オリジナル小説

その扉の向こう側に~episode1~世界の子どもシリーズ―未来編―

2021年6月26日

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 その扉の向こう側に

 2XXX年――……。
 突如、月が消えた。

 太陽の光の届かないこの世界で、月の存在は絶大だった。
 全ての動力は月光が源となっており、昼を生きる時でさえ、夜に蓄積された月光エネルギーによる人工太陽によって支えられていた。

 それらを失った今、この世界は闇に覆われてしまった。

 朝も、昼も、夜も。いつ何時も、私たちは暗闇の中にいる。
 太陽に見放され、さらには月を失ってしまったのだから。

 この私たちの世界を覆う闇は、月の光以外にもたくさんものを飲み滅ぼしていった。
 個人間で言い争いが増え、それが次に殴り合いへと変わり、国中を巻き込んだ本格的な争いへと発展していった。
 火を奪い合い、食料を奪い合い、命を奪い合い。多くの血と涙が流れた。
 この世界は絶望に包まれ、町は跡形もなく壊され、ただの荒れ果てた地が残った。

 

『おい、あれをみろっ』

 そんな時、海から突如、いくつかの巨大な巨石が流れ着いたのだ。それらは淡く、青く、ほんのりと光り、私たちの世界と心に僅かながらも灯を与えてくれた。

『月投石と名付けよう』

 この月投石の存在により、私たちの生活はまた、それらしいものへとなりつつあった。たくさんの命と文明が失われ、依然、闇に覆われているものの、淡いながらも安定的な灯を得たのだから。海際を中心に、流れ着いた巨大な月投石を設置し、それらを拠点として自然といくつかの集落ができていった。月がある頃に比べると暮らしは随分と質素にはなったが、日々の衣食住をする分には、困らないようになり、このまま平穏な日々が戻るものだと誰もが信じて疑わなかった。

『う、うわぁあ。や、やめろー!』

 けれども、そのささやかな平穏さえも、長くは続かなかった。
 突如、村人が村人を襲うようになったのだ。

 その襲い方は尋常ではなく、それがその者の大切な人であっても、大人、子ども、動植物関係なく、攻撃し、暴れ回るのである。まるで気が狂ったかのように、気絶するまでその破壊行動が続く。
 さらに厄介なのは、気絶したその者が目を覚ましたその時、また正気に戻るということである。正気に戻ると、必ずと言っていいほど、皆、自責の念に駆られ、自分が大切な者を傷つけてしまったことに、生きる気力を失う者までいた。
 そして、一度正気に戻ったからといって、そのままその状態を保てるかというと、そういう訳でもなかった。ある者は正気を保てても、ある者は再び狂暴化してしまう。
 正気に戻る場合もあれば、不特定多数の者が突如陥る症状のため、罰することもできず、この謎の現象に皆が困り果てていた。

『月投石だ……』

 ある者が言った。その症状は月投石から離れた時間が長ければ長い程、かかりやすいと。

 それを元に検証したところ、月投石から24時間以上離れると、狂暴化してしまうことが判明した。さらに悪いことに、年配になればなるほど、月投石から離れ狂暴化するまでに要する時間が24時間よりも短くなっていくということが分かったのだ。個人によりある程度の差はあるが、大人になればなるほど、月投石からあまり離れられない、ということが共通の認識となっていった。

『これより、この狂暴化を月損病と呼び、新たな決まりをつくる』

 狩りや隣の集落へ行く際は、月投石の欠片をもっていくこと。
 月損病を発症したものは気絶させて正気を確認するまで月投石へと縛りつけること。
 村を出るのは、下は成人済み、上は年齢30歳以内のものに限る。
 いつ発症するか分からないため、必ず、子ども一人につき大人二人以上がつくこと。

 それ以外にも、月投石から離れてもよい時間が年齢ごとに事細かに決められていった。

 

✵✵✵✵✵

 

「ミーナ、隣の集落へと行ったきり2人程、帰ってきていない。もうすぐ24時間が過ぎる」
「わかった」

 そう声を掛けられ、ミーナは急ぎ身支度をする。闇夜の中でも目立つようにと配給された白のスーツに身を包む。そのスーツの胸元や側面が月投石と同じように淡く青色にほんのりと浮き上がるように光る。月投石の粉を元に染色が施されているのだ。
 近年、このように月投石を砕き、それを様々なものに使うようになってきている。少しでも月損病の発症を防ぐために。
 けれども、どれほど工夫しようと、細かく年齢制限を設けようとも、月損病にかかる人数は膨れ上がり、月投石から離れてから発病するまでのタイムリミットは短くなる一方だった。

 月投石の必要量は増すばかりなのに、外へと出られる者は減り続けていく。
 まだ誰もこの月投石と月損病の謎を解明できたものはいない。そもそも月が消えたこと自体の真相に辿り着けた者さえ一人もいなかった。

「また、月がみたい。……できることなら、太陽も。人工ではなく、本物の」

 ミーナは着替え終わり、暗い部屋の中でボソリと呟いた。なるべく目立つように、壁も家具もどこもかしこも、白を基調に作られている。ミーナだからそうしているという訳ではなく、誰の家を訪れたって同じようなものだ。代わり映えのない風景はぼんやりと白っぽいものが暗闇の中に映る程度。スーツに施された月投石の染色と首から下げている月投石の欠片のネックレスが淡く、彼女の周りだけをほんのりと照らす。

 ミーナの物心がつくかつかないかの頃に、月は消えた。突然訪れた闇の世界。繰り返される争いの日々。それらを乗り越え、ようやく平和に暮らせるのかと思った頃に起こったのが月損病だ。

 仕事道具の入ったウエストポーチを身に付けると、そっと外に出た。テントの前で立ち止まり、空を見上げる。けれど景色なんて視界に微かでも映るものではなく、ミーナは瞳を閉じる。目をあけても、瞑っていても、ただただ暗闇しか見えないのならいっそ、目を瞑った方が景色を感じられるのだ。

 子どもの頃の微かな記憶。鼻につく、木を燃やすときに生じる特有の香り。頬にぶつかる風は生暖かく、雨上がりだからか湿気が多め。遠くに聞こえる声はほぼ大人の小さな囁き声。けれど、さらによく耳を澄ませば、赤子の泣き声とまでいかずとも、寝付きが悪く、いつ泣くか分からない様子でぐずる声が混じる。

 暗闇ということを除けば、確かにミーナたちはひっそりとでも、生き続けている。

「昔は星だって見えたらしいのにね」

 子どもの頃の朧気なまだ明るかったころの景観と習った知識の記憶をまた心にしまい込み、ため息をつく。
 それを合図に目を開くと、やはり、この現実は夢なんかではなく、月損石や松明の周り以外、空も含め闇が付きまとう。 
 昼であろうが、朝であろうが同じ調子なのだから、ずっと、曇り空の夜が昼夜問わず続いているかのようだ。きっと、曇りよりも実際には暗いのだと思う。ミーナが子どもの頃の記憶を呼び起こしても、もう闇夜の具合さえも分からなくなってしまっているのだから。

 ひとたび光を失うと、現実世界だけでなく、記憶の中であってもそれらの詳細がぶれ始めてしまうのだから、本当に堪らない。どれほど太陽や月は偉大で、ヒトは弱いのだろうか。

 目の前に広がる光景も、記憶の中の光景も、ミーナに光を恋い焦がれさせて仕方がなかった。

「太陽だって、本当にあるか知らないけどね」
「なんか言ったか?」

 突然の声にビクリと肩を震わせ、ミーナはそろりと振り返る。

「カント……。脅かさないでよ」
「ははは、悪い悪い。で、なんて?」
「別に何でもないわ。独り言よ」
「そうか? 本物の太陽がどうとか」

 そう言われ、ミーナは眉を吊り上げて、言う。

「聞こえてたんじゃない!!」
「ははは、悪い悪い。つい」

 声を上げて笑うカントの身体が揺れる。背が高く筋肉質なカントが横に立つと迫力がすごい。刈り上げられた彼の短い髪の色が、テントの横に設置された松明で照らされる。カントの髪はオレンジがかっているので、闇夜でも目立ち分かりやすい。それが、火に反射されると尚のこと、この闇夜に彩りを加えるようで、ミーナには少し羨ましく感じてしまうのだ。
 眺望と恥ずかしさから、ミーナはプイと顔を背けて、すたすたと月投石の方へと一人歩き出す。背後で、悪かった、俺も太陽が見たいよなんて笑う声がまだ聞こえてきたので、ミーナは無視し続けた。

 月さえも失い、子どもの頃の人工太陽をほんの少しみただけのミーナやカントの世代は本物の太陽なんて歴史上の伝説の代物に過ぎない。きっと、月が消えてから生まれた子どもたちなんて、月さえも伝説上のもののように感じられ、太陽なんて言葉自体も知らないかもしれない。

 月投石の前に辿りつくと、既に他の班員は集合していた。

「……これで全員揃ったか。今日の当番の中には最年少組もいるのか」

 村長の言葉に、ミーナとカントは無言で頷いた。

「では、これより調査に向かってくれ。人員は二名。年齢は28歳男性と26歳男性。隣の集落を出たという狼火が確認されてから、もうすぐで24時間経つ。どこかでケガをしたか、あるいは……月損病にかかり、彷徨っている恐れがある。無事、連れ戻してきてほしい」
「「はっ」」

 その場の全員で敬礼する。
 それに対し、村長が班員皆の顔を見渡して、静かに頷く。

「行って参ります」

 班長の声に合わせて、全員が敬礼をやめる。そして、入口へと順に向かい始めた。

「ミーナ、カント」

 それに続こうとしたその時、村長が二人を呼び止める。

「くれぐれも気をつけるように」
「はい」
「ご心配、ありがとうございます」

 カントが丁寧にお辞儀する。

「お前たちはまだ16歳。先日、成人したばかりだ。まだ子どもと言っても……」
「いえ。大丈夫です。成人してすぐの私たちが一番、月損病にかかりにくい。どうか、お任せください」

 村長の言葉を遮り、ミーナがきっぱりと答えた。けれども、村長は常に穏やかなその眉を僅かに下げ、どこか伏せがちな瞳で、続ける。

「子どもという表現はいささか失礼だったかもしれないな。そうではないのだ。若いものに無理をさせたいわけではない。お前たちにも……他の者にも」
「……はい」
「命の危機を感じれば、すぐに帰ってくるように」
「……ありがとうございます」

 ミーナとカントは再びお辞儀して、入口で待つ班員の元へと向かった。

 村ごとに幾望団きぼうだんという調査班が作られるようになったのは、ミーナたちが成人する数年程前のことである。そのあたりから、圧倒的に月損病にかかる者が増え、それに伴う月投石の使用量も増加し、月投石の量が不足し始めたのだ。もともと、月投石自体の光も日に日に弱くなりつつあった。さらにそれらを砕いて欠片を全員に配り、染料などにも使い始めたものだから、月投石は減りゆくばかり。
 それらを打開するために、成人済みの訓練された若い層を調査に出し、海際で月投石の欠片を探しに行くのである。その他にも時間があれば月投石や月損病の原因の調査も行っている。
 昨今はこういった調査以外にも、集落間での移動や狩りに赴いた際の行方不明者を見つけ出し、保護するという任務も含まれるようになった。

 ミーナはこの幾望団が結成されたその時から、ここに入ることを夢みて訓練を続けてきた。まだルーキーながらも、それなりの実績を積めていると自負している。
 もちろん、若いからこそ、月損病にかかりにくいという奢りもあるのだろう。
 ただ、そんなミーナを村長は心配してくれている。調査が入れば、すぐに志願するからだ。
 まだ特段大きなケガもしたことがなく、月投石の欠片の回収率がよいことや、行方不明者の保護も失敗したことがないから調子に乗っている部分もあるのだろう。ミーナ自身もそれを何となくは自覚はしている。それでも、ミーナは機会さえあれば、一回でも多く、外に出たくて仕方がなかった。どうしても、もう一度、光を浴びたいと願ってしまうのだ。調査を続ければ、いつかまた、明るい世界で生きることが出来るかもしれない。そんな、子どもみたいな夢を捨てられずに。

「今日だって、絶対に失敗しない」

 独り言のつもりでそう呟いたのを、またもカントは聞き逃してはくれなかった。

「頼むから無理するなよ」

 これだけ暗いとどれだけ近くにいても表情は分かりにくいことが多い。それが何年も続いたからだろう。自然と、小さな声色の違いに敏感に反応するようになった。

 流石に今度は、冗談ではないと判断し、ミーナは言う。

「無理しない。約束する」

 ミーナたちが追いつくと同時に、班長が狼火をあげる。それを合図に全員が駆けだした。

「12時間以内の保護及び帰還を目指す。見つけたものは発見用の狼火をあげるように」
「「はっ」」

 この暗闇の世界では、時間が分かるのは各村で管理している巨大砂時計だけだ。狩りや幾望団の調査があるときは、出発の合図に合わせて、6時間に一度、村から狼火があげられる。
 暗闇の中を進むのにこの狼火は有難く、時間という概念でいうならば、それだけが頼みの綱でもあった。
 けれど、そもそも狼火自体が貴重なのは言うまでもない。今回の捜査は状況的に恐らくは体力よりも時間との勝負。
 何とか狼煙を無駄に消費せずに、対象者を連れて帰りたいとミーナは考えていた。

 最後にもう一度ほど、背後で小さくなりつつある狼火をチラリと確認し、走ることに集中し始める。
 捜索活動はミーナとカントのペアを含む3ペアが東に、班長たちを含む2ペアが西に動くことで決まった。
 基本的に月損病の発症時のことを考え、班員は誰かとペアを組むようになっている。さらに暗闇の中で動くのは月損病だけでなく、常に危険がつきまとう。万が一のことに備えて、ペアを組んだあと、さらに複数組が一緒になり動くのが決まりだ。

 東と西で分かれてすぐに、ミーナたちは走るペースは揃えながらも左右に分かれての捜索を開始した。ミーナとカントは左側を。残りの2組が右側を見るといった形だ。
 乾いた土を軽快に一定のリズムで蹴りながら走り進んでいく。この辺りは不思議なことにまだ自然が残っている。道を挟む形で左右に木々が立ち並び、小さな森となっているのだ。これらが実りを残してくれているので、ミーナたちも動物たちも何とか生きていられるといっても過言ではない。

 暗闇の隙間から、森の奥向こう側まで視線をやる。特段、月投石の欠片や焚火の灯りは見当たらない。自分たちの音以外は特に拾えないまま数キロは進んだだろう。
 このまま道なりを真っすぐに進めは海岸へと辿り着く。見つからなければ海岸沿いを捜索した上で、狼火を確認後に森の中まで進むこととなる。
 森の中には猛獣なども生息しているため、闇雲に進むのは危険だ。しかも、森の中へと進む時は数少ない月投石の欠片を道標として木々に括り付けていかねばならない。出来ればここらで灯りか手がかりを見つけて、最短ルートで進みたいものだ。
 そんなことを考えていると、風向きが変わった。潮の匂いが鼻をくすぶる。思ったよりも早いペースで進んでいたらしく、海岸までもうすぐに迫っているようであった。

「ミーナ、一旦、海岸沿いへ行こう」
「分かった」

「こちらも分かった」
「了解だ」

 カントの声に反応して、全ペアの返答が響いた。さらに海岸へと向かって走り続ける。すぐさま闇夜の中の静寂な空間へと戻り、一定のリズムの人数分の足音だけが耳へと入ってくる。

 視界に入るのは、果てしなく続く闇。そこに自分を含む6人分の月投石の小さな淡い光が浮かび上がるだけ。誰の顔だって見えない。誰かが声を上げない限り、自分たちの存在を示すものは、この小さなペンダントの光と足音と。地面から感じる振動だけなのだ。

 ふと、ミーナは自分がちゃんと生きているのか不安になり、もう一度、首元の淡い光がちゃんと灯っているか、確認した。

 ああ、ちゃんと生きている。

 そっと、バレないように首だけを動かして、後ろのカントの光を確認する。

 ああ、相方もちゃんと生きている。

「どうした?」
「何が?」
「……いや? 振り向いたような気がして」
「気のせいよ。それよりも波の音が近づいてきた。気を引き締めて」
「ああ、分かってる。だから先頭を変われ」
「嫌よ」

 内心、後ろを振り返ったことがバレたのかと焦ったものの、そのままミーナは誤魔化しきった。自ら幾望団に入り、毎夜のごとく調査へと志願しているのに、闇に飲まれそうになったなんて、恥ずかしくて知られたくなかった。それに、何かと森へと入る時や海岸沿いへと進む時、カントはミーナを後ろへと下げたがる。確かに、体格的にも体力的にもカントの方が上だ。けれど、ミーナの方が耳がいい。入団した時の成績だって、ミーナの方がよかった。事あるごとに先頭を変われと言われるのが、何だか気に食わなかった。

「分かってないな」

 またも小さくカントがボヤいたが、ミーナは無視することにした。ここで喧嘩しても意味がない。今は調査に来ているのだ。小さく首を振り、意識を集中させる。視覚は左側森に、聴覚は波の音に。

 うん、波は比較的穏やか。

 まだ、海岸まではもう少し距離がありそうだ。砂浜に入れば感触で分かる。しばらくはこのままのスピードで進んでも問題ないだろう。
 森はもちろんのこと、暗闇の中で海辺に近づくのもまた危険過ぎるといっていい。波の位置を見誤ってはならない。潮の匂いや音で慎重に判断しながら、浅瀬だけを捜査するのが常だ。
 基本的に土砂降りや嵐といった海が荒れた後の海岸捜索で月投石の欠片が見つかることが多い。ちょうど、一昨日は雨だった。行方不明の二人も帰りに月投石を探しに行った可能性も捨てきれない。

「ん?」

 程なくして、駆け足の音が6人分から8人分に増えた。左斜め後ろから近づいてくるようである。その方角のさらに少し離れた所で別の土を踏む音も微かに聞こえてくる。

 ミーナは叫ぶ。

「近くにいる! 追われてる!」

 ミーナの声と同時に、一人の男が姿を現した。

「ああああああああ」
「っつ、月損病か」

 凄まじい勢いで追いついた大柄の男が、カントに飛びかかってきた。カントはそれをかわせばよいのにわざわざ受け止めて、進行方向とは逆側へと男を弾き飛ばす。前方にいるミーナを気遣ったに違いない。

「だから、大丈夫って言ってるじゃない!」

 ミーナは身体をターンさせ、弾き飛ばされた男の背後へと回る。その間、素早くバッグから新しい月投石のペンダントを取り出して振り回す。
 飛びかかってきた男は月投石を身に付けてはいない。何処かで落としたのがきっかけで、発病したのかもしれない。

「バカ、まだ気絶してない」
「だからよ。挟み撃ちで」
「くそっ」
「あ、ああああああああ」

 弾き飛ばされたことに怒ったのか、男がさらに声を荒げる。だが、ミーナにとってはその方がありがたい。

「そこ!」

 叫び声がした方向へとミーナは思いきり月投石を投げつける。

「ぐわあああ」

 見事にそれは男の背中に命中し、月投石の光が暗闇に紛れる大柄な男のシルエットをほんの少し照らす。けれど、それだけ分かれば十分だ。
 男が振り返り、ミーナが首から下げている月投石を頼りに、明らかにこちらに標準を変えた。ミーナは腰を低くし、身構える。けれども、男がこちらに向かって駆けだそうとしたその瞬間、カントの声が響く。

「相手は俺がする」
「ぐわっ」

 カントの拳がヒュっという音と共に、男の鳩尾へと食い込み、男は奇声をあげなくなった。

「すまない」

 調査中、カントがその言葉を口にするときは、相手が気絶した合図だ。ミーナは手早く月投石で染色されたロープを取り出し、カントが抱える男の手足を縛っていく。

「大丈夫だった?」
「ああ」

 そこに右側にいた班員が音を聞きつけてやってくる。

「あと一人いるはずなの。足音がさっきまでは聞こえてたんだけど……」

 ミーナがそう付けたそうとしたその時、左側で微かに光が動いた。月投石だ。
 耳を澄ますと、酷い息切れと、獣の足音が向こうの方で響いている。

「獣だ。追われてる」

 そう言うや否や、ミーナは森の方向へと駆け出した。

「ミーナ、止まれ!」
「カント、大丈夫よ。私たちが行くから。そのヒトをお願い」

 慌てて、班員の1ペアがミーナを追いかけてくる。

「ミーナ! 私たちも行く」
「こっち。獣はたぶん……」
「ワオーーーン」

 その遠吠えを聞いてブルリと震える。

「「「狼」」」

 ミーナの額を冷や汗が伝う。恐らく、この鳴き声は仲間を呼んでいる。

「これは急いだほうがいいな」
「ミーナ、方角は?」
「ん、このまま真っすぐ」

 方向は分かるものの、木々が邪魔をして思うようにスピードが出せない。おおよその木の位置は分かるものの、そこから伸びるトゲとなった木の枝は近づかなければ、なかなか見極められない。時折、よけ損ねたそれらがスーツを掠る。

「っち、走りながらの森は最悪だな」

 仲間の一人がそう言ったその時、すぐそばの木陰で叫び声がした。

「く、くるなー」

 そちらの方向を向くと、男の動きに合わせて月投石が揺れ、一瞬ではあったが、正面にいる狼の姿が照らされた。まさに狼が男に飛びかかろうとしている真っただ中であった。

「この距離じゃ間に合わん」
「私が行く」

 ミーナは男の首に下げた月投石の灯りを頼りに、一直線に走り出す。途中、木の枝が頬を掠め、鈍い痛みを走らすも、気に留めず、駆け続けた。手早く、バッグから小柄なナイフを取り出しながら。その柄の部分にはもちろん、砕いた月投石が染色されている。

「う、うわぁあああ」

 風は微かにしか吹いていない。この分ならばそこまで音は流れないだろう。安定的に揺れる木々の葉が擦れる音。男の叫び声と、背後の仲間の駆ける足音。今走り続ける自分の音。そこに紛れる、獣が地面をけり上げる微かな音。

「そこ!」

 ミーナは手早く一投目を投げ、すぐさまバッグに手を突っ込む。

「キャイン」

 呻く狼の鳴き声に合わせて若干の角度を変え、もう一投を念のために投げつける。
 ドサリという音と共に、シンとした静寂な世界が再び訪れる。

「た、助かったのか?」

 男の声がするのを確認し、ミーナはナイフの柄の部分についた月投石の光を頼りに狼を確認しに行く。もちろん、その手には三投目のナイフを握りしめて。

 けれども、近づいてもナイフの先にあるものは動く気配はなく、確認のため、ここでようやく携帯用の小ぶりな松明に火をつける。

「うん、狼の方は大丈夫」

 その狼の腹には一本のナイフが突き刺さていた。一投目の方か、二投目の方かは分からない。ただ、その狼は既にこと切れていることだけは間違いなかった。

「ごめんね。みんなで大切に戴くから」

 そう言いながら、ナイフを抜く。そして、すぐそばの木に刺さっていたナイフを抜こうとしたその時。

「あ、ああああああああああ!」

 先ほどまで腰を抜かしていたはずの男が、ミーナ目掛けて飛びかかってきたのだ。いつの間にか、男の首に掲げていた月投石は光を失っていた。

 月投石の欠片は、一定期間使用すると、光を閉ざしてしまう。さらに、身に付けてはいても、村にある巨石ほどの抑制効果は期待できない。ミーナたちが調査に出発してからの時間を足せば、男たちが村を出て、確実に24時間は過ぎている頃であろう。

「うっ」

 避けきれずに、ミーナは勢いよく後ろへと弾き飛ばされた。一本の木にぶつかり、激しく全身を強打する。

「ぐはっ」

 衝撃で、息が詰まりそうになるも、松明の炎から男がこちらに向かってきているのが視界に入ってきた。

「ミーナ!!」

 仲間の声に合わせて、間一髪でミーナは男の次の追撃を横に避けることで、かわす。

「あ、ああああああああ!」

 けれども、間合いを詰められすぎた。男がミーナの握る松明に手をかけ、軽い引っ張り合いとなる。男の向こう側で、仲間の月投石が近づいてくるのが確認できる。

 あと一歩だ。でも……。

「うっ」

 ミーナが必死で踏ん張るも、全身が押し出されていく。それに負けじと、松明を引っ張る手に力を籠める。あと、一歩で、仲間の一撃が……。

「ああああああああ!」

 素早さや、耳には自信がある。けれども、やはり、大の男との力比べはミーナには分が悪かった。

「きゃああ」

 ミーナは勢いよく弾き飛ばされた。それと同時に、男が仲間によって取り押さえられる。何とか、持ちこたえたか。そう思ったその時、グラリと身体が大きく背後へ傾いた。

「え?」
「ミーナ?」

 足元の土が、崩れ去っていく。

「ミーナ!!」

 何故か、空の方向に仲間の月投石の光が揺れているのが確認できた。
 自分の横で木が一緒に宙を浮いている。

 ああ。ピンチの時、ときが止まったように見えるというのは、こういうことか。

 冷静にそんなことを思いながらも、身体は恐怖をちゃんと感じているのだろう。気が付けばミーナは叫んでいた。

「きゃああああああああああああ」

 ミーナが弾き飛ばされたその先は、崖だった。
 真っ暗闇の中、投げ出されて初めてそのことに気が付いたのだ。

 

その扉の向こう側にepisode2

 

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