かぼちゃを動かして!㉒―フィフィの物語―
洞窟に響くのは箒のシャリっという音と定期的に混じる「よいしょっ」というフィフィの声。
その付近には終始、光る粉の混じった煙が舞っていて、けれど不思議とそれらは煙たくなるものではなかった。
時間でいうと、かれこれ一時間は洞窟で箒を懸命に動かすという作業をしているのではないだろうか。
響く音も、その感触も、感覚も、まるで普段の掃き掃除。
うーん、あわよくば、こしょばくて泣いてくれないかなって思ってたけど、全然こしょばそうじゃないんだよね。
それでも、涙を分けてくれると約束したのだ。それを信じて、今は箒を動かすしかない。あまり背の高くないフィフィでは、どうにも届きにくい箇所はある。けれども、フィフィの動きに合わせて八色蜘蛛はその大きな身体を右に傾けたり、左に傾けたり。
フィフィが八色蜘蛛の脚が届かないところを箒で手伝っているのだが、八色蜘蛛も身体を傾けてフィフィを手伝ってくれているのである。
互いに程よく協力しながら、脚八本に胴体。八色蜘蛛にとってかゆくて脚の届かないところ、というのに、おおよそ脚の代わりに箒をフィフィは貸していった。
「よいっしょ!」
そして何度目だろうか。大きく箒を振りかざし、穂が八色蜘蛛の身体にぶつかる。それをぐいっと全身を使って右から左へと動かすのに合わせて、今までで一番といってもいいくらいに、ザザザっと、掃除でいうならばごっそりと埃がとれる時のような気持のよい音がした。
「……ふう」
フィフィが息をつくと同時に、八色蜘蛛がぐぐぐ、と不思議な音を立てながら、その身体を起こしていく。
そしてこの一時間ほどの間、何となくお互いにお互いの動きを予測しながら動いていたから、フィフィもまた、八色蜘蛛が起き上がるのを察知して邪魔にならないよう素早く後ろへと下がった。
フィフィの身長の何倍もの高さで、八色蜘蛛はその黄金色の瞳を再び逆さの三日月へと変えていく。
やった! 多分だけど、もう本当に締め切り最後っぽい!
フィフィは嬉しくて、ニコリと微笑む。
それに合わせて、八色蜘蛛の黄金色の瞳がさらに細められて、『〇△vxxIO』と弾けるような音が響き、フィフィは思う。
わ、ご満悦。きっと、すっごく、嬉しそうに笑ってる!
フィフィはごそごそと、ポケットから小瓶を取り出す。
大切な涙を分けてもらうお願いをしなければならないのだから。
けれど、ふと、フィフィは気づく。
こんなに高い位置からでは、昼間のようにフィフィでは涙を採ることができない、と。
「ねぇ、せっかく立ち上がったところに悪いんだけど、私あんまり背が高くないのよ。それにね、飛べないの! だから涙を分けてほしいんだけど、さっきくらいの低さまで屈んでくれない?」
すると、八色蜘蛛の右側からトントン、と二回ほど音が響いた。
うううん、何で?
確かにいいえの返事だけれど、瞳がゆっくりと上下に一度ほど動いて、なんだかまるで、「任せろ」とでも言っているように見えたのだ。
仕方がなく、フィフィは小瓶を持ったまま、八色蜘蛛の様子を覗う。
『〇△△xxIO.×〇〇△vXXxxOI△×〇〇xxIvOXX』
そうしたら、再び聞こえてくるのはフィフィの知らない言語。
『〇△xxvIOXX!? ……OO△XXxxvVI?』
『VvxxI』
『aishoiiiaa!? Saoooshii!?』
『……Vx』
続くのはエプリアの声で、その音は驚きと確認のような響きに感じられた。次に八色蜘蛛の返事っぽい音に、ディグダの叫び声と、もう一度、八色蜘蛛のちょっと面倒くさそうな返事が続いていく。
……そういえば、最初のときも何を話してたんだろう?
けれども今回はそんなに会話のラリーは長くはなく、すぐにフィフィのよく知っている言語と声が、響いてくる。
「フィフィ! ディグダ!! いいか、俺からフィフィに物々交換を申し出る! ……今から八色蜘蛛の涙や脱皮の皮……フィフィが必要分涙を採ったら、そのおこぼれを俺がもらい受けたい! ……そのとき、魔法は使うけど、今日の試験には関係ない分だ。いいか? これはあくまで、俺からフィフィへのお願いだ」
「へ?」
「……いいだろう。今からお前が使う魔法に関しては、試験の関与じゃないって認める」
「よし」
おこぼれ? ……脱皮?
さっぱりと何を言っているのか分からなくて、けれど、ぽけっとする暇もないのだろう。初めて聞くような、エプリアの性急な声と地面に浮かび上がる魔法陣のような文字と青い光を、フィフィと八色蜘蛛を挟んだ反対側から感じるのである。
「フィフィ! 物々交換のひとつめの条件はこのもらい受けた材料はフィフィが必要なとき、いつもで在庫がある限り、渡すこと。要は俺は保管係だ。もうひとつは……ごめん。すぐ思い浮かばないから、何でもひとつお願いを聞く! 成立でいいか?」
うえ? フィフィ、物々交換を持ち掛けたことはあっても、持ち掛けられたことないから、わかんない!
「うーん、うん! 分かった!」
でも、エプリアのお願いなら、別に何も交換するものがなくても聞くな、と思い、急いでそうなので分からないままに大きな声で返事をした。
『〇△xxVVXX』
するともう一度、八色蜘蛛の声が愉快そうに響き、黄金色の瞳が逆さの三日月に変わったかと思うと、完全にフィフィたちの視界から消えた。
『なみだ』
「え?」
エプリアの魔法陣が光っているから、洞窟の中は昼間に訪れた時よりもむしろ明るいはずなのに、黄金色の瞳も、八色蜘蛛の姿も全く分からなくなり、けれども確かに、八色蜘蛛の声で、フィフィにも分かる言葉、「なみだ」と聞こえた。
そしたら突然に、キラキラと光る粉のようなものが、洞窟中を埋め尽くす。
「わぁあ」
それはまるで星空のようで、フィフィは洞窟の天井を見上げる。
けれど光る粉のようなものがフィフィの額にぶつかったそのとき、小さく弾けて、それが粉ではなく水滴であることに、気づく。
……涙!
慌てて瓶を上に向かって突き上げると、次のキラキラと光る涙がフィフィの手元へとするりと舞い降りて、瓶の中へと収まった。
真っ暗な洞窟の中、その涙は瓶の中に納まっても尚、キラキラと輝き続けた。さらに向こう側からエプリアの魔法の青い光が時折差し込むから、暗闇の中でキラキラと輝く光に青が交じったり、消えたりを瓶のガラスに屈折して不可思議に繰り返す。その様はまるで、小さな宇宙のよう。
わぁあ、星の雫だ!
けれども、そんな瓶の中にはまだ余力があって、欲張るのはな~と思うものの、洞窟はとっても広いのに、その星の雫が、まるでフィフィのところへ来たがっているとしか思えないくらい、フィフィのいる位置に集中して降ってくるのだ。
だからもう一度、ぐっと、手を伸ばす。
今度はフィフィのレースのハンカチにその星の雫は落ちて、慌てて手の位置を少し右上へとずらす。
けれどたくさん降ってくるから、次の雫がフィフィの髪にあたり、さらにその次の雫が腕にあたり。手を伸ばしては、その位置をずらして、というのを繰り返す。そうしていくつめかの雫がぽとりと瓶に収まったそのとき、フィフィは慌てて中身が満杯になった瓶の蓋を閉めて叫ぶ。
「な、涙、採れた! ありがとう!」
すると、光のその向こう、魔法陣を用意していたエプリアがニッと勇ましく笑う。
「本当に大した魔女だ。……フィフィ、走るぞ!」
「え?」
それに合わせてこちらに向かって飛んでくるのは、植物の妖精。
きっとエプリアの魔法陣の光で視界が良好になったから、フィフィの位置がディグダにも分かったのだろう。
それはフィフィにも同じで、今はもう、出口にエプリアにディグダ。それぞれの位置がどこであるかはしっかりと把握している。けれども八色蜘蛛の姿は依然見失ったままで、フィフィは首を傾げる。
すると、フィフィのすぐ傍でディグダの警戒するような声が響いた。
「いいか、しっかりと箒を握っておけよ。……帽子はきっと、勝手に戻ってくるから心配すんな」
「へ?」
それを合図にするかのように、ゴゴゴゴゴと、とんでもない音が鳴り響き、思わず音がする方を振り向く。
すると、音の先には岩も壁も全くない空中だというのに、滝のようにキラキラとした光の混ざる水が湧き上がっていた。その水の湧き上がりは、高さを同じくして二箇所ほど。
「振り向くな! 走れ!」
「う、うん
前を向く寸前に、その二箇所の水が湧き上がるところが、その均衡を保ったまま、回転し始めたのがフィフィの視界の片隅に映った。
もしかして、あれが瞳?
フィフィが走り出すと同時に、その星の雫は猛スピードで海のように広がっていき、あっという間に洞窟中が涙で呑まれていく。
本能的にフィフィもこれはまずいと感じ、すでに足首あたりまでキラキラと光る水がきていたけれど、全力でバシャバシャと音を立てて、洞窟の外めがけて走り続けた。
「森の中に海!」
フィフィ本物の海、行ったことないから泳ぎ方とか知らない。このままだと溺れちゃう、溺れちゃう!
人間は食べない八色蜘蛛に、空気に触れてはいけないコウモリの巣。それから森で海に溺れることがあるなんて……またひとつ、知識が増えたわ!
そうしたら今度は、追いついたエプリアが魔法陣を発動させたままなのだろう、地面に青い光を影のように引き連れて、言う。
「いや、森の中で溺れることなんて、普通ないよ。……フィフィといると、これから先もずっと飽きることがなさそうだ。も、森の中に海って。ははっ、こんな楽しいのは久しぶりだな」
また心読まれた? やっぱり魔法使ってる?
「禁止するなら心読む魔法にしてほしい」
そうしたらうっかり、心の中の声を言ってしまって、ずっとエプリアの笑い声が続くなか、ディグダの急かすような言葉が割り込む。
「お前は馬鹿か! 今はそんなこと言ってる場合じゃないだろうが!! お前ら飛べないんだから必死で走れ!!!」
そこではたと、気づくのだ。フィフィには魔力というのが目に見えて分からないため、ディグダたちの魔法で出来た透明の羽、というのがみえない。けれども、虫とかの図鑑にそういう類のことに関し、ある記述をみたことがあるのだ。フィフィは青ざめながら叫ぶ。
「ディグダこそ濡れたらダメだわ……! 羽!!」
「だぁああああ! 毎回言うけど俺たちの羽は虫たちのとはちょっと違うんだよ!!」
ゴゴゴゴゴとさらに大きな音が響いたかと思うと、勢いを増したその涙の流れというのだろうか、それらが洞窟の天井やら側面の岩々にぶつかりだし、フィフィたちのすぐ傍まで迫ってくる。
「フィフィ、とぶんだ!」
「へ?」
「違う、そっちじゃない、ジャンプの方だ! ほら、三・二・一、今だ!」
言われるがまま、大きな一歩を踏み出すと共に、思い切りゴツゴツとした岩の地面を蹴り飛ばし、フィフィは宙に浮く。
なるべく地面に足がつかない方がよいかもしれないと、フィフィはさらに宙で可能な限り太ももを腹に寄せる形で、身体を小さくした。
「よし、いいぞ」
エプリアの声に合わせて涙の波がフィフィのお尻を持ち上げて、そのまま洞窟の外へとフィフィを押し流していく。
「わ、わわわわわ」
その瞬間に、もうすっかりと暗くなっている空が視界いっぱいに広がり、ほんのりと灯を点し、目を丸くしてこちらを見ているフリーとサディと目があった。
「「フィフィ!」」
すとん、と鈍い痛みと共にフィフィのそのお尻がしっかりと土の地面へと着地したそのとき、同じように涙の波に流されたはずなのにちゃんと両足で着地して仁王立ちしているエプリアの詠唱の声が響く。
途端に、洞窟の外へと押し寄せる涙の波はエプリアの魔法陣の中へと跡形もなく吸い込まれていった。その波の中に、ぼやっととてつもなく大きな大きな身体と長い脚のような殻が混じって一緒に流されていくのをみて、フィフィは「ひえっ」と小さく呻き、あえて視線を逸らした。
「うーん、これ、許可したけど際どいな……」
「いいや、これは事前に確認してお前が許可したから今更アウトなんて言わせない。それにお前だって分かるだろう? これは明らかにフィフィではなく、俺の方が得をしてる」
「まあな。まあ、そうだな。約束は約束だから、これはお前からの物々交換の中に含まれることにする」
「……だろう? ちゃんとフィフィのお尻が洞窟の外に着地してから全て吸収したんだから」
「…………」
なんだか二人の会話を聞いていたら、尻もちをついている自分が恥ずかしくなって、フィフィは慌てて立ち上がり、ぱっぱとお尻をはたく。
あれ?
あれほど涙の中に足をつけながら走り、最後は涙の波に流されたというのに、フィフィの服は一切、濡れてなどいなかった。
すると、ぐぐぐ、と洞窟で幾度か耳にした不思議な音が、洞窟の外にいるはずなのに、フィフィのすぐ傍で聞こえた気がした。
「え?」
けれど、別に目の前に蜘蛛らしき影もなければ、洞窟の方を覗き込んでみても、黄金色の瞳が近くにある様子は全くもってなかった。
「マジか」
「本当に、大した魔女だ。……もう八色蜘蛛の涙は採った。だからこれは試験に関与してないということで、光を出してもいいか?」
ディグダとエプリアはまじまじと、何もない空間を揃って見上げるようにみつめていて、ふと視線をフリーとサディに向けると、珍しくも二人揃ってポカンと口を開けて、驚いた顔でやっぱり、何もない空間をみつめているのだ。
「……いいだろう。これは試験じゃないってみなす。でも、お前が魔法を使うのはダメだ」
「何でだ? 別にズルはしない。それよりも……」
「ふんっ。光魔法は、ラティに任せるのが一番なんだよ。的確に八色蜘蛛の所にだけ、光を当ててくれる。そうしたら他の奴らに気づかれない」
「なるほどな。光の妖精に光魔法で勝てる者はいないな」
パチンとどこか向こうの方で指を鳴らす音が響いたかと思うと、突然、夜だというのにまるで昼のようにフィフィの真ん前だけが明るくなる。
「わ、わわわわ」
光と共に現れるのは長い八本の脚に、ギョロリとした瞳、巨大な身体。
「に、虹色……!」
フィフィの声に合わせて、短時間で見慣れた黄金色の瞳が逆さの三日月を作って、笑ったのが今度は表情つきでよくわかった。
パチパチと何度も目を瞬かせると、光に反射して、八色蜘蛛のカラフルな身体全体がキラキラと光る粉で輝いて見えた。
その脚は見事に一本ずつ、赤に橙に黄、と色が違っていて、瞳は黄金色、胴体は白でその周りが黒く縁どられている。
「俺も知らなかった。だから八色蜘蛛って言うんだろうね」
「綺麗……」
「だな。八色蜘蛛は本来、伝説の生き物なんだ。誰にも本当の姿をみせないらしいからな」
ディグダの言葉を聞き、フィフィは驚いて、黄金色の瞳をみつめる。
すると、八色蜘蛛はトン、と一度ほど右一番手前の脚を動かしてくれた。その脚はとっても綺麗な、黄緑色!
「うん! 黄緑!」
すると、また逆さの三日月を作ったかと思うと、八色蜘蛛は左側、赤色の脚から順番に一本ずつ、わさわさわさと素早く全ての足を動かした。
色はとっても綺麗だけれど、その動きはフィフィにぶわりと鳥肌をたてさせたのは、フィフィだけの秘密。
視界の片隅でエプリアが口元に手を添えて、身体を震わせ、絶対に笑っているのが分かったけれど、これはフィフィだけの秘密なのだ!
けれどエプリアに怒る間もなく、八色蜘蛛の脚の色がつま先から消えていく。消えた部分からは、地面の土の色が透けてみえるのだ。
「ええっ」
フィフィは八色蜘蛛のさらに細められた瞳と、徐々に見えなくなっていく足先とを何度も何度も、交互に見返す。
「はははっ。俺も知らなかったんだけど、今日ですごく納得した。……八色蜘蛛の涙は透明薬を作るのに欠かせないから」
と、透明になれるのね!
『〇△xxvIO〇△XXxxvI〇××△.〇〇△××xxvIo』
ギョロリと八色蜘蛛の瞳がディグダの方を向き、エプリアも同じように、ディグダに視線を送っていた。
サディとフリーも驚きながらも、どこかきょとんともしていて、この音が聞き取れるのはみんなではなく、エプリアとディグダだけであることを、フィフィも初めて知る。
「だぁあああ、仕方がない。これはまあ、もういいよ。俺の独り言にしといてやるよ。八色蜘蛛は虹色で、その姿を透明にして隠れるんだと。で、本来、水際に生息してるんだけど、湖の引っ越し中に身体を汚しちまったらしくて、透明になれなくなって、洞窟に隠れてたんだとよ」
すると、フィフィのよく知っている言葉で、八色蜘蛛が言う。
『そうじ』
「! ……かゆいんじゃなくて、汚れを掃除してほしかったのね」
そうしたら、もうほとんど透けて見えなくなってしまった黄緑であろう右足を、一度ほどトン、と動かした。
「そっかぁ。よかった、これで本当の姿に戻れるのね」
トン。
黄金色の瞳も見えなくなってきて、姿が分かるのは白い胴体の一部分だけ。今誰かがここに近寄ってもきっと、白いシーツか何かが風に飛ばされて浮かび上がっているようにしか見えないだろう。
『おれい』
そんな八色蜘蛛の声と共に、二十センチくらいの大きなトゲのようなものがフィフィの腕の中へと吸い込まれるようにフワリと優しく降ってきた。
「これ……」
そっとキャッチして、そのトゲをまじまじと見つめる。色は虹色になっていて、キラキラと光る粉のようなものをまとって輝いている。けれどもどれほど角度を変えて確認しても、八色蜘蛛のようにそのトゲが透明になることはなかった。
ぱっと顔をあげると、八色蜘蛛は完全に姿を消していて、フィフィは慌ててディグダの方を向く。
「だぁあああ。その辺は俺は詳しくない。エプリアに聞けよ」
これは試験に関わらず聞いてもいいということなのだろう。フィフィは縋るように、エプリアの青い瞳をみつめる。
「……本で読んだことと、推測を合わせて話す。八色蜘蛛には言い伝えがあるんだよ、魔女に掃除をしてもらう代わりにお礼に涙や脱皮の皮を渡すってね。……だけど、全ての魔女に頼むわけじゃない。信頼できるひとりの魔女にだけ、掃除を頼むんだ。透明になった自分を見つけられるように、子どもから大人へと変わるときの大きな脱皮の時に一度だけとれる幼少期の角を託してね」
「掃除を頼める……信頼できる、魔女……」
ぼそりと呟きながら角をみつめると、もう姿は見えないけれど、トン、と一度ほど音が響いた。
今度は恐怖ではなくて、泣きそうなのを抑えるために、唇が震える。
「……お師匠様は基本、何も教えない人だから。俺も知らなかったけど、きっと八色蜘蛛は洞窟から出ないんじゃなくて、出られなかったんだ。けど、魔女はみんなこぞって涙を欲しがるし、黒く汚れてしまった身体では透明になるになれなくて、人間にも姿がバレて、攻撃される。だからお師匠様と取引をしたんだと思うよ。涙を渡す代わりに、人間から守るようにってね。……掃除を任せられる魔女が現れるまでの間」
トン。
いつの間にか、音は少し遠くなっていて、八色蜘蛛が移動し始めているのがフィフィでも分かった。
キョロキョロとするけれど、魔法の使えないフィフィでは、その姿が一切、見えない。それが悲しくて、ポロポロと涙を零すと、小さな影と共に頭の上が重くなって、ディグダの声がフィフィの真上から響く。
「お前は馬鹿だなぁ。話を聞いてたのか? 八色蜘蛛が透明になったら、誰にも姿はみえないんだよ。……角を持ってるやつ以外はな。だから俺らにだってもうみえないんだ。……ほら、角しっかり持てよ」
きっと、角を持った魔法の使える魔女にしか、透明になった八色蜘蛛を見つけることはできないのだ。
ディグダに言われてぎゅっと角を握り直すと、フィフィの頭の上がほんのりと温かくなる。
それと同時にほんの一瞬、崖を登りゆく八色蜘蛛の虹色の姿が見えて、目があった。逆さの三日月をさらに細めて、トントントン、と三回ほど黄緑色の脚を動かして、言ってくれた。
あれはきっと、またな、だと思うの。
だから涙を零しながらも、フィフィも笑顔でぶんぶんと手を振って、叫ぶ。
「またね!」
ディグダがフワリと飛び上がると共に、八色蜘蛛の姿はみえなくなった。珍しくディグダは少し息を切らしていて、フィフィは慌てて、ディグダに近寄る。
「ディグダ!」
「大丈夫だ。ちょっと涙の波に酔っただけ。あと、別に俺はお前の頭の上に座って休んだだけ。……俺が勝手に座っただけ」
「…………うん」
プイっと視線を逸らすディグダは、そのままふよふよと、若干によろけながら森の方へと飛び始める。
「ほら、行くぞ! 次はコウモリの巣だろ?」
「うん。ありがと。試験に受かったらケーキ五個あげる」
驚いた顔をしたディグダが振り返り、またツンとした表情で、言ってのける。
「お前は馬鹿だなぁ。……ケーキは個数じゃなくて、とびきりに旨いのをじっくり味わうのがいいんだよ」
「そうかもね。でも、どれが一番美味しいか食べ比べして、とびきりに旨いケーキを決めたらもっと美味しいかもよ?」
「やっぱり……お前は馬鹿だなぁ」
ツンとした声のまま、ディグダがすごく嬉しそうに笑った気がした。
魔法の使えないフィフィにはできることは少ないけど、ディグダには甘いものを、ケーキならば確実に用意することができる。ならば少しでも喜んでもらえるケーキを用意したいと思ったのだ。
けれどディグダにとってとびきりに旨いケーキは、ディグダにしか決められない。だからフィフィは試験に受かったら、ちょっと多めに用意しようと心の中で誓ったのだ。
前方を飛行するディグダにそのまま付いて行こうと、フィフィが一歩を踏み出した瞬間、ぼすりという音と共に、再び頭に重みを感じた。
「魔女さん。大事な忘れ物」
「あ、帽子!」
振り返り斜め上を見上げると、ちょっと不機嫌そうな顔をしたエプリアがいて、フィフィは目を丸くする。
けれど、エプリアはすぐに表情を戻し、いつもの穏やかな口調で、言ってくれる。
「さ、フィフィ、もうあまり時間がない。……走ろう!」
「……! うん」
ハロウィンは待ってはくれない。日付が変わる前に、かぼちゃを動かすために、急ぎ材料を集めなくては。
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