が、さ。
そこで俺は、心を突き動かすくらいの何かと、もしもの時の走馬灯のせめてもの代わりに少しでも楽しい想い出を求めて、質問をしてみる。
「俺と巡ってみて、何処が一番楽しかった?」
すると、彼女は真っすぐに川を見つめたまま、数回程ゆっくりと瞬きし、答えを決めたかのようにこちらを向いたかと思うと、言い切るのだ。
「何処が一番とかは、ないです。何処も全部が楽しかったです」
「そ、そっか……」
俺に気を遣ってくれたのかなと思い、楽しい会話と彼女の想い出というのを意識しながら、質問を変えてみる。
「それじゃあ、あなたが訪れた時の想い出話を聞かせて? あの美術館での印象的な想い出とか」
彼女は視線を、俺から手に持っているポストカードへと移していった。そして、数秒程それをまじまじと眺めて、呟く。
「最後の晩餐」
「え? ああ、その絵が一番よかった?」
すると、彼女はこちらに向き直り、じっと俺を見つめ返したかと思うと、思い切り首を振るのである。
「いいえ、好きな絵は別なんです」
「う、うん。最後の晩餐は……?」
あまりにも予想外過ぎて困惑し、オウム返しのように最後の晩餐という言葉を疑問形で呟くしかできなかった。けれど、それだけで彼女には十分だったらしい。真顔で、けれど口調はどこか大真面目に、彼女は続けていくのだ。
「最後の晩餐の、再現メニューをレストランで食べたんです」
「へぇ……! 美味しかった?」
「当時の時代を再現というコンセプトの期間限定バージョンの子羊のお肉の方を注文したんです」
「なるほど。絵画と聖書でも言われてるのが違うからね。ウナギとか子羊とか。子羊バージョンの方の忠実な再現のを選んだんだ。どんな感じだった?」
「……ラム肉、私食べられないんです。あっ、アレルギーじゃなくて、普通に苦手って意味なんですけど」
「……なのに注文したの?」
「どうしても、当時の時代の再現というのが気になって、好奇心に負けました」
「それで……どうしたの?」
「……食べきって、素直に現代の自分の本当に好きな食べ物を今度から注文しようと思いました」
ラム肉が苦手な時点でその答えに辿り着くのは分かり切っていたような気がする。
そう思うも、苦笑いしながら、その言葉を俺は飲み込んだ。
すると、彼女は何かを思い出したかのように、今度は顔を綻ばし、とても幸せそうに、ハニカムように笑うのだ。
「でも、次に連れて行ってもらった宿! あそこの食事は、私が今まで食べたことあるものの中で、一番美味しかったんですよ! お肉もものすごく美味しかったんですけど、魚料理が最高で。私、お肉の方が普段は好きなのに、美味しいお肉料理より、魚料理の方が美味しいってなったの、初めてでした!」
急に饒舌になるので、驚いて、俺は目を丸くする。けれど、美術館で過ごした時にみせた以上に、今日一番にみる嬉々とした瞳と明るい笑みからは、聞くまでもなく、それらが彼女にとって大切な思い出だということが伝わってくるのだ。苦手なりに会話を続けた意味はあったかもしれない。だから俺は、やはり苦手なりに、一生懸命に言葉を選び、引き続き彼女の楽しかった思い出を引き出そうと、質問を続ける。
「そ、そうなんだ。じゃあ、魚料理の何が美味しかったの?」
「うーん、悩みますね。あそこは海沿いなので、お刺身も珍しい魚の種類が豊富で、それも獲れたての新鮮なものを出してくれるので。だけど……」
「……だけど?」
「鍋がヤバかったです。わざわざ絶妙な加減で揚げた魚を、抜群に合うあっさりとしたお出汁で、他の旬のお野菜と一緒に食べる直前に煮込んでくれて。濃厚だけど、胃がもたれない、極限まで旨味を抽出した鍋なんです。食べて驚きました」
え、何それ。俺も食べてみたいかも。
思わず、彼女の言葉につられて、俺の方がゴクリと唾を飲み込んでしまった。けれど、気の利いた返答も思い浮かばず、会話の苦手な俺は、ありきたりの感想を添えるだけ。
「そ、そうなんだ。よっぽど美味しかったんだね」
「そうなんです。だけど、ちょっと普段行くには背伸びした旅館なので、なかなか行けないし、あの時宿の予約とれてラッキーって感じでした。ちょっと奮発して大正解でした」
「そっか」
すると、俺が次の質問を投げかけるよりも前に、彼女がまた何かを思い出したように、ぱっと顔を明るくして、話し出すのだ。
「でもでも! その次に連れて行ってもらったコテージ。景色が綺麗だから選んだんですけど、あそこはとってもリーズナブルなんです」
「へぇ」
「それなのに! 地元のお野菜を使った、少し温かみのあるお料理を、コテージのオーナーが直々に仕入れて作って下さるんです。その朝食のサンドイッチが、めちゃくちゃ瑞々しくて、高級な料理とはまた違う、美味しさがあるんですよ」
あー、すごく分かるかも。
「そういうの、いいよね。俺も好きかも。高級な料理じゃないけど、拘ってすごく美味しいやつ」
彼女がまたハニカムように笑いながら何度も頷き、俺も自然と、自分はコテージのサンドイッチを食べたことなどないというのに、想像して笑みを浮かべ、小さく何度も頷いていた。
いつの間にか、彼女の想い出を引き出そうと意識的に会話をしていたはずが、ただただ自然と、二人で会話を楽しんでいたのだ。
そうして、俺はある重要なことに気づくのである。
「あのさ……」
「はい」
「もしかして、旅行って……観光地じゃなくって、ご飯の方が、好き?」
彼女はまたきょとんとしてから、不思議そうに、けれども疑いようがないというように、すっかりと肩の力の抜けた柔い笑みを浮かべ、尋ね返すのである。
「旅行って、みんな、ご飯で選ばないんですか?」
なるほど。
「……それは人によるかもしれない」
「そうなんですか? せっかく……ご当地グルメがあるのに?」
「ふっ、あー、うん。俺は、ご当地グルメも楽しむ方が、いいと思うよ」
思わず吹き出してしまうような彼女の反応は、たくさんの感情を抑え込んで思い出の地を巡ったときよりも、ずっとずっと、魅力的で良いと思った。そして、自然と惹きこまれる彼女との会話から、俺はまたとても重要なことに気がつくのだ。
ああ、彼女に好きな場所じゃなくて、そこで食べた物を食べさせてあげたらよかったと。つい、景色や観光地ばかりに意識が向いてしまった。これこそ、俺のミスだ。
食べたことのあるものならば、味覚を再現しながら、食べさせてあげることができたのに。
今となっては時間的にも条件的にもどうすることもできない。それでも、せっかくだからと、俺は慌てて聞いてみるのだ。
「あのさ、それじゃあ、ここは!? ここでは、何を食べてたの?」
彼女ももう段々と俺に慣れてきたのだろう。あっけらかんと、すっかりと緊張がなくなった表情で、川の向こうにあるコンビニを指して、流石にね、とでも言うように、答えるのだ。
「……コーヒーですかね?」
「あー、そ、そっかぁ。ここ河原だしね」
けれど何かを思いついたかのように、彼女はその指をコンビニがある方向とは反対の方へとスライドさせながら、懐かしむように、川を挟んだ向こう岸の道を指差して言うのだ。
「あちら側は桜並木になっていて、それで、ほら、ベンチ。ここは石段だけど、向こうにはちゃんとしたベンチがあって。春にはお弁当を作って、お花見してました」
「へぇ……! そうなんだ。じゃ、じゃあさ、そのお弁当、もう一度食べてみたくない?」
これ幸いにと、俺は慌ててお弁当を提案する。川の周囲、視界に映る範囲ならば恐らく、彼女がこの場所で食べたことのある食べ物、それを視覚的に再現し、味覚ごと思い出として巡らせてあげることができるのだ。
「え、お弁当、今から作るんですか?」
けれど、やはり俺は自分から言葉を紡ぎ出す会話というのが苦手らしい。世界の狭間のアレコレの決まり、食べたことのあるものなら再現して出せるということが上手く説明できないのである。
うーんと唸り、彼女が手に持っているポストカードを指差しながら、また適当に嘘をつく。
「そ、その。ソレ。最後の晩餐! ここは特別な待合室だから、最後の晩餐が、出せるんだ」
すると、どうだろうか。彼女が信じられないくらいにぱあっと顔を明るくして、キラキラとした瞳で俺に尋ねるのである。
「最後の晩餐! 何でもいいんですか!?」
そのあまりにも嬉しそうな表情に、彼女が感情を抑えなくなったから尚のこと、美術館で泣かせてしまった以上に申し訳ない想いが芽生え、俺は苦笑いしながら説明の言葉を足すのだ。
「あー、その。な、何でもじゃなくって、この場所で食べたことのあるもの……だけ」
「……この場所で、食べたことのあるもの……だけ……。ということは……」
「……ということは……」
「コーヒー?」
「……か、お弁当……」
彼女はコンビニのある方向と、花見をしていたというベンチのある方向に順に顔を向け、上がりっぱなしだった口角を、みるみると元の位置へと戻していくのだ。瞳を伏せ、切なげにボソリと呟くのである。
「……コーヒーか……お弁当……」
「ご、ごめん」
気まずくて頬を掻き苦笑いする俺をみて、彼女ははっとしたように目を瞬かせ、表情を戻そうとする。けれど、ここまできたら、変に嘘をつく方が不自然だと思ったのだろう。彼女もまた、緩く苦笑いしながら、言い方こそ遠慮は残るものの、ちゃんと正直に言ってくれるのである。
「あ、いえ、その……これが最期のわがままになるなら……ぜひ、あの宿で……。あの宿で……最後の晩餐を……食べたかったなという……正直な想いはあります。あそこの鍋は本当に美味しかったので。……でも、ね。全然、大丈夫です」
「うん。そうだよね。ご、ごめん……ね」
俺もあの鍋、食べられるなら食べたかった。完全に忘れてた。
彼女は俺にこれ以上気を遣わせないようにだろう、真顔のそれというよりは緩い笑みを浮かべたまま、ぼんやりとコンビニの方を眺めている。だから俺も、せっかくだから何か食べられる方がいいと、仕切り直しのようにあえて明るく笑いながら、滅多に味覚の再現というのはしないので、手を開いたり閉じたりを繰り返し、料理を出す準備運動を開始する。
「でも、その。宿の食事ではないけど……お料理好きだったんだよね? あなたのお弁当も美味しいんじゃないかな? せっかくだから、お弁当とコーヒー食べよっか」
すると、彼女は俺が冗談を言ったと思ったのだろうか、笑いながら手を「それは流石にない」とでもいうように、何度も左右に振るのである。
「あはは、そんな。そこまで食い意地はってないですよ。最後の晩餐に自分の作ったお弁当だなんて」
「えっ!?」
けれど、驚く俺をみて、どうやらそれが冗談でないと伝わったのか、彼女もまた、驚いたように目を瞬かせ、じっと数秒程考えてから口を開くのである。
「あー……えっと、本当にありがとうございます。でも、自分の作ったご飯は、何となく、味に察しがつくので……その、最後の晩餐にわざわざ出してもらう程の料理でもないというか。本当にそれこそ、気合いを入れて行くお花見というよりも、ここは家の近くだから思いついたときにふらっと行くような……本当にそれなりの……普段通りの、こう、お手軽メニューのお弁当だったんで」
「そ、そうなんだ。えっと、でも……最後だし。あ、えっと。別にお弁当を出すのはそこまで大変じゃないよ?」
「うーんと、うーん。最後の晩餐が……あのお弁当か……。何だろう、あのお弁当本当にわざわざ出してもらう感じのじゃなくって……。うーん、あっ、じゃあ、こうします。最後の晩餐が自分の作ったそれなりのお弁当というのが……悲しくなるので! 逆に最後はあえて食べないことで、それなりを回避してみようと思います」
何だか、そこまで言われると、彼女のそれなりが、最後の晩餐さえ押しのけてしまうくらいに強くて、逆にそれなりってすごいことのような、そんな気さえしてくる。
だから、本当はしんみりする所なのに、おかしくなってしまって、少し笑いながら、俺は勝手にコンビニのコーヒーを自分の両手に一つずつ、出現させる。
「はい。これ」
「え?」
「せっかくだから。飲み物なら、きっと最後の晩餐にはカウントされないよ。俺がコーヒー飲みたかっただけ。だから、付き合ってよ」
すると、彼女が瞬きして、今度は申し訳なさそうな口調で、けれど、表情はどこか柔らかに、目を細め、微笑みながら言うのだ。
「せっかく連れて来てくれて、ご飯まで出してくれるって言ってくださってたのに、逆にわがまま言ってしまって、すみません」
「ううん。俺の方こそ、最後の晩餐の絵見てきたくせに、気が付かなくって、本当にごめん」
互いに見合い、どちらからともなく、二人でぷっと声をあげて笑う。きっと、彼女は笑うどころか怒ってもいいのに、最後まで自分の行き先の表示されない切符にも、開かない待合室の扉にも、走馬灯(ごほうび)がないことも、ちょっと気が利かなくて頼りない案内人の俺にも、決して文句は言わなかった。
「でも確かに。わざわざ最後の晩餐の絵を観たんだから、もっと早くに私も最後の晩餐が食べたいって、素直に独り言、呟いてみたらよかったなぁ」
「まぁ、あの美術館で呟いてたら、きっとあなたが言ってた、苦手なラム肉の方のメニューになるから……。うん、それはそれで……」
「あの再現メニューは、本当に最後の晩餐だけど、私は選んじゃダメなやつですね……最後なら私が今いる現代のご飯が食べたいから」
「そっかぁ。でも話聞いてたから、そのメニュー気になってきた」
「……おすすめですよ?」
「え? あなたはもう食べないって決めてるんだよね?」
「はい。ラム肉苦手なので。でも、あると知ってしまって食べたいと思ったら、一度食べてみないと、ずっと気になりません? だから、すごくおすすめです」
「なるほど」
本当に苦手でも食べきった彼女が笑顔で言うと何故か説得力があって、いつか食べてみよう、と俺はこっそり思った。俺も別に、ラム肉そんなに好きじゃないけど。
こんな風に、コーヒーを飲みながら、食べることの出来なかった最後の晩餐について、あれこれ言い合う。
名簿リストの方も最終確認をしたけれど、もう名前は刻まれていて、たまに微かに名前の最後の一文字が淡く光るだけ。
俺の横で彼女は時折、コーヒーを口にしてはその苦みを感じながら、コーヒーではない他の食べ物の感想を、口にした。
その様子を見つめながら、彼女の食べ物の感想を楽しく聞きながら、心の中で、俺は小さく溜息をつく。
本当は、彼女を戻してあげたかった。それが叶わなくとも、せめて走馬灯だけでも見させてあげたかった。
それなのに、彼女の乗車券の時刻はもうあと数分もなくってしまい、さらには結局、彼女の待合室の扉は開かないまま。
それならそれで、最後に美味しいものくらい食べさせてあげたかったな。
すると、また一口、コーヒーを口にした彼女が突然に固まったかと思うと、急にまるで独り言のように、コーヒーを見つめたまま、話し出すのだ。
「なんか、コンビニのコーヒーも美味しいけど、流石に無糖だと、ちょっと甘いもの欲しくなりますね」
「あっ、そうなんだ。甘い物あんまり好きじゃないのかと思ってた」
「いいえ、甘い物も大好きです。ただ、河原で一人で食べるのはちょっとお行儀悪いかなと思って、いつもコーヒーしか買う勇気がなかったんですよね。……でも、今となっては生前の私に言ってやりたいです、コーヒーだけじゃなく、お菓子も一緒に買っておいた方がいいよって。あはは」
甘い物……お菓子、お菓子……。
「あ……。ある」
「え?」
「甘いもの。あるかも」
俺は出勤前の自分の行動を思い返し、どっちのポケットへ入れていたかまでは思い出せなくて、両腕をポケットの中へと手を突っ込み、ごそごそと漁りだす。
かなり奥の方へと潜りこんでしまっていたようで、存在自体を忘れてしまっていたようだ。指先に銀紙のツルっとした質感を感じ、それをつかみ取る。
「これ。チョコレート」
「お弁当か、コーヒーしか出せないんじゃなかったんですか?」
俺は笑いながら、彼女の手に自分の持っている半分くらいのサイズになっている板チョコを、握らせる。
「コレ、俺の今日のおやつだったんだ。俺の個人的な私物だから、大丈夫。普通に食べられるよ。コレさ、俺のお気に入りのお店のチョコレートなんだ。あ、あと、齧ってないから。ちゃんと割って食べるタイプだから安心して」
ずっと、彼女がめちゃくちゃ美味しそうなお店の話ばかりするから、悔しい訳じゃないんだけど、自分のオススメの店の話も本当はしたい想いがあった。だけどやっぱり、世界の狭間のアレコレを、ついうっかりで、万が一にでも彼女に話してしまってはいけないから。何もこちらからは言わずにいたのだ。
けれど、最後の最後にその想いが叶って、これは彼女の願いというよりも俺の願いだったのに、一応、彼女の願いも叶えることになるので、なんだか嬉しくなってしまう。
つい、いつのまにか俺は満面の笑みを浮かべてしまっていた。
「……あなたのおやつなのに、貰っていいんですか?」
「うん。むしろ、そんなにグルメなら、俺の自慢のお店のチョコレートの感想がほしいかも」
「わ、本当に最後までありがとうございます。せっかくだから、お言葉に甘えて」
彼女もまた、きっと心からの笑顔だと断言できるくらいに、目を細めてニッコリと、歯がみえるくらいに口も思い切り動かして笑ってくれた。そのまま、どこかルンルンとしているのだろう、少し身体を揺らしながら、喜々とした表情で、彼女が銀紙を外していくのだ。
「私、チョコレート大好きなんです! お菓子の中で一番好きです」
「そうなんだ。これ、ホワイトチョコレートなんだけど、ちょっと特殊で……」
「わ、可愛い!!」
うん。そういう反応してくれるような、気がしてたんだ。
「桜の花弁と、シルバーのなんか美味しいのが入ってて。その、すっごい美味しいんだ」
彼女のように、上手い食レポの言葉は俺の口からは飛び出さない。けれど、彼女は疑うことなく、目の前に差し出された俺の自慢のホワイトチョコレートを、その口へと運ぶのだ。
一瞬、目を見開いた後、ぎゅっと目を瞑って、ん~と味を堪能するかのように、幸せそうにチョコを味わう。
いつもこんな風に食事を楽しんでいたんだね。
口の中でしばらく舌を転がしているのかもしれない。ゆっくりとした瞬きに合わせて、彼女の唇が、閉じられたまま何度か動きたのがわかった。そして、ごくりとホワイトチョコレートを飲み込んだ彼女が、勢いよく、こちらを見上げるのだ。どこか興奮した様子で。
「めちゃくちゃ美味しいです!!!」
だから、俺もすっごく嬉しくなって、口角が最大限に上がっている状態の、目も彼女につられて細められるような、自分でも信じられないくらい柔い笑みが漏れ出るのだ。
「ここの美味しいよね? ホワイトチョコって甘すぎるメーカーが多いんだけど、桜の花弁がいい感じにアクセントになって、このシルバーの丸いやつがまた美味しいんだ」
「はい! 本当に、甘すぎないし、どっちも良いアクセントになってて、こんなの止まらなくなっちゃう! どこのお店のですか!?」
その言葉を聞いて、俺は咄嗟に、そして、一応ずっとここで仕事をしてきたから直感的に分かる確信めいた判断で、彼女からホワイトチョコレートを取り上げる。
「え?」
「これ、もっと食べたい? 欲しい?」
彼女は一瞬ためらって、けれども、明確に頷いた。
きっと、普段の彼女なら、俺のおやつと聞いた後だから、遠慮したに違いない。けれど、これは彼女にとっての最後の晩餐。
「ほしいです」
彼女は素直に、最後の最後に、心からの願いを口に出すのだ。
それがすごく嬉しくて、にんまりと、どこか誇らしい気持ちにもなって、彼女にとっては意地悪にみえなくもない笑みを浮かべる。
「このホワイトチョコレート。シーズンによって、フレーバーが変わるんだ。ヘーゼルナッツ入りのやつとか、最高。それでね、このお店、あなたが生きる現実世界にも同じお店があるよ。だけどもし列車に乗ったら……向こうには、無いよ」
彼女が、元々に円らで大きな瞳を、さらに大きくしていく。
もっと、もっと、驚くといい。
「……なんて、お店ですか?」
「教えない」
「…………」
「自分で、たくさん歩いて、たくさんのお店に行って、たくさん旅行して、探してみて」
「つっ……」
もう、見なくたって分かる。
ホワイトチョコレートがない俺のポケットには、名簿リストしか入っていない。そのポケットから、眩い光が漏れ始めているのだから。
「でも、私、それなりなのにっ……」
「うん。あなたはきっとそれなりなんだ」
「っつ……なら」
少し悔しそうに唇を噛みつつ、それでも俺の目をみて話し続けていた彼女が、とうとうその瞳を潤ませながら、視線を逸らす。
その様子を見て、強く、強く、曝け出す本当の感情は、実は美しいのだと思った。
それでいい。それでいいんだ。全部を我慢せずに、嫌なものは嫌だと目を逸らしてもいいし、時に欲しいものはほしいって、好きなものは好きって、言葉でも態度でも、示していいんだよ。
「あなたの好きな美術館には、本物の名画はない。全て、再現されたレプリカ」
「…………」
「本物じゃなくって、それなりに楽しめるところ。だけど、あなたはその場所が好きで、そのそれなりが与える感情は本物だ」
彼女が何かに気づいたかのように、慌ててこちらを見上げ、また視線が絡み合う。だから、俺は少しでも優しい声色と笑顔を意識して、一言でも多く、会話が得意でないなりに想いが伝わるよう、言葉に表情を添えて、丁寧に伝えていく。
「それなりの服を着たら、心置きなく、色んな所に行ける」
「…………」
「それなりの毎日があるから、いつもより背伸びした旅館が、より一層楽しめる」
「…………」
「それなりを知っているから、高級ではないコテージの食事も美味しく食べられる」
「…………」
「それなりに料理が作れるから、それなりじゃないものを求める」
「…………」
「それなりにやっていけてるから、家族も友達も大切なんだよ。列車に乗るかどうか、最後まで悩むくらいに、さ」
「…………」
「ねぇ、やっぱり、それなりってそれなりじゃないよ」
気が付けば彼女の口元は、ぎゅっときつく結んでいるクセに震え出していて。先に我慢ができなかったのは、瞳の方。もう、涙が溢れ出て、彼女の頬に伝っていた。
その涙は、美しいというよりも、とても、とても、生き生きとしているように見えた。
あーあ。また泣かせちゃった。だけど、ちょっとだけいい気分。
ポケットからさらに隠すことが出来ないほどに光が溢れてきて、彼女の持っていたポストカードは消えて、例の美術館へと戻されていく。
彼女はちゃんと、本物のポストカードを本来の自分の居場所に持っているからね。
もう嬉しさが隠せなくって、俺は彼女に歩みより、今度はチョコレートではなく、彼女の切符を回収する。こちらはもう、光さえ消えていて、切符というよりは、ただの上質な紙。行き先はもちろん、発車時刻もきれいさっぱり、なくなっている。
「もう、切符要らなくなっちゃったね」
「……多分」
最後まで意地っ張りだなと笑いながら、俺は取り上げたチョコレートの銀紙をさらに捲り、パキッと気持ちの良い音を鳴らし、小さなカケラを作る。
そして、どこか夢見心地なのだろう、ぼんやりとしている彼女は数センチほど口が開いている状態だから、ちょどいい。
油断していた彼女の唇と唇の間に、一口サイズに割ったホワイトチョコレートを俺はねじ込んだ。
「あと一口食べたいっていうサイズがこれくらいだと思うんだ」
そして、やはり素直な彼女は、知らない人から貰った食べ物なんて、本当はそもそも食べたらいけなかったのに、躊躇うことなく、もう美味しいと知っているホワイトチョコレートだから、その口へと招き入れるのである。
「……美味しい」
「でしょ? しっかり、この味を覚えて帰って、探してね」
「うん」
俺は彼女の手をそっと握り、宙へと浮いたかと思うと、彼女が知る現実世界の言葉でいうなら瞬間移動というもので、空と純粋なる水しかない世界の狭間の入り口を通り抜けて、特別な駅の改札へと戻る。
ごめんね、もう、俺は仕事の時間だ。
「それじゃあ、それなりに頑張りながら、ホワイトチョコレートのお店、探してみて」
あえて長机の向こうに置いているパイプ椅子へと自分だけが腰かけて、俺はちょっとだけ意地悪な声色を意識して、彼女へと告げた。
案内人として、あなたの切符はきれないんだ。
すると、彼女がとうとう、眉を少しほどきつく吊り上げ、口元を悔しげにきつく結び、若干に頬を膨らませて睨んでくるのだ。
怒ったって全然怖くないその表情は、むしろ、生き生きとした感情で、俺を嬉しくさせるなんて知らずに
「本当に、意地悪な死神!」
そしたらやっぱり、予想外の言葉を放つのだから、仕事の時間だというのに、俺は感情を抑えきれず、声をあげて笑ってしまう。
「はははっ。なんだ。俺の正体知ってて、ずっとあの調子だったの? 前言撤回。絶対にあなたは、それなりじゃない。大物だ」
すると、彼女はしっかりと意志を宿したその瞳で驚いたようにこちらを見つめ返し、ふっと、力の抜けた柔い笑みを浮かべた。
「本当に、意地悪で優しすぎる死神。導く必要のない人は意地悪して追い返して、それで、導く必要のある人は優しすぎるからこそ導ける。きっと、優しすぎるからすごく向いてないし、意地悪だからすごく向いてる職業」
「え?」
「私は意地悪されて、優しすぎるあなたに戻される。だけど、意地悪されたから、もし本当に最期を迎えるのなら、優しすぎるあなたじゃないと嫌かも」
「それ、褒めてる? まあ、おだててももうチョコレートはあげないよ? 俺の仕事が増えたら困るからね。それからしばらくはここに戻ってきたらダメだから。俺はすごく意地悪だから、しばらく案内してあげないよ?」
「じゃあ、私が来る時までここで待っててくださいね。死神のお仕事、すごく向いてないから、それなりに力抜いて、すごく向いてるから、それなりで続けておいてください」
きっと、これが本当の彼女なのだ。本音を引き出そうと努めて明るい笑みを浮かべなくても、苦手な会話をしようとこちらが意識しなくとも、彼女が心からの言葉を伝えてくれているのが自然と分かった。
だからかもしれない、俺も仕事中だというのに、心の底からの言葉が零れ出してしまう。
「なんだ、それ。余計なお世話」
「戻ったら絶対に元気になって、ホワイトチョコレートのお店突き止めます。それで、私もすごく向いてなくて、すごく向いてる職業につきますね。そうしたら、それなりの私でもそれなりでない日々が過ごせるから」
よく分らないことを言いながら、彼女はこの突然現れる不思議な駅から去ろうとしていた。少しずつ、彼女の姿が薄くなっているのだ。
だから俺は、去りゆく彼女にもう一度、嘘偽りのない心からの本音を、言ってやる。
「それなりって、日常から幸せを見つけるのが上手いってことだと思う。だから、それなりとそれなりじゃないのが見分けられて、それを繰り返してたら、いつかきっと、大物になってるよ」
本当に彼女が元の世界へと戻る直前。透けゆく中でも、しっかりと歯までみえるくらいに笑ってくれたら、よく分かった。まるで美味しいものを食べているときかのように、とびきりの笑顔で、俺に向けて手を振ってくれたのだ。
「ありがとう!」
きっと、心からの本音だと思う言葉と共に。
◆◆◆
ここは、特別な駅の改札。
何の前触れもなく、この改札を通る必要がある者は突然、この場所に辿り着くようになっている。
「な、なんだ? ここは」
またひとり、乗車予定客がやってきた。
「大丈夫。怖くないですよ」
俺は今日もこの特別な駅で働く。
それなりの気分で――……。
「あ、あなたは?」
「死神です。あなたを次の行先へと導きます」
俺は案内をする者。
すごく向いてて、すごく向いてない職を全うしている。
時々、特別なホワイトチョコレートを、おやつに食べたりしながら。
向いてないから、俺はそれなりで働けているし、向いてるから俺はそれなりに続けられている。
Fin