earth to earth~古の魔法使いepisode6~
「うっ……」
アンジェリシカが身体の向きを右へ変えると共に、半ば呻き声にも近い、寝言にもならない小さな声が漏れる。きっと、アンジェリシカが自覚している以上に耐えている身体からの無意識の悲鳴に違いない。
その身体からのSOSともいえる自身の声によって、アンジェリシカの意識は夢の中の真っ白な無の世界から残酷な現実の真っ黒の世界へと呼び戻されようとしていた。
ああ、目覚めたくない。
暗闇の現実の中の光となるキースと、今日だって会える訳ではないのだ。夢を見るときのように目を瞑り、思い出を呼び起こさなければ、アンジェリシカは愛しい弟の姿を見ることは叶わない。
何のために目覚め、何の為に祈るのか。命を削り、浴びられないはずの太陽の光を浴びてまで捧げる祈りは何か。この一日の目覚めの行く先には何が待ち受ける?
心と矛盾する行動をするためにはどうしても、矛盾を越える理由が必要であった。けれども、その理由を作るよりも先に、それらを言い聞かすよりも先に、アンジェリシカの瞼にテントの向こうで顔を覗かせはじめた太陽の光が差し掛かる。
途端に、全身が痛みを思い出し、身体がずっしりと重たくなっていく。血が巡るのと同じように広がるのもまた鈍い痛みで、きっとこれらの重みと痛みが当たり前になってしまったのだろう。慢性的なそれを受け入れざるを得ない状況下で、拒む心がそれらに負けたとき、アンジェリシカの身体に稲妻のように何かが走り、痛みが意識を完全に呼び起こす。
すると、心よりも先に身体が生きようとするのだ。心臓の鼓動がアンジェリシカの耳に内側から響くと共に、緩くもそれが動くのが感じられ、今度は肺が眠っているときよりも勢いよく息を吸い込もうとする。入り込む息に合わせて胸を膨らませては、必死にそれらを鼻からゆっくりと吐き出す。けれど徐々に喉が渇きで覆いつくされ、酸素以上に潤いを欲するあまりに呼吸が滞る。次に喉が勝手に強く揺さぶられたかと思うとその振動は胸へと伝染し、アンジェリシカは酷く咳き込んだ。
乾いた、けれども激し咳は、誰のいないテント中にかなりの時間、その音を響かせた。
ヒューと鳴るように音が変化してようやく、激しい咳き込みは落ち着きだす。アンジェリシカは再び身体を仰向きに戻し、ぜぇぜぇという喉と肺の震えを受け入れ、咳き込みすぎて肋骨に感じるその痛みを和らげようと、腹を撫でた。
開いた瞼の先に移るのは白いテントの天井で、その先に広がる空はもう、真っ暗闇ではなく青に変わる頃合いだろう。むしろ、完全に日の出を迎えたに違いない。
昨夜の感覚でいうならば、もっと日の出の時間は先で、ゆっくりと眠れると思っていたのだけれど。
早く起きなければまた族長に嫌味を言われ、周りの冷ややかな視線がさらに陰湿になってしまう。
アンジェリシカは起き上がろうと腹筋に力を入れ、肩を数センチほど浮かすも、腹に更なる痛みを残すだけで、無常にも身体は再びベッドへと沈んでいった。
焦りや鬱々とした感情の矛先となる対象への言葉や表情は、決して綺麗でも優しくもない。それらを対象へと投げつける前に意図的に自身の中で一旦受け入れて、何か別の想いに変えない限り。
繰り返される鬱々とした日々から塵積もった焦りや不安の産物を、アンジェリシカはたったひとり、このボロボロの身体で受けねばならない。
それらに耐えようとする心よりも、体力の方が限界を迎えようとしていた。
アンジェリシカは毎晩、プツンと糸が切れるように眠り、真っ白な無の世界へと誘われる。その間は身体の中に抑え込む心身の痛みも、怒りも、叫びも、全てを忘れることができる。眠りの時間はある意味、祈りの先にある救いの時間でもあった。
けれど目覚めるとなると、あまりにも目覚めるには残酷な環境と状況しか待ち受けていないから、心が毎朝、目覚めるための理由を探すのに必死なのだ。
それなのに身体が生きる理由を見つけるよりも先に生きようと、皮肉にも痛みで意識を呼びこして生命活動を開始するのである。
そこから広がるのもまた痛みで、生きようと息を強く吸い込めば吸い込むほど咳き込み、痛みは増すばかりであった。
そうして目覚めて、心よりも先に思考が、必死に生きる理由を脳へと告げるのである。
運よくキースに会える日のために、言いつけを守るのだと。
祈りの時間を全て、キースの幸せを祈るために使うのだと。
それから……
途端に、先日聞こえたような気がした姿の見えない誰かの、彼の、『嫌だ』という声が鮮明に蘇った。
アンジェリシカはすうっと息を緩やかに吸い込み、無意識に続く咳によるものではなく、自らの意志で、その喉を震わす。
「……そう、嫌なの。この毎日が……嫌なの」
彼の声が、思考が身体を支配するよりも前に、アンジェリシカの全身へと巡ったような気がした。
気が付けば、強く装わなければならない朝だというのに、アンジェリシカの頬には涙が伝っていた。
溢れると、それは止まることなく零れ続け、いつしかアンジェリシカは声をあげて泣いていたのだ。
泣くたびに腹筋に力が入り、痛いというのにこの痛みは、全てをアンジェリシカに受け入れさせた。
痛いけれど心地のよい痛みで、それはアンジェリシカが心から泣きたいと思って、身体がその心からの指示通りに涙を零そうと発生させる痛みであると分かったからだ。
そして、ずっと孤独だと思っていたこの一人きりの夜と目覚めの環境下を初めて、今のこの状況と環境を生きる自分だからこそ得た時間だと、強がる訳でもなく、自然と思えたのである。
ひとりだからこそ、孤独だからこそ、もう大人と言われる年齢であるというのに、声をあげて子どものように、今、まさに、泣けているのだ。
一人の女性というよりは、まるで少女の泣き声は。どこかの少女ではなくサンムーンに住まうアンジェリシカという名の女性の泣き声は。彼女しかいないテントの、皆が出払った彼女しかいない一族の村中に響き渡った。
「ふふっ、はは」
けれど、泣き声はいつしか、笑い声に変わっていった。
アンジェリシカは涙を零しながら、心のままに、大きな声で叫ぶ。
「嫌だ!」
たった一言。顔も知らない優しい視線の持ち主の、その声を真似て、誰もいないからこそ叫べる孤独の中で、叫んだのだ。
すると、身体中にある重みも痛みも変わりなどしないのに、いつもよりも楽に、身体を起こすことができたのである。
起きようとしてから数十分はベッドに横たわったままなのが常であるのに、自然と軽い足取りでテーブルへと向かっていた。
昨夜の分と合わせてキースが用意してくれていた、今朝の分のハーブティで喉を潤す。それらは既に熱くなりつつある体温を冷まし、涙で落ち切らなかった最後の迷いさえも、綺麗に流してくれるかのようであった。
アンジェリシアは涙の跡が残る頬を、その手で勢いよく拭った。すると、星を詠んだ訳ではないのに、一度ほど聞こえた星の囁きが、アンジェリシカの心の内から、聞こえてきたのだ。
『恐れないで。今日から自分のために、昼を生きるの。今日、彼はきっと深く眠るわ。あなたの大切な迷い人がくる。行くのよ』
アンジェリシカは驚いて振り返るも、当たり前にそこには誰もおらず、そのまま空を見上げるも、そこに広がるのもまた、テントの白い布のそれだけだった。
「迷い人……」
その言葉を口にすると、これまでの背後に感じた温かな視線や昨日のあの声が、すとんとアンジェリシカの身体に溶け込むように落ちて、淡い想いを、強い決意へと変えていく。
どれほど耳を澄ませても、問うても、もう星の囁きは聞き取れなかった。けれど不思議とアンジェリシカは冷静で、いつも通りの仕度をテキパキとこなしていった。ただいつもと違うのは、今日は昼を生きる準備も怠らないこと。朝食はメニューこそ変わらないものの、乾パンを多めに頬張った。久しぶりに使った魔法で、キースの特製ハーブティは凍らせて、昼用に水筒へと入れた。
「さあ、自分のためにいきましょう」
最後に手にとるのは、祈るときに着用を禁じられている、日よけの黒いローブ。
アンジェリシカはそれを深く被り、テントの外へと、堂々と出る。
すっかりと日が出ており、外はとても明るかった。
すると、ちょうど星詠みから帰ってきたらしい一族の者たちが、村の入り口に群がっていた。予定よりも早かった日の出に慌てるかのように、族長が声を荒げ、急ぎテントへと戻るように指示を出している。
それらを気にすることなく、アンジェリシカは一目散に、大切な愛しい弟の元へと駆けていく。
「キース!」
「な、お前っ! 早く祈りに行かないかっ! それにローブは……!」
すれ違いざまにアンジェリシカに気づいた族長が彼女の動きを制そうと叫ぶも、それらを無視し、アンジェリシカはキースへと勢いよく抱き着く。
「え、姉さん?!」
日の光でほんのりと温かくなったキースのローブから、お日様の匂いが漂う。その薫から初めて、アンジェリシカは太陽の熱さではなく温もりを知った気がした。
アンジェリシカは抱きしめる腕の力を緩め、戸惑う弟から離れると、そのダークブラウンの瞳をじっと見つめて、微笑みながら言う。
「おはよう」
決めたわ、キース。今日からあなたの幸せをただ祈るために生きるんじゃなくって、守るために生きるわ。