かぼちゃを動かして!⑱―フィフィの物語―
歩き進めていくうちに、フィフィのつま先にコツンと小さな何かがぶつかった。それはフィフィの足の動きに合わせて蹴飛ばされ、弧を描くように宙に浮くも、重力に負けてあっさりと地面へと落ちていく。そのままコロコロと何度か小さく跳ねると、土の道から草に覆われた完全な森の中へと姿を消していった。
「…………」
歩みを止めぬまま、たった今姿を消した小さなそれがあるであろう位置、草が生い茂る完全なる森の入り口を、フィフィは黙ったまま見つめていた。
さっき足にぶつかったのは、小石。最初にコウモリの巣を採りに行ったときに、怖がりなりに、賢くないなりに知恵と勇気を振り絞って、道標にフィフィが使ったものだ。
このまま斜めへと方向を変えて進めば、またいくつにも連なったあの藁の巣に遭遇し、とんでもない寝息をたて、他のコウモリよりも何倍もの大きさのある翼をバタつかせ、不気味で巨大な影と、恐怖でフィフィを縮みあがらせる羽音を生み出すあのボコウモリと対峙するのだろう。
正直にいうと、採取方法は分かったものの、透明マントなんて用意できないフィフィには、どうやってコウモリの巣に近づけばいいのか見当さえついていなかった。
けれど、見当がつこうがつかまいが、数時間も経たないうちに、フィフィはまたそこへと向かうに違いないのだ。無事に八色蜘蛛の洞窟から帰ってくることができれば、だが。
ただ、フィフィはもう知っている。八色蜘蛛は人間を食べるのは好まない、と。だから、フィフィが八色蜘蛛の動きを読み切れず、不必要に自らが動く、もしくは不必要に八色蜘蛛を動かさせて、ヘマをして怪我をするというようなことがなければ、確実に、洞窟から戻ることはできるはずなのだ。……理屈的には。
そんな考えを巡らせると同時に、ディグダのお前は馬鹿だなぁ、という声が頭を過る。
馬鹿だなぁて、本当に?
そう問い返してみたいのに、馬鹿じゃないと反論したいのに、先ほどにフィフィが自分で蹴り飛ばしたその小石が、全てを物語っていた。
コウモリの巣を採りに森へと入るのに、道標として何かを置けるくらいには知恵は働くのだろうけれど、採取方法が全くに違うと、その知恵なんてなかったことになるかのように馬鹿になり、そもそも、森に一人で入ろうとすることも、入れると思っていること自体もが、馬鹿であったのだから。
焦りと恐怖と。そこに湧き上がる、喜び。
もうハロウィンの終わりまで時間がない。やっぱり、洞窟へ行くのも、コウモリの巣に近づくのも、怖い。そんな中でも、みんなが心配してくれているのが分かって、嬉しい。
たくさんの感情が交差するなかで、フィフィが冷静に感じるのはやはり、自分の愚かさや、馬鹿な行動のひとつひとつ。
次の一歩を踏み出した瞬間に、整備された土の道の上でシンシンと小さく静かなステップを刻んでいた足音は、地面が土から草へと変わったからだろう、途端に小さなまま、けれどもザクリと草を踏む明確な足音へと変わっていく。
足ざわりも先ほどよりも柔らかくなり、それがまた、心元なく感じさせる。この地面の柔らかさは、足を包む優しさというよりも、どこかフィフィの心の脆さを鏡のように跳ね返してくるように思えてくるからだ。
もう、転がってしまった小石がどこにあるのかは見つけられなかった。
ひとりで採らないとダメだし、材料のある森に一人で入ってはダメ。
確かに魔女は自分で魔女の薬の材料を採ってくる。けれど、魔女であっても、みんな、一人では森へは入らない。
見失った小石を偶然に再び踏むことはなく、ただ小石が飛んだかもしれない位置を通り過ぎて、フィフィはポロリと呟く。
「……さっきも」
「え?」
依然、フィフィの顔を挟んで左右、左側にはフリーが、右側にはサディが飛んでいて。言い争って少し遅れをとったディグダとエプリアが数メートルくらい離れた後方で、フィフィを見守るように、ついてきてくれている。
黙々と進んでいたフィフィが突然に声を出したものだから、フリーとサディが心配そうに、フィフィの顔を覗きこむような体制で、飛行し始める。
サディとフリーがこちらを向いてくれているのに、笑顔のひとつも作らずに、フィフィは感情を隠しきることができず、きっと少ししょんぼりしているような表情で、そのままに、本音を言う。
「さっきも……みんなが本当はついてきてくれてたんだなぁって。心配してくれてたのを知れてすごく嬉しいけど、改めて自分はすごく恥かしい奴で、やっぱり、馬鹿だなって思って」
言葉にはしなかったものの、きっと、今の自分にはエプリアが言う、無知、というのがしっくりくるのだとフィフィは思った。
そうすると、ディグダの言う馬鹿だなぁという言葉の意味が、すごく、すごく、違って聞こえてくるのだ。
同じ恥ずかしいという感情でも、庭で言い争っていたときとは違う、何か別の恥ずかしさがあるのである。全身に血が巡るような、胸をざわつかせるものではなくて、もっともっと幼い頃、ミス・マリアンヌに叱られてしょんぼりとしていたときのような、そんな感覚の方が近い。
けれども、あの幼かった頃よりは成長していて、まだ大人ではなくても、子どもであることに変わりはないとしても、そこまで幼くはない。だからこそ、その恥ずかしさや、どこかしょんぼりとしてしまう気持ちの奥底に、確かに何か別のものも結びついているのが分かるようになっていた。
「……情けない。こういうの、情けないって、言うのね」
フィフィは思うままにそれを口にして、自分でその言葉のままにそれを納得した。
けれど、ほとんど独り言ともいえるようなそんな呟きに、ぽかんと口を開けて聞いていたサディが、とびきりの笑顔で付け加えてくれる。
「あと、悔しい! こういうの、あとでううううってなって、悔しいって心の奥底で思って、それでまた強くなろうって、誓えるんだ」
サディはいつも顔をくしゃりと崩して笑う。それはとっても可愛らしく親しみやすいのに、笑うときでもその眉は凛々しいままだから、どこか力強さも残る。その可愛らしさと力強さを足した温かい笑顔を見ていると、まるでフィフィは元気を分けてもらったかのような気持ちになってくるのだ。
サディの思いがけない返答とその笑顔に、安心して力が抜けたのかもしれない。フィフィもまた、知らぬ間に寄せられていた眉間を緩めていく。
「うん。……うん! そうかも。だってすごく、賢くなりたいって、今、思えてるから。たくさんのこと、知りたいって」
「うん。私もいつも、後で情けないって悲しくなって、そこから段々と悔しくなって、絶対に次は勝つってなるんだ」
そういうサディの声はとても迷いがなく真っすぐで、今度は誇らしげに、ニマッとした笑みを浮かべた。するとその力強さに良い意味で負けてしまったのか、だんだんと可笑しくなってきて、フィフィはとうとう、と声をもらして笑い出す。
「あはは。サディらしいね! ……でも、うーん、賢くなろうってちゃんと思えたら、やっぱりもう一度恥ずかしくなってきたかも」
素直に認めると、今度は庭で言い争っていたときのような、隠れたくなる恥ずかしさが蘇ってくるのだから、いたたまれない。
フィフィは箒を抱えていない方の左手を、無意識に頬に添える。その頬にはちゃんとレースのハンカチが口元をしっかりと覆っていて、その事実と相反する心に、フィフィは思わずため息をもらす。
「……頑張ってるんだけどなぁ」
このレースのハンカチだって、ただの飾りじゃないの。薬草を採取するのには欠かせないんだ。
すると、フリーが再び前を向いて、ブロンドのツインテールを揺らし、さあ進みましょう、とでも言うように飛行速度をあげていく。
「フィフィ、大丈夫よ。みんな、笑ったりなんてしてないわ。正直、心配でもどかしいときはあるわ。それが何かしらの感情にでることはあるけれど、絶対に、誰も馬鹿にしたりなんてしてないわ」
「う、うん」
妖精のみんなは優しい。だから、今はフリーとサディが。コウモリの巣のときは全員が、ついてきてくれていたのだ。
そして、ちゃんと心の奥底で、優しいみんなが馬鹿にするはずがないと分かっているし、けれども、みんなが優しいからこそ、フィフィは余計に自分自信を情けなく思い、そして無知であることを恥ずかしく感じてしまうのである。
いつも会話をするときは目を合わせてくれるのに、複雑な心境のまま曖昧に返事をしたフィフィの方を振り返ることなく、フリーはフィフィの顔の横から一歩分くらい、前方に出て飛びながら、言葉を続ける。
「もちろん、ディグダもよ。……ディグダも、絶対にフィフィのこと、馬鹿にしたりなんてしていないわ」
「…………」
いつもディグダは絶対にフィフィを馬鹿にしたようにしか笑わないし、そういうことしか言わない。けれど、フリーは優しいからこそ、気休めの嘘は言わない。それに何となくだが、先ほどのやり取りからも、ディグダもちゃんと心配してくれていたのがフィフィにも感じ取れたので、きっと、そうなのかもしれないとフィフィは思った。
すると、フリーはようやくに振り返ってくれて、ほんのりと視線を下に向けて、悩むように、付け加える。
「遠くからだったから……絶対にそうとは言い切れないけれど。エプリアも、馬鹿にしているようには見えなかったわ。茂みから声をかけようか、どうしようか、何度も立とうとしては座って、っていう感じだったかしら」
それを聞いて、心配してくれたことが嬉しいと思うのに、それ以上に無知である自分がさらに恥ずかしくなり、フィフィは顔がほんのりと熱くなるのを感じた。
火照った頬はレースのハンカチが隠してくれているはずなのに、きっとフリーにはお見通しなのだろう。フィフィの反応をみて、目を見開いてから、クスリと笑い、飛行速度を落として、再びフィフィと並んで進めるよう、顔の左側にきてくれる。
「大丈夫よ、フィフィ。あのね、ちょっとだけ強くなれるよう、恥ずかしいって思うときのおまじないを教えてあげる」
「え?」
「恥ずかしいって感情はその感情の中でも種類がたくさんあるから。だから全部に効くわけじゃないわ。サディが言うように、自分が次に恥ずかしくないよう強くなるまでの糧にしてもいい。まずは一旦、自分を守るために逃げたっていい。だけど、一生懸命して失敗した何かを、恥ずかしいと思う時、それは自分へのおまじないにするといいわ」
右側を向くと、サディも目を細めて優しげに微笑んでいて、それは先ほどまでの元気いっぱいのものとは少し違って、どこか綺麗に見えた。
そしてフリーが、やはり同じ女の子でも思わずドキリとしてしまうような、とても魅惑的な笑みで、そのおまじないを教えてくれるのだ。
「まずは友情のおまじない。この間栗を一緒に拾いにいったとき、木を揺すり過ぎて、酷い目にあったでしょう?」
「うん。あれはすごーく、痛かった」
あの日は、籠に余力があったものだから、欲張って何も考えずに木を揺すったら落ちてき過ぎたのである。するとそこら中に栗の雨が降って、とても酷い目にあったのだ。
妖精の子らはスピードを上げてひとっとび。フィフィは手袋をしていたので、栗を避けることはできなかったものの、それで頭を守って走り切った。その時は必死だったものの、なんとかその栗の雨から全員が逃げ切り怪我はなかったので、むしろ笑えるくらいの、栗の雨となった。
ただ、量が少なかろうが、多かろうが、落ちてきた栗はもう戻らない。
もったいなくてみんなで全部拾ったけれど、あまりにも多すぎて、すっかりと日が暮れてしまい、約束の夕飯時刻を過ぎて、全員でミス・マリアンヌにこってりと叱られたおまけつき。
いつ思い返しても笑えてしまうこの栗の失敗は、きっと、秋の味覚のよい思い出。フィフィは自分で笑いながら、改めて思う。
確かに楽しい失敗もあったな、と。
「ふふ。こういう失敗は、みんなで笑って楽しいものにしたらいい」
「うん。そうかも。あれは逆に楽しかった。もうあんな風には木は揺すらないけどね」
「そうね、私も痛いのはごめんだわ」
「だけどまだいっぱい栗が残るくらいに、たくさん獲れたわ!」
サディも思い出しているのだろう、いつも通りの温かく力強い笑みで、くしゃりと顔を崩して笑っている。けれど、フリーのドキドキとさせる笑みの魅惑度は、増す一方。
フィフィがじっとフリーの方を見つめ直すと、それを合図にするかのように、フリーの声が続く。
「それでね、もうひとつは恋のおまじない」
「恋?」
「そう。友情にも言えることだけれど、きっと、これは恋のおまじないにする方がいいから、恋のおまじない」
「う、うん」
恋なんてフィフィには縁遠いものであったから、フィフィはためらいながら、それでもサディもフリーもすごく優しく微笑んでくれているから、頷いて、その恋のおまじないの続きを待つ。
そうしたら普段通りのフリーの声なのに、胸がきゅっと締め付けられるような、とても優しい声がフィフィの耳に響いてくる。
「フィフィはコウモリの巣の失敗が……それが情けなくて、恥ずかしいって思うって言ってたでしょう?」
「うん」
じっとフリーの瞳を見つめながら、フィフィは力強く頷く。
どうすれば、この恥ずかしさから解放されるのだろうか。
すると、フリーは凛とした表情で、ずいっとフィフィの顔の真ん前まで来て、ちょんとその鼻に優しく両手で触れて、言う。
「刻むの。まずはこの恥ずかしさをちゃんと、自分の胸に刻むの」
「え?」
ふわりとフリーはフィフィの鼻から離れるように後方へと飛び、とても魅惑的な笑みで、また教えてくれる。
「でね、自分が恋をしたときの、大切な心の教科書に記すのよ。一生懸命したことの失敗を笑う人はパートナーに選んではいけないって。だって、誰かが一生懸命したことを笑う人は、失敗した時の恥ずかしい気持ちを忘れてしまってるんだもの。恋をするなら、自分が辛かったり恥ずかしかったりするときの心を、ちゃんと一緒に大切にしてくれる人じゃないと、ダメでしょう?」
フリーが睫毛を伏せて、微かに乱れた前髪を正す。その仕草はとっても美しくて、慈しみに溢れていて、フィフィはようやくに気づく。
きっと、フリーの微笑みが魅惑的に見えるのは、ただフリーが美人な女の子であるだけではなくて、恋をしているからなのだと。
瞬きをすると、周りの景色も、未熟な自分自身も何一つ変わってなどいないはずなのに、いつもの森が初めて来る場所であるかのように、どこか新鮮に感じられた。
フリーのおまじないは、きっと効果抜群。素直に、とってもコウモリの巣の失敗は恥ずかしかったけれど、それをちゃんと胸に刻もうと、フィフィは思えたのだから。
一生懸命を失敗するのはその分に反動はあるけれど、まるで太陽と月のように、意識をしたとたんにすぐに思い出されてしまうけれど、無くなったら、もっともっと、本当は困るのだ。
この恥ずかしさを忘れてしまった瞬間に、そんな思いを抱えている人の気持ちを想像できなくなってしまうのだから。すると、その相手が大切であれば大切であるほど、傷つけたりなんて絶対にしたくはないのに、そういうことが分からなくなってしまうかもしれないのである。
フリーが教えてくれたおまじないは、確かにフィフィの胸に温かく何かを刻んで、隠れたくなるような気持ちを楽にしてくれた。
そんなおまじないを教えてくれたフリーにちゃんと何かを言いたいのに、上手く言葉が出せなくて、フィフィは瞬きを繰り返すばかり。
いつの間にか足は止まってしまっていて、困ってサディの方をみたら、サディもやっぱり、優しく微笑んでくれていた。
それは元気いっぱいの凛々しいものではなくって、先ほど見せてくれた、どこか綺麗だと感じる、普段のサディよりも大人びた表情のもの。
そこで、フィフィはまた気づくのである。
フリーはきっと恋をしているし、サディもきっと、恋というものが身近にあるものだということを知っているのだと。
どの妖精の子だって大好きだけど、今こうやって一緒に森へと進んでくれているように、フィフィにとって、フリーとサディは特に仲の良い女の子の友達だった。
そんなフリーとサディの二人に共通しているのは、面倒見がよいところ。けれど、性格は三人とも違って、フリーとは特に正反対といってもいいくらいに違うのに、好きな服や花、食べ物などの好みがいつも似ていて自然と一緒にいる時間が長かった。そしてサディとは不思議と好きなものは全くといっていいくらいに違うのに、感覚が一致することが多くて、話していると楽しくて、どこか安心感があった。
けれど、二人と話していたら、屋敷を出る前に言っていた、フリーの大人になっていくのだという片鱗が、フィフィにもしっかりと、分かってきて。これから先、きっと、好みや感覚の何かに、恋というものが加わって少しずつ、自分たちは変わっていくのだと、知りたくなくても、気づいてしまったのだ。
すると途端にフィフィは寂しさを感じ、自分だけが取り残されたかのように焦ってしまって、口元が震え出すのである。
私は今、何を……言えばいいんだろう。
会話が分からなくなってしまい、顔が俯きかけた瞬間に、今度はフィフィの顔、右側に温もりを感じる。その温もりはサディで、コツンとフィフィの頭をまるで小突くかのように、両手で蟀谷を押して、フィフィが完全に俯いてしまうのを防ぐ。
顔をあげて目に飛び込むのはどこか綺麗だと感じさせる笑顔なのに、いつもの元気いっぱいの凛々しさも確かにあって、フィフィの心をぎゅっと引き戻してくれた。
「フィフィ、誰だって、恋をしてもいいんだよ?」
それを聞き、フィフィは改めて思い出すのだ。
ああ、いつも何かに心細さを感じているとき、真っ先に気づいて駆け寄ってくれてたのは、サディだなぁ、と。
ぎゅっと眉を寄せて、潤んだ瞳のままに、小さな声で言う。
「でも、フィフィはダメなの。フリーは綺麗で、サディは可愛い。だけどフィフィは違う。フィフィが恋をすることはあっても、赤い瞳のフィフィに……恋をする人はきっといない」
フィフィの小さな小さな声は、風にかき消されそうで、木々が葉を揺らす音が、真新しく見え始めた森の全てを飲み込んでしまいそう。
けれど、面倒見の良い二人は、絶対に、誰かの心の小さな声を、聞き洩らさないでいてくれる。
「「いるよ!」」
二人のその声に、ブルリと全身が震えて、鼻の奥がツンとした。
今のフィフィはとってもズルい。甘えてしまってる。
優しい二人が、肯定的な言葉を与えてくれると分かっていて、弱い心の内を、言ってしまうのだから。
「でも……」
気遣って言ってくれる友達の言葉を文字通りに受け取ってしまっては、フィフィはこの先、生きてはいけないのだ。
それ以上を言っても困らせるだけだと、何でもない、と言おうとしたその時、サディが真剣な表情で、フィフィをみつながら、もう一度言ってくれる。
「絶対に、いるよ。だって、世界は広いんだもん」
その声はあまりにも力強く、自信に満ち溢れていて、フィフィは思わず、出かかっていた誤魔化しの言葉を、飲み込む。
「私はさ、スカート履くの、大っ嫌い。あとね、女の子はお上品にしろ、とか。女の子だからって弱く扱われるのも、大っ嫌い」
「う、うん」
確かにサディがスカートを履いているのはみたことがないし、日頃からサディは勝負事が大好きで、男の子と腕相撲や力比べをしても、十分に張り合える。運動でも魔法でも、何だって、サディは努力家で、負けず嫌い。
そんなサディの大嫌いなことの宣言っぷりはフィフィを圧倒するものだった。けれど、凛々しい眉はそのままに、表情を和らげ、ゆっくりと口元を動かして、笑む。
「でも、ただそれだけ。自分が女の子で嫌だなんて思ったことはないし、男の子が嫌いとか、恋は絶対にしないとか、勘違いされやすいけど、そんな風に思ったことも一度もないんだ」
何処かから強い風が吹いて、三人ともの髪が揺れる。すかさずフリーはスカートに手を添えて、フィフィは大事な魔女帽子を反射的にぎゅっとおさえる。けれどサディは何もせず、ただ風に任せるまま。その風がサディの三角帽子をさらった瞬間に、軽やかな身のこなしで、サディはピュンと飛んで、帽子を掴みとる。
その時間はほんの僅かで、数十センチほどフィフィの顔よりも高い位置へと移動してしまったサディの方をみると、掴みとった帽子に視線を向けたままに、そのまま飛行を再開し、サディは続ける。
「フィフィ、男の子はさ、やっぱりお上品な女の子とか、美人な子が好きだと思う。これは妖精でも、人間でも、きっと同じかな。それで、人間の世界でいうなら、フィフィが言う通り、人間はそういう価値観を捨てきれないから。私たちは大好きだけど、赤い瞳が好きだと言う人は確かに少ないと思う」
フィフィにとって、それはとても残酷な事実ではあるけれど、この分かり切っている事実に気休めの嘘をつかれる方がもっと辛いのを知っている。
先ほどよりも重くなった足取りのまま、けれどもちゃんと足を動かして、サディに引っ張られるように前に進みながら、フィフィは素直に返事をする。
「…………うん」
依然、サディは進みはしているけれど、その瞳は焦点を定めぬままに、どこか漠然と、掴んだ帽子をみつめたままだった。フィフィの返事を聞き、数秒程固まってから、サディが徐に口を開く。
「だからさ、やっぱりフリーとか、ミス・マリアンヌみたいな美人はモテるんだ。別に美人なだけじゃなくて、二人はすっごく、性格も素敵な女性だからなんだけどさ。それで、そういう人たちと比べたら、人数とか、確率で言うと、恋ができる相手っていうのに巡り会う機会は、私やフィフィはやっぱり少なくはなると思う」
「…………」
サディがこちらを向き、珍しく眉を下げて弱々しく微笑みながら、付け加える。
「あのね、フィフィ。実はさ、これはあんまりみんな言わないけど、妖精の世界では女の子はすっごく、お上品なことが大事にされてる。……例えば、ズボンを履く女の子なんて、ありえないってくらいに、そういう感覚が当たり前」
「え? そうなの?」
言われてみれば、サディ以外の女の子がズボンを履いているのは見たことがなかった。そして、こんなにも一緒にいるのに、みんなのことは知っていても、妖精が使える魔法の知識を共有していても、妖精の生きる妖精たちの世界の価値観というのを、フィフィはあまり詳しく理解できていなかったことに気づく。
魔女の決まりに、妖精の基準。魔女のミス・マリアンヌと妖精たちと一緒に生きているはずなのに、妖精たちがいなければフィフィは魔法が使えなくて、フィフィはどうしても魔女になりたいのに、そのどちらもの価値観で、生ききれてはいなかった。
驚くことしかできないでいると、サディが目を細めて、すごく嬉しそうに、微笑む。
「だからね、初めてフィフィに会ったとき、ズボンを履いてるのに女の子ってわかってくれて、女の子の友達として、何のためらいもなく当たり前に話しかけてくれたのが、すっごく嬉しかったんだ」
それを聞いて、フィフィは息を飲む。
乾いた唇がくっついて、一瞬声がでなかったけれど、ちゃんと言葉にしなくちゃと、自分もずっと、同じであったことを、改めて、言う。
「フィフィも一緒。……赤い瞳なのに、仲良くしてくれるのが、嬉しい。フィフィもみんながいないと、ダメなの」
「……うん。私もフィフィと友達になれないと、頑張れなかったこと、たくさんある」
二人で目を合わせて、力の抜けた、笑みをもらす。
それと同時に、ひどく、肩や心に纏わりついていた重い圧も、抜けていったような、そんな気がした。
すると、小さく息を吐き、サディが改めてフィフィに向き直り、いつになく真剣な表情で、言う。
「人間の世界では普通、瞳の色は赤くない。妖精の世界では普通、女の子はズボンなんて履かない。自分たちの世界の価値観で多数派が普通なら、みんなとは違うところがある私たちは少数派。残酷だけれどたとえ悪いことなんてしていなくても、少数派の私たちは時々、生きづらい。恋なんて、してはダメだと思ってしまうくらいに」
「…………うん。そうかも」
無意識に視線がいくのは空で、フィフィは頭をあげて、木々から生い茂る葉の合間に映り込む、青を見つめる。
もし、瞳が青ければ、他の色であれば、人間の世界で普通に、フィフィも生きていけていたのだろう。
けれど皮肉なもので、瞳が青ければ、魔女見習いにはなっていない。
サディやフリーはもちろんのこと、ミス・マリアンヌと出会うこともなければ、一緒に暮らすなんてことは、きっと、なかったに違いない。
当たり前すぎることを改めてきっちりと言葉として聞いたとき、赤い瞳ではダメなのではなくて、恋もしたらダメなのではなくて、フィフィが普通ではないのが嫌だから、普通ではない赤い瞳では全てがダメなのだと思い込んでしまっていたのだ。
ちゃんと自分たちはみんなとは違う少数派だと言葉にできるサディは偉いと、すごく強いと、フィフィは思ってしまった。きっと自分と同じでサディだって本当はそんなことなどないはずなのに。
視線を空からサディへと移すと、小さく微笑んでくれた。けれどその微笑みは、珍しく眉が下がっていて。ほんの少し、唇を震わせながら、わざわざフィフィに、けれどもちゃんと言葉にして、言ってくれる。
「でも、お母さんとお父さんがいつも言ってくれる。人と違って少数派になってしまうと、生きづらいときもあるし、恋のチャンスも他の人と比べて多くはない。だけどその代わり、多くない分、チャンスが来た時に絶対に気づけるから。多さではなく、大きさを大事にしなさいって」
それを聞き、ぼんやりとフィフィは思い返す。
確かに、多く生い茂る種類の薬草は、薬草自体をみつけるまでは早いけれど、そこから薬として使える綺麗な状態のものを選別する作業が、とっても大変なのだ。広範囲に生えているものは、人間や動物に踏みつぶされてしまいやすいから。
けれど、コウベニアの実のように、なかなか見つけにくいけれど、あまり遭遇しない薬草は、遭遇さえすれば、見逃すこともなければ、大抵の場合がちゃんと、薬草として使える状態のことがほとんど。
だってそういう種類の薬草は、見つけようとしなければ見つからない種類のものだから。
「……あ……えっと……」
理屈はなんとなく分かるのに、それでもどうしても、恋となると、フィフィには小さなチャンスさえないのに、大きなチャンスが来るということ自体が、あまり上手く想像ができなかった。
素敵な考えだと思うのに、うん、と言えない自分をフィフィは捻くれた奴だな、と思うと同時に、サディやサディのご両親に申し訳ない気持ちになってくる。
返答に困って、言葉にならない声と、瞬きばかりを繰り返すフィフィに、サディが声をあげて笑い出す。
「あは、あはははは」
「サディ?」
それはあまりにも突然で、フィフィが首をかしげ、フリーが心配げにみつめていると、サディが心底おかしい、とでも言うように、お腹に手を添えて、身体を海老のように曲げながら、笑い続ける。
「はは、あはははは。本当に、一緒! ね、フィフィ。今、小さなチャンスもみつからないのに、大きなチャンスがみつかるはずないって思わなかった?」
あまりにも考えていたことをぴったりと言い当てるものだから、フィフィは目を見開いて、一度ほど、ゆっくりと瞬きをして、コクリと頷く。
サディが、笑いすぎて滲んでしまっていた涙をぬぐいながら、言う。
「フィフィって、本当に顔に出やすいよね! 勝負で白黒はっきりつけなくてもすぐに何を考えてるのかが分かるから、フィフィと一緒にいると、すっごく安心するの」
「…………それ、褒めてる?」
レースのハンカチで隠れるのをいいことに、頬を膨らませ、ぶすっと拗ねた顔を作ってみせると、ごめん、とでも言うようにサディがフィフィの頭に触れる。フィフィと妖精たちでは身体の大きさが違いすぎるから、明確ではないけれど、その触れ方はまるで、ぎゅっと抱きしめるかのよう。
「すっごく、褒めてる! 私もずっと同じことを思ってたんだもん。あんまり信じてなかった。だけど最近、少しだけ、その意味が分かるようになってきたんだ」
その笑顔はとびきりに可愛くて、サディも恋が、始まるのかな、と鈍いなりにフィフィも感じて。何だかそれは、フィフィまでもが嬉しいことに思えて、フィフィもサディに微笑み返す。
「なんだろう……上手くは言えないんだ。だけど、フィフィが今、魔女を目指してるように、少数派でも何だろうと、諦めずに生きてたら、自然とそういう場に、足が赴くときがあるみたい。フィフィがミス・マリアンヌと出会ったように、私がフィフィと出会えたように、この屋敷に辿りつけたから。だからすっごく変なんだけど、多さではなくて、大きさがあって。多くない代わりに、その大きな出会いが起こったとき、すごく大事だって、すぐに気づけるんだ」
「うん、うん……! そうかも。私、みんなのこと、大好きだもん」
確かに恋に限定してしまうとそれは素直に、うん、とは言えなかったけれど、フィフィの大切な帰る場所としてであれば、自信をもってそうだと言えた。ミス・マリアンヌの弟子になり、サディやフリー、妖精のみんなたちと出会えたことは、村で普通に生きて出会えた誰かの数よりもきっと、少なくも大きい、大切な出会いであったことは紛れもない事実なのだから。
そして、フィフィとサディがいつもの笑顔に戻ったところで、ずっと黙って見守ってくれていたフリーが、言う。
「ねえ、知ってる? 二人はすごく私のこと褒めてくれてたけど、モテるのもね、種類があるのよ」
「「種類?」」
すると、フリーはとても残念だ、とでも言うように、わざとらしく肩を竦めて、ふよふよと飛び出す。
「そう。多くない大きい出会いがあるのなら、多く浅くモテるのと、少なく深くモテるのがあるのよ」
フィフィにはその意味がさっぱりと分からなくて、思わず、首を傾げる。すると、その動きに合わせて、箒がしゃりっと気持ちよく、地面に擦れる音がした。右側を見れば、サディもきょとんとしていて、二人の数十センチ前を飛び進めるフリーが、クスクスと笑いながらこちらを振り返る。
「何て言うのかしら。同じ告白されるのでも、何となく美人だねって十人に多く浅くモテるのと、その人数が一人、二人で少なくても、絶対に君がいいって、深くモテるのがあるって感じかな」
「「そうなんだ……」」
モテるということ自体が分からないから、やっぱりよく分からないけれど、何となく好きと言われるより、絶対に君がいいと言われる方が、想像しやすい気がした。
フィフィがいつも読む本に登場する王子や姫は、お互いがお互いをそういう風に想い合っていて、幸せそうだったから。
初めて恋というのが、空想や物語の中の事象から身近なものに変わったそのとき、特に何もないのに、フィフィは突然に胸がドキドキするような感覚に襲われた。少し、ボーっとしてしまうような、火照りと共に。
そうしたら、フリーがまた、クスっととても魅惑的な笑みをみせてから、長い睫毛を伏せて、悲しんでなどいないはずなのに、どこか寂しげに、言うのだ。
「……でも、結局は、誰にモテるのかが一番大事なんだと思うわ。好きな人に好かれないと、全部意味がないでしょう?」
「フリー?」
「…………」
飛行になれた妖精たちには、ちょっとした風をかわすのなんて、お手のもの。そんなことは分かりきっているのに、その瞬間のフリーは、花弁の開ききった花のようで、どれほど小さなものでも、風が少しでも吹けばどこか飛ばされてしまいそうに見えた。
大切に大切に、守らなければと、反射的に思ってしまうくらいに。
けれど、フィフィがフリーに何か言わなければと一歩近寄った瞬間に、パキン、と枝を踏むような音がフィフィのすぐ後ろで、響いた。
「あー、えっと」
その声に反応して、ゆっくりと、振り返る。
フィフィの動きに合わせて、長い髪だけがなびいて、だいぶ慣れてきた帽子はもうコトコトと小刻みに揺れることはなかった。
視線の先に映るのは、ひとりの男性が着ているシャツで、今日半日で、とても見慣れたシンプルな白いもの。
しっかりと見上げなければその顔が見られないくらいに、距離がつまっていて、フィフィは、固まる。
「おい、そろそろ森も深くなってきたんだから、お前らだけで先に進むな。あと、もっと用心しろ!」
「何がお前らだけで先に進むな、よ。ちゃんと用心して進んでるわ!」
「どうだかな。ずっと、ぺちゃくちゃ喋ってたくせに」
「何? 私たちの話、聞いてたの?」
「な、聞いてないし!」
そして、フィフィが見上げることができないでいるその男性の顔の位置くらいに、毎日なんだかんだで一緒にいるのに、今日半日はあまり顔を合わさなかった植物の妖精が、いるのだろう。
どうしても顔をあげることができず、フィフィはたちまち、つい先ほどまでどうやってエプリアやディグダと目を合わせていたのかが、分からなくなってしまった。
その理由も、心当たりがあるようで、でも、ないような気もして。
ただ漠然と、きっと、ディグダだからとか、エプリアだからとかではなくて、初めてちゃんと恋について話をして、その後で偶然、最初に顔を合わす男の子で二人であるから、何となく恥ずかしいのかもしれない、と思うようにした。
何故だか分からないものの、胸のどこかがきゅうっと疼いて、それ以上を今は考えてはいけない気がしたからだ。
だって、フィフィ、試験まで急いでいるはずだから。
胸がくすぐったくなると、材料集めに、集中できなくなっちゃう。
「…………さ、行きましょう」
フリーの声に合わせて、フィフィは「うん」と返事をして、結局顔をあげることがないままに、前を向いて歩き出す。
すると、数歩進んですぐ。明確にレースのハンカチ越しにでも、鼻がムズムズとし始めて、フィフィはすかさず、鞄をごそごそと漁りだす。
「フィフィ、ここからこの黒い眼鏡使うね」
黒いと視界が悪くなるからギリギリまで使わなかったけど、もうあの毒草の花粉の影響がでるくらいの領域に達したみたい。
カチャリと気持ちの良い音を立てながら、エプリアから物々交換でもらった、例の眼鏡を装着する。
かけてみると、それは洞窟でフィフィが借りたものより使い古されていて。けれどもその分、造りもしっかりとしていて頑丈そうで、あのときと同じだけれど、違うことに、気づく。
「…………眼鏡、使うね」
そうしたらつい、フィフィは同じことを二度、言ってしまって。
けれど、そんなこと気にもしていないように、すごく落ち着いた優しい声が、数歩分くらい後ろから、返ってくる。
「うん。ちょうど、風もさっきより弱いから、それで十分防げそうだ」
フィフィと一緒に進むなら、エプリアだって、風魔法使えないのに。
「ありがとう……」
「うん、ちゃんと物々交換だから、大丈夫だよ」
顔をみないままに小さく呟いたら、本当にフィフィの真後ろくらい、さっきよりもかなり近いであろう位置、上の方から、エプリアの声が響いた。
その声は、ドキリとフィフィの心臓を一度ほど、跳ね上げさせた。
眼鏡が黒くて、よかった。
多分、また頬が火照ってしまっている。レースのハンカチだけでは隠しきれないくらいに。
フィフィはぎゅっと黒い眼鏡の淵を押さえながら、何かを振り払うように、ぶんぶんと首を振って。今度は五人で、さらに森の奥へと進み出した。
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