世界の子どもシリーズNo.6_過去編~その手に触れられなくてもepisode0.75~
こちら直接的な表現はありませんが、災害を連想させる言葉や描写があります。苦手な方は該当シーンを飛ばし読みするなど、何卒、無理してお読みなさらないでください。
その男性はあまり背が高くないのだろう、小柄だと言われる私とそこまで目線の高さが変わらないのだ。男性はそれ以上に何かを言うことはなく、無言のまま、二人で視線を交わす。特に表情も見受けられず、元々の顔つきなのだろうか、怖いというよりかは、どこか厳しそうな雰囲気がある。髪は短く切りそろえられた白髪で、そこに時折、焦げ茶が。どこかふっくらとした印象があるのに、その頬は張りがあるどころか垂れぎみで、額や眉間には深い皺が刻まれている。それはまるで……。
「あ、えっと……はい、カイネです……」
どれほど考えても、この男性に見覚えもなければ、こういう特徴をもつ種族の者との繋がりに心当たりもなく、けれど、茶のクリッとした円らな瞳にだけ、既視感があるのだ。
どうにか思い出そうと、その瞳を凝視しながら、失礼のないよう、躊躇いがちに返事をした。すると、ようやく男性は目尻を下げ、ほんとうに微かに、笑みを浮かべてくれたのだ。
「ミアたちから聞いていた通り、嘘がつけないお方のようだ。あなたの予想どおりです。私の容姿はあなた方には珍しいでしょう? ……ミアの父親です。人間なので、この通り、すぐに老いてしまう」
男性はその老いというものに嫌悪感を抱いている様子はなく、どこか憂いのようなものを残しながらも、目尻を下げ、笑みを浮かべたままに、額に刻まれた皺を指差して見せた。背は、ムーやアヴァロンの男性と比べると、男性であっても低い方なのだろう。それでも、小柄な私と目線が近いのは、本当に背が低いからではなく、よくよくみると猫背気味であるからだと分かった。それもまた、老いによる影響もあるのかもしれない。
すると、父親の声に反応するかのように、ミアが私から離れ、その横へと戻ったかと思うと、その腕に手を添えて、とても子どもらしからぬ礼儀正しさで、頭を下げて言うのだ。
「カイネ様とネロ様のおかげで、式典の後も父と母と三人でサンムーンで過ごすことができております。本当に、ありがとうございます」
そのミアの振舞いは彼女の母親を連想させるもので、彼女の成長と、彼女の母をも思い出す、懐かしさ。そして、彼や自分がこれまでにしてきたことが報われるかのような、心から全身へと巡っていく、じわじわとした喜びを、与えてくれたのだ。
「いいえ、ミアたちが頑張ったからよ。私は何もしてないわ……あの後もネロが……あなたたちがここで住めるよう、手配してくれてたのね」
涙が滲み視界がぼやけゆく中で、それでもくっきりと分かるように、ミアの父親が明確に首を振った。
「……人間である私も、鳥族である妻やこの子も……魔法は使えません。日々の生活は自分たちで頑張ってきましたし、宇宙法的な手続きはネロ様が整えてくださった。……ですが、カイネ様が娘に与えてくださった祝福というのは、私たち家族の命と居場所を守ってくださいました。魔法が使える者は、あなたの与えてくださった加護とやらが分かるようで……あの後から、直接的に危害を加えられるようなことは、なくなりました。ミアも私も、仕事以外で森から普通に街へと出られるくらいに」
ミアが額に手を添え、クリッとした目を細めて、まるでお日様のように温かく笑う。それを見て、特別なものを特別だと、姫であっても叫んでもよく、姫であるからこそ守れていたものがあった事実が、過去から巡って、今の自分にもう一度、そのことを教えてくれたような気がした。
それらの感情は叱咤するように私の身体をブルリと震わせ、今度こそ躊躇わずに、私から言葉を紡ぎ出させてくれる。
「私……頑張らなきゃ。どうか、どうかサンムーンで生き続けるため、ここから逃げてください。今はまだ穏やかですが、間もなく、大波がここを襲います。……もう半刻もない。ここではなく、崖の方へとこの子を連れて逃げてください」
しっかりと、恐れずにミアの父に言葉を告げ、その横に控えるミアの手をぎゅっと、握りしめた。ミアは一瞬程目を丸くさせ、頷くと何かを促すように、父親の方を見上げたのだ。
「……アヴァロンから緊急招集の命がでました。私たちは魔法が使えませんので、妻が直接、魔法族が潜伏する家へと詳細の確認に向かっております。ただ恐らく、避難勧告がでたのではないかと……いつでも動けるように、私とミアは神殿で待機をしていたのです」
「……! やっぱりネロが動いてくれたのね。……魔法族はどれくらい潜伏しているの? 波は二度くる。……そして、ここにいてはダメ。あちらの崖より向こうへと避難しないと神殿の……」
「神殿の柱が折れて、崩壊する」
「え?」
捲し立てるように話し続けた私の言葉と被さるように、ミアの父親が、今まさに自分が言おうとしていたことを言ってのけたのだ。驚いてそれ以上の言葉が思い浮かばず、何故、というように視線だけを、目の前の、確かに人間だと、魔法が使えないと言った男性へと、向ける。
すると、今度ばかりは、本当に心を許してくれたのだろう。微かではなく、完全に微笑みをみせてくれたのだ。クリッとした目がとても細められ、厳しそうな雰囲気があったのが一転、とても優しく、お日様のような、みているこちらまで一緒に笑いたくなるような、親しみのある笑みを。それはとても、ミアにそっくりだった。
「私は建築家です。……星は詠めません。魔法も使えなければ、空も飛べない。ですが……建築のことならば分かる。増設中の三本目の柱、あそこ以降は強度がダメだ。さらに言うと、あそこの柱が折れれば、天井部分は必ず、本殿の方へと落ちることでしょう。……そうすると、あまりにも配置が悪すぎる。衝撃に耐えられず、一気に本殿の方も天井の中央から崩れ、最悪、瓦礫の多くは市場の方へと落ちていく。ここにある巨大な彫刻も、精巧に造られたガラス壁も、美しもの全てが、ただの危険なものへと変わってしまう。……だから増設工事に反対していたんだ」
「……神殿の連絡通路の八本目の柱まではもしかして……」
すると、今度は「はっ、はっ、はっ」と声をあげて笑い、目の前の頼もしい建築家の男性が、私の肩に手を添えて、強く、強く、ただ私が視ることしかできなかった星詠みの光景を、現実に落とし込んで、肯定してくれるのだ。
「お見事です。サンムーンの開拓がはじまってから式典までの十年、私がここの神殿の建築を任されていました。ですが、増設中のエリアへと続く連絡通路の八本目以降の柱からは、他の星から移住して来た者に、追い出され携われなくなってしまった。私は土地の形状上、増設自体が危険だと反対したのですよ。けれど、彼らはそういうことはお構いなしに、魔法とやらで、あっという間に色々なものを造っていく。……私のように魔法が使えない者がここで生きていくには、立場も力も弱い。……でも、時間をかけるからこそ、精巧に、頑丈に築き上げられるものがある。建物も……信頼も」
小さく息をのみ、瞳を揺らす。星を詠んではいないのに、私よりも鮮明に、これから起こるであろうことを知っている人が、今ここに、いるのだから。
何度も、何度も、真夜中のひとりきりの神殿を歩いて回っては、すばらしい建築技術に見惚れたものだ。もちろん、こんなに多くのものを、おおよそひとりの職人が受け持つ訳ではないだろう。増設エリアへと続く通路から、違う人が担当になったのだろうと予想はしていたものの、それでも、無意識に変わり目の柱の位置を覚えてしまうくらいに、精巧さが違ったのだ。神殿そのものも、至るところに設置されている、彫刻から、神殿中央部のガラスの壁の細部に至るまで。
「サンムーンは宇宙全体の種族を問わぬ中立都市。けれど……ここは中立だと、どれほどに平和を謳おうと、立場が弱い者はどうしようもないトキがありました。直接的に危害は加えられなくなったが、どうにも人間の私の意見は通らない。十年という歳月をかけた仕事を、容易く奪われてしまう。森に引きこもって、木彫りの小物を作っては、生活のために市場に出していました。けれど、この子は決して、飛ぶ練習をやめない。……百聞は一見にしかず。鳥族ではないのに、カイネ様は飛んでいたと、自分も飛べるはずだと信じて娘が努力をするのに、私が諦めていいはずがない。ずっと、辛抱して機会を窺っていました。……そして、ちゃんと届いたんです。声が上がり始めました。人間の私が造ったと事情を知らない、日々神殿へと通う者から、本殿の建築技術は素晴らしい、増設中のものも、同じ造りに戻してほしい、と。いくつも、いくつも」
「……っつ……」
視線をミアへと向けると、とても恥ずかしそうに、肩を竦めて微笑んだのがわかった。膝や腕にはよくみるとすり傷がたくさんあるのを、ようやくに気づく。私は膝をつき、ぎゅっと、ミアを力いっぱいに抱きしめる。彼女の感情に反応して、その翼が小刻みに揺れ、翼そのものが、とても懐かしくなった。
「……そのいくつもの声をうけて、先日からミアが神殿に行くのについて行って、本職に復帰するため、下調べを開始しました。そして、増設中の柱自体が危ないことに気が付いたんです。それで……工事自体を一旦中断する進言をしていたのが、やっと通ったところです」
自分よりも幼い子に抱きついているというのに、私は堪えることのできない涙を零していく。涙で滲む視界に、黄色い翼が、本当に温かく、私を想って揺れ動くのだ。子どもながらに心配してくれているのだろう、ぎゅっと、力いっぱいに抱きしめ返してくれるのが、本当に心から、嬉しかった。
「必死で、気が付かなかった。昼間だというのに、今日は増設工事をしていないわっ。ああ、ごめんなさい。……あなたやミアが頑張ってくれていたことを、私は見逃すところだった。これだけでも、助かる人が増えていることでしょうにっ」
自分よりも大きな者が、それも一国の姫が泣いているのを、ミアは蔑むどころか、まるで日頃私がしているように、頭を撫でてくれるのだ。そして、もう一度ぎゅっと、きつく私に抱き着き、ミアは言う。
「アヴァロンの会議がある度に、みんな私に伝言するの。きっと、子どもの私が一番見張りもなく、カイネ様に会える可能性が高いだろうからって。アヴァロンは決して、サンムーンから撤退したりしない。波のあとであっても、ずっと、ずっと。カイネ様がアヴァロンに戻ってくるそのトキまで、白い扉を守り続けるって」
「うあっ、あ、ああ。……帰りたい。帰りたいよっ」
いくつもの涙が頬を伝い、今から壊れてしまうであろう神殿の入り口へと落ちていく。今日だけでどれほどの涙を零し、そして、この涙の中にどれほどの想いが詰まっているのかを、自らではなく周りから教えられることとなった。叫べなかった心からの本音を言葉として世界に発したそのトキ、強く肩を叩かれる。
「もちろんです。さあ、時間がないのでしょう? 帰るために早速、動きましょう。ミア、例の物をとってきてくれ」
「はいっ」
ミアが私から離れ、神殿の中へと戻っていく。彼女は走っているけれど、神殿は街で一番に高いところに位置するから。真っすぐに太陽の光が降り注ぎ、海側から吹く風をとてもよく拾うことができるのだ。光が温かに心地よく、風が私の髪をさらい、ミアの翼から落ちた数枚のオレンジの羽を、宙にまわせる。それはまるで、彼女も自分もあのトキのように飛んでいるのかのような錯覚に陥らせる。
呆然とミアの後ろ姿をみつめ、地面へと座り込んだままの私を立たせて手を引くのは、ミアの父親。彼は私を、例の崩れるであろう柱の方へと連れて行くのだ。
「特にこの一年、本当の意味での中立国が撤退し、話を聞かない新たな星の移住者が増えたからこそ、アヴァロンとムーを悪く言う者がサンムーン内に増え続けた。カイネ様を悪く言う嘘ばかりの噂も、幾度となく耳にしました」
「……っつ。私が至らず、情けないばかりです」
けれど、ミアの父親は即座に、きっぱりと首を振るのだ。そして、例の柱の前へと立ち、しっかりと、私の目をみて言葉を告げてくれる。
「いいえ、違う。あなたが強く、周りが弱いのです。私も同じく、とても弱い。だからこそ、弱い心を知っている。……力無き者は怖くて、トキに力ある者の全体をみて言う意見に対し、反発するのですよ。……その意見を受け入れてしまえば、ひとたび、自分は弱いと認めてしまうことになりますからね」
崩壊する予定の柱と、星が視せた市場へと呼びかけに走ったひとつの未来の光景と、目の前にいる私を強いと言ってくれる男性。
あの残酷な光景を思い出し、身震いしながら、崩れる予定の柱とミアの父親とを交互に見て、私は力なく笑み、正直に言う。不思議と、もう唇は震えはしなかった。
「いいえ。私は弱い。情けなくも怖くて逃げようとしたし、今だって、すぐにでも白い扉をくぐりたい」
「はっはっはっ。それは弱いとは言わない。むしろそれを聞いて安心しました。今からしようとすることは、私にだって勇気がいりますからね。でも、怖いという気持ちも、逃げたいという気持ちも、それはあなたが生きるのを諦めていない証拠だ。だからこそ、どうか、生きるために私を信じて、私に命じてください」
「え?」
言うや否や、ミアの父親は柱へと向き合っており、その目は既に建築家のそれへと変わっていた。じっと、一本の柱の側面を撫で、何かを確認している。彼の指の動きにあわせて特に何度も撫でるその箇所に目を凝らすと、とても、本当によく見なければ気づかないくらいの、小さな穴のようなものがあったのだ。
「……ここに気泡が入っている。それもね、この音。きっと、中にはもっと大きな気泡が出来ているに違いない」
自身の身体よりも大きな柱を、ぐるりと一周するように、彼はその拳を軽くぶつからせ、微かな音の違いを確認し続けた。
「私は地上世界から迷い込んだ人間です。私の世界の言葉でいうなら、私がこの地に辿り着いてしまったことを、神隠し、と言う。そして、私たち人間は、あなた方のような魔法や不思議な力の使える者のことを、神と呼ぶのです。あと、妻や娘のように背に翼の生えた者のことを、天使と呼ぶ。魔法の使えない力なき人間は、ここでだけでなく、地上世界ででも、神や天使を敬うのです。自分たちを導き、願いを叶える存在として、こういった神殿と言われるような建物を造り、そこへと足を運び、祈りながら」
私は振り返り、まじまじと、見事に建てられた本殿を今一度みつめる。白を基調とした石のように頑丈な建物は、石そのものではない。石を削って、こんなに同じような造りの柱が何本も何本も、造れるはずがないから。
「魔法を使わずに、どうしてこんなにも精巧に、同じものが造れるのでしょうか。それも、これほどまでにも頑丈なものが……」
音を確認し終えたミアの父親は、ポケットから一本のペンを取り出し、私では分からない法則で、柱の数か所にバツ印をつけていくのだ。
「……セメントと私は呼んでいました。型をつくり、それにセメントを流して、頑丈で全く同じ大きさ、形のものをいくつも造るのです。もちろん、石そのものを削って造っている箇所もあれば、地上世界でもそういう技術は魔法がなくとも使われています。開発が始まった当初も、ここでは人間の私が自由に使わせてもらえる頑丈で大きな石というのを、あまり与えてはもらえなかったのです。ですので、完璧ではないですが地上世界で造っていた時と同じような材料を集めて、セメントを用いて造れるものを造り続けました。……私が住んでいたところは日本といって、時代でいうと、きっとここよりも遥かに未来だと思うのです。……一級建築士という資格を持っていて、向こうでいうならば、将来が安泰するような、建築家としての資格と地位をもっていました。神隠しにあってすぐの頃は、神を恨んだものです。……だけど、不思議だ。信じられない境遇にいるのに私はここで生き、何度本や彫刻で見惚れたか分からない、本物の天使に出会ってしまったんですよ。レリーフにね。彼女も私に同じ気持ちを向けてくれたそのトキ、私が生きる場所はここだと、愚かにも思いましたよ。私には老いというものが付きまとい、彼女とは生きる時間の流れそのものが違うというのに」
「……夢の中だけではない、時間を越えた……迷い人……」
私の小さな独り言を特に拾わず、印をつけ終えたらしい、地上世界での一級建築士だと言う彼が顔をあげる。額にはやはり、深い皺が刻まれ、その背はどこか丸く、きっと、彼の言葉をそのままの意味で捉えると、魔法が使える使えない、魔力の有無でいうならば、彼は弱い者に部類されてしまうのだろう。けれど、迷い人だという目の前にいる人間と呼ばれる地上世界の種族の者は、私の目にはとても頼もしく感じられる。その背から漂う何かが、不安でいっぱいであった私に、それでも尚、不安を越えてまだ大丈夫だと、そう思わせてくれるのだから。彼の背には、こんなに素晴らしい神殿を造り上げたという、目に見える功績の、そこに至るまでの、周りからは決して目には見えないその経験と感情の全てが、まるで透明の翼がそこにあるかのように、背負われているのだ。
「……ですが、カイネ様。これほどに不思議な経験をしても尚、実際に魔法というものをこの目で見ているのに、私は心の底からはそういうものを信じていません。あるいは、私自身が魔法が使えないからこそ、どうしても最後まで信じたくないのかもしれません。だから私は今でも、あなた方を悪く言う街の人たちと同じく、星詠みとやらを信じてはいない一人なのです」
「……っつ。でも……柱が……」
今度はぐっと、柱の印をつけたところに掌をあて、ミアの父親は力いっぱい、そこに体重をかけ、押し始めたのである。けれど、どれほどの作業をしながらでも、時間がないと分かってくれているからだろうか、初めて会うというのに、ミアの父親は決して、話すこともやめようとはしなかった。
「そうです。必ず、ここの柱は少しの衝撃で崩れるでしょう。……私は決して、今でも、魔法や星詠みとやらを、心の底からは信じない。だけど、その星詠みを今回しているのが、ネロ様とカイネ様だ。老いを然程感じることなく寿命の長いあなた方にとって、十年や四年という歳月は、長くとも、私の感じる時間そのものよりも、きっと短い。私の寿命という人生の時間の感覚で例えるのなら、あなた方にとっての四年や十年という時間の捉え方は、私にとっての数か月程度のものらしい。だからどうか、あなた方にとっての十年という時間の感覚を、十倍にして想像してみてください。それが、私の生きた時間です」
「っつ……」
当たり前のことであるのに、こうして言われるまで、それに気づけないのだ。本当の意味で、それぞれに流れる時間の違いを理解することは難しいのかもしれない。それでも、彼の例えはとても分かりやすかった。彼の生きる時間の感覚に置き換えたそのトキ、それほどの期間を、私は自分の大切な人と引き離されて、耐えることができるとは到底、思えなかったから。
「やはりあなたは強い人だ。この世界で弱い者の象徴ともされる、人間である私の言葉や意見にも、大きな力や姫という立場がありながら、何の疑いもなく、耳を傾けることができるのだから。私の生きた……このとても長い十年という時間で得たのが、妻とミアです。家族で過ごした掛け替えのない時間を、生きる場所を、尊びその先に続く未来を守ってくれたのは紛れもなく、ネロ様とカイネ様だ。私は星詠みは信じないが……あなたたちの言葉なら、それは信じることができる。そして、もし、私が神隠しにあったそれを運命だというのなら、きっと、今日のためにあったのでしょう。……地上世界にも運命という言葉が、あなた方の言葉と意味を同じくして、ありますからね」
「運命……」
「はい。魔法も星詠みもできなければ信じない私が唯一家族以外で信じるのが、カイネ様とネロ様だ。そして、星詠みなどかけ離れたところにいるというのに、あなたの視た未来というのを、私が一番に今、疑うことなく、理解できるのです。この神殿を建てた……建築家であるが故に」
すると、勢いよく神殿の扉が開き、ミアが大きな袋をいくつも抱えて、戻ってきたのだ。彼女自身の足音と共に、微かな翼が揺れる音と、遠くまで響きそうなくらいに、カチンと金属が大きくぶつかりあう音を引き連れながら。
「お父さん! 隠してた工具、全部持ってきたよ!」
それをみて、ミアの父親は、それは嬉しそうに微笑んだのだ。けれどその笑みはもう、お日様のような温かなものではなく、まさに職人がみせる情熱的なもの。目の奥に、既に強い意志が宿っている。
「ありがとう、ミア。……カイネ様、実はもし今日、増設工事が中断されなかったら、夜中に私の建築家としての独断で、崩壊する前に壊してしまおうと、決めていたんです。だからミアに頼んで少しずつ、神殿の至るところに、私の工具を忍ばせておいたのです。……とても一度では、周りにバレないように運ぶことなどできないですからね。……そして、このタイミングでカイネ様とお会いすることができた。これを運命と言わずに何といいましょうか」
しっかりと、私の目をみて運命だと言ってくれるその建築家は、本当に素晴らしい腕と、誇りと、魂を持っている。種族も、世界を跨いでも、その建築家としての在り方は、何一つ揺るがないものなのだから。
「運命だわ。星が、私に与えてくれた、明日という時間を守るための、運命だわ」
ニッと右頬だけをあげて彼は微笑んだ。そして、ミアに渡された袋を手早く広げていき、特に大きなノミと金槌を選び、その手に握る。
「……私は弱いからこそ、同じく弱い者の心を代弁できる。彼らは怖いのですよ。だから、目に見える逃げる理由を作ってやる必要があるんです。あなたは、正しく清らかすぎるのです。……トキに嘘を交え、必要なトキは真実をあえて伏せて、言葉をあなたが操ればいいのです。……工事が中断された今、私は怖くて、とても一人でこの神殿を壊す勇気はありません。だからどうか、あなたが命じてください」
途端に、強い風が吹き、ミアの羽の一枚がふわりと宙に舞っていった。
ああ、この日常を、どうか明日へと繋げることができるように。
私は祈るように、誓うように目を瞑り、大きく息を吸い込む。空気と共に私の身体に入り込むのは潮の匂いと、ミアから漂う森の木々の薫。太陽の光を一心に浴びながら、魔力と呼吸を整える。
「時間と次元は、決して操れるものではないの。繋がる座標を見つけて、ただただ逆らわずに、繋ぐの。私は時計盤に選ばれし者。次元を繋ぐことができる。……そして、繋ぐのではなく、もし私の意思で介入できることがあるとするならば、それはトキの記憶として、繋いだ座標で生まれし特別な運命の分岐点を、刻むこと」
「……? カイネ様?」
訳の分からないことを言い始めた私を、ミアが不思議そうにみつめている。それがまた愛しく、そして可笑しく、救いでもあった。彼女は到底、信じられないような、訳の分からないことでさえ、拒むのではなく不思議そうに純粋にまずは尋ねてくれるのだから。
「ミアのお父様……どうか、名をお教えください」
「ゲンヤ。ゲンヤ・ワタナベと申します」
ミアの方をみて、彼女の父からして十年という歳月が数か月のような感覚である私の長い生涯の中で、一度であっても発動させるかどうかわからなかった特殊な魔法陣を、この地に、宇宙というトキのひとつに、刻み込む。
「時間と次元を繋ぎし特別な座標において、全宇宙に関わりし運命の分岐点みつけん。これよりアカシックレコードに特別な記録を刻まん。我が名はカイネ……ロ……グ……ジャー……と……の……にん……なり」
詠唱の途中から、確かに声を放っているのに、それらは即座に魔法陣へと吸収され、この地に音としてそれを残させはしなかった。周りは高速の光に包まれ、宇宙のトキが、それを受け入れたのだと理解する。
全宇宙の発展の中で、特別な運命の出来事というものが生まれしトキ、それはどの時間にも影響されないアヴァロンの宇宙図書館へと、アカシックレコードとして勝手に刻まれていく。けれど、こうして時間と次元を繋いだ特別なトキのなかでしか生まれない、特定の選択肢に辿り着きしトキにのみ発生する運命の分岐点を、羅針盤と時計盤に選ばれし者は、時間と次元、過去、現在、未来。どれだけの時間と空間が戻り、過ぎ去ろうとも、褪せない記憶としてアカシックレコードに特別に刻むことができるのだ。
「これ……は……」
未知のものに遭遇すると、誰であっても恐怖を抱き、慄く。けれど、宇宙とは不思議なもので、特別なトキの中の特別な空間というのは、なぜか心を落ち着かせるのだ。言葉では説明のつかない、とても温かで、美しい高速の光を放ちながら。
「これから命ずることを、アカシックレコードに刻みます。……ゲンヤの生きていた地上世界では、アカシックレコードという言葉は存在していましたか?」
場を和ませようと、少しばかり、冗談を交えてみる。すると、今はとても特別なことをしているというのに、不思議といつも通りの私でいるような気になり、ふっと笑みが漏れた。
ゲンヤはその円らな瞳をパチクリとさせながら、それでも、その目には建築家としてのそれを宿したまま、程なくして笑い返してみせたのだ。
「……地上世界の素晴らしい建築物は、どうにも神や天使をテーマにするものが多い。だからこそ、その言葉も聞いたことはありますよ。神話や絵画、小説に登場するものとして」
「そう、地上世界の本ってとっても面白そうね。さあ、アカシックレコードに次元側から記録を刻むには、アヴァロンの承認者がいないと。……ミア、あなたにその役目をお願いするわ。魔法陣が発動したということは、そういうこと。あなたたち家族は、アヴァロンからのサンムーンの移住者として、ネロが手続きしてる」
「……カイネ様、私よく分からないけれど、この光、すごく綺麗」
私は改まって、ゲンヤへと向き直る。そして、声色を姫であるときのそれにして、一言一句、決して記録から漏れがないよう、丁寧に口を動かして、言葉を紡いでいく。
「四大国会議での緊急時にのみ与えられし、ムーの特別王命を下す。我、カイネの名においてムーの王に代わり、汝、ゲンヤ・ワタナベに建築技術に則った神殿の正式な解体を命じん」
「……謹んで、お受けします」
途端に高速の光は渦を巻き、その光の表面が浮かび上がってひとつの高速の光の球を作り出す。そして、その渦の中には、確かに神殿の例の柱の前で、先ほどの会話そのものを繰り広げる自分たちが、映し出されているのだ。私たちにはそれは光の中での出来事のように感じられるのに、ちゃんと、神殿の柱の前で起こった出来事として、刻まれているのである。
「このアカシックレコードに刻みしトキの運命の分岐点に携わりし者を傷つけることは、時計盤に誓って、許さん」
特別なトキの記憶を記録した球体は、私の言葉に呼応するように、その光をさらに強めて、自分たちの周りを一度ほど、回った。
例えば、姫であるからこそ特別なものを特別だと叫び、力と立場があるからこそ大切なものを守れるのだとしたら、私は運命の分岐点に託すことができる。今、この魔法陣を発動できたのは、ムーに転送したトキの魔力を、みんなが私へと送ってくれたから。王が私を信じ、代理で発動できる特別王命の権利を与えてくれていたから。辛くともちゃんと、会議を続けていたから。離れて過ごしている間もミアたちが自分たちの意思で、これほどに動いてくれていたから。ネロがみんなに伝達し、避難誘導を開始してくれていたから。
全てが、全てが繋がって生まれた運命の分岐点なのだ。だからこそ、ここに携わった者を、絶対に傷つけさせはしない。
「……さあ、ミア、こちらへ」
「は、はい」
光の中を歩くというのは、平衡感覚がなくなり、まともに動けはしない。それでも歩けるのは、目に見える光景が高速の光の中であるのに対し、身体で感じる現実ではちゃんと、神殿の連絡通路を歩いているからだ。目をきょろきょろと動かし、どこか落ち着かない様子のミアと目が合う。すると、ミアは頬を赤らめて、「綺麗」と小さく呟いた。
「カイネ様の瞳……虹色」
「この特別なアカシックレコードのパスコードはね、…………よ」
「っつ、はい」
そっと、ミアに耳打ちした後、その額に祝福を与えたトキと同じように私はキスを落とす。すると瞬く間に高速の光は消え去り、いつの間にか雲がかった太陽の柔い光と、僅かばかり荒さを強めた海の音と、風が頬を撫でる感触が自分たちを包んでいた。
「時間がないっ! ゲンヤ、はじめて!」
私の声がすると同時に、既にゲンヤが打ち始めていたノミが、勢いよく神殿の柱とぶつかりあう音がサンムーンに響き渡った。
一分一秒のトキが、運命を交差させていく――……。
※毎週土曜日、朝10時更新予定🐚🌼🤖