オリジナル小説

星のカケラ~episode2~アンナのカケラ

2021年9月17日

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アンナのカケラ

 

 先日買ったばかりのタイトなワンピースに身を包み、街を歩いていく。背筋を伸ばして、ヒールの音が程よく響くくらいに。
 もうすぐ、とあるファッションショーの募集がある。事務所から推薦はもらっている。忙しい日々の生活の中で、歩く時間というのは貴重だ。練習はどれだけしても足りないのだから。

 なるべく、歩くときはこうして美しさを意識する。姿勢はもちろん、魅せる歩き方。時折ポージングだって混ぜたいけれど、流石に街中では目立ってしまう。風が吹く、という瞬間に合わせて、髪がより風に靡きやすいよう、なるべく自然に見えるような形で髪を後ろへと払う。手を下ろす瞬間の指先にまで美を意識して。

 すると、目の前を塞ぐような形で一人の男が声をかけてくる。

「あの、もしよかったらこれからお茶でも……」
「ごめんなさい。今からバイトなんです」
「それって何時からですか? ほんの少し、あそこで5分だけでも」

 こうやって声をかけてもらうことは有難いことなのかもしれない。けれども、自分にとっては歩く練習の邪魔をされてしまい、バイトに遅れるかもしれないというリスクを背負わされていて。それで、そもそも男性には興味がないのだ。ただ、一人を除いて。

 だから、正直なところ、迷惑の一言に尽きる。苛立ちを隠し、無理やり笑顔を作って、声色を変えて向き直る。

「ですから……」
「あーんな!」

 苛立つ声を遮って、腕にぎゅっと抱き着いてきたのは、しほだ。

 その後ろで慌てて走ってくる、萌咲と先日紹介された瀬戸君の姿が見えた。

「いこ! バイト遅れちゃう!」
「そうね」

 しほが手を引っ張る。それに合わせて先ほどまでの苛立ちまでも引っこ抜かれたかのように力が抜け、しほの笑顔につられて杏奈も笑顔になっていく。

「はぁー。君なんなの? 俺、このキレイな人に話しかけてるんだけど」
「聞こえなかったの? バイトなの。綺麗な人しか見えないなんて、不自由な目ね」
「は?」

 杏奈は額に手を添えて、悩む。こうやってしほがよく守ってくれるのだが、なかなか引き下がらない男が多い。近くの国立大の男子の間で、モデルをしている女とお茶ができたら勝ち、みたいなある種の賭け事のような遊びが流行っているらしい。だからか、みんな何分何十分と執拗に声をかけてくるのだ。こちらの予定などお構いなしに。

 かといって、だらだらと受け流しながら話を聞いていて、バイト先までついてこられるのも困るのだ。時折執拗に後を付けられる時もあり、撒くまでなかなか家に帰れなかったりする。

 もういっそ、5分でもお茶をしてしまった方が早いのではないか。そう悩み始めた時に、しほが小さな声で言う。

「ダメ。諦めたらダメ。また彼氏さんに誤解されるよ」

 その声にはっとして、小さく頷く。

「ねぇ、5分でいいし、奢るよ?」
「無理って言ってるでしょ! どいてよ! 私たち、バイトなの!!!」
「だから、君に言ってないって……あれ、よく見たら君も美人ってわけじゃないけど、可愛い顔してるじゃん。もういっそ、君でもいいよ。君が来てくれるなら、ここを通してもいい」
「嫌よ!! ……待って、本当に通してくれるの?」

 しほが睨みながら、ニヤニヤしている相手の顔を見て、悩みだす。

 まずい、と思った。しほに5分で切り上げて逃げ切るスキルがあるとは思えない。何より、純粋なしほに自分のためにこんな男たちとお茶なんてさせたくない。

「ねぇ、俺たちの連れに、何か用?」

 このタイミングで瀬戸君と萌咲が追い付いてくれた。萌咲は後ろで息を切らしている。走ってきてくれて本当に有難い。さらに正直に言うと、ここで味方してくれる男性が間に入ってくれるのは心強い。

「なになに、君、女の子こんなに連れて、自分モテるとでもいいたいの?」

 そう言って、男はカフェの方に向けて合図を送る。すると、複数の男がゾロゾロとこちらへとやってきた。

 ああ、今日は何なの。本当にまずい。何度も断った記憶がある顔ぶれがズラリと並んでいる。グルになって待ち伏せしてたんだ。

 その中のリーダー格っぽい男が前に出ると、今まで絡んでいた男がスッと後ろに下がった。

「ふーん。それで? 俺たちも別に君じゃなくて、君の連れに用があるんだけど?」

 チラリと男が挑発するように萌咲の方をみて、瀬戸君が萌咲を後ろに庇う。しほが杏奈の前に出て、「私が」と言った瞬間に、通りがかりの男性が派手に大量のオレンジを転がした。

「おっとっと、ごめんね」
「店長……!」

 しほがその男性を見て、小さくそう呟いた。

「今のうちに」

 そう言われてしほが頷き、杏奈の手を引いて走り出す。

「ちょ、待て!」

 そう言って追いかけようとする男たちの足を瀬戸君がかけて、派手に一人が転んだ。それに連なって何人かが将棋倒しのように転んで、ぶふっと自分としほと、周りで心配そうに見ていた通行人たちも、みんな、吹き出してしまった。

 「てめぇ!」と真っ赤になって怒り狂った男たち数人に対して、「やばい」なんて言いながらもしっかりと萌咲の手を引いて、杏奈たちとは反対側へと向かって瀬戸君らも走り出した。

 ごめんね、二人とも気を付けて。

 そう思いながらしほと走るも、一人のあのリーダーっぽい男はしっかりと、こちらを追いかけてきたのだ。

 こっちはヒールにスカートで。ショウウィンドウのガラス越しに映る自分の姿が、何だかおかしく思えてくる。

 しほはスニーカーにポロシャツワンピで、丈も膝くらい。一方の自分のタイトなミニスカート。ばっちりと決めた爽やかな青にサイドに白のラインが入ったもの。それに合わせた白いピンヒールのサンダル。

 全く走るのに向かない。これ以上走ると、スカートの裾がめくれてしまう。

「しほ、ごめっ、これ以上は……」
「え?」

 そう言って、しほが立ち止まる。

「ごめんね、ヒールだ! どうしよう? 足痛めてない??」
「うん、大丈夫。ちょっと、ここからは小走りで」

 そうしている間に、男は距離を詰めて、あとほんの数メートルというところまで迫ってきていた。見つけたとでも言うように、真剣な眼差しでこちらを見ている。

「し、しつこい!」

 しほが唸るようにそう言ったその時、杏奈たちと男の間に、一人の金髪の青年がすっと入り込んだ。

「よう」

 その青年は、腰に手を当て、堂々と突っ立って、男に向かって話しかけている。

「なんだ、お前か。今取り込み中なんだ」
「今度の試合の話だ」
「だから……」
「逃げるのか? 俺たちにとって、それ以上に大切な話はない筈だ
「……そうだな」

 そう言って、男と青年が話し始めた。ほんの一瞬だけ、青年が振り返る。金髪に日の光が差し込んで、眩く煌めく。長いまつ毛に、くっきりとした、透き通るような青い瞳。スッと程よく高い鼻筋。全てのパーツが抜群に左右に均衡がとられている。天使のような、綺麗な中性的な顔立ちをしているのに、気が強いのが丸わかりの吊り上がった眉が印象的な人。

 特に杏奈と目を合わすでもなく、まるでただ後ろを確認しただけです、というような素振りですぐさま前を向いて彼は会話を再開した。

「……レイン」
「今日、雨降るっけ?」
「あはは、降らないわ。それより、今のうちに行きましょ!」
「そうだね。よく分からないけど、追いかけてこなくなったし、ラッキー。私、バイト先まで送るよ!」
「ありがとう」

 二人でホッと笑い合い、足早にバイト先へと向かう。それと同時に、しほが鈍くてよかった、と心の中で安堵の息をつく。

 しほや萌咲には彼氏がいる、としか伝えていない。何となく、萌咲は気づいているのかもしれないけれど。

 杏奈の年下の、異国出身の彼氏。かなり背の高い自分よりも背が高くって。天使のような可愛らしい顔をしているくせに、運動神経がよくって、アメフトでエースなんて務めちゃって。それで全然、こっちのことなんて、気にしないの。

 あれは先日のこと。どうしても、男たちがしつこくて。バイトに間に合いそうになくなって、5分だけという約束で仕方なく、お茶をしたのだ。そこにレインがちょうど、通りかかった。

 目がしっかりと、合った。けれども、何を言うでもなく、彼はそのまま行ってしまった。

 自分が悪いはずなのに、そのことに勝手にショックを受けて、自分が悪いからこそ、そのことに深く反省した。

 味のしないコーヒーを飲み終えて、一切男たちとは会話せず、5分後きっかりに無理言ってマネージャーに迎えに来てもらってカフェを後にした。

 それで、バイトの後で連絡したら、一言。

『お前、何してるんだよ』

 ただ、それだけ返ってきた。何も、言い返せなかった。

 どうして、あの時、怒ってくれなかったの?
 どうして、あの時、連れ去ってくれなかったの?

 そう思うと同時に、こうも思う。

 どうして他の男性とお茶なんて、酷いことしてしまったのだろう。普段、忙しいと杏奈が会うのを断っているのに。
 どうして、連れ去ってなんて思ってしまうのだろう。日ごろから、周りの人には付き合っているのは内緒にして、と杏奈が言っているのに。

 杏奈からもごめん、とだけ返信して、それっきり。

 例えば、その事件が起こる前に約束した、来週のデートには来てくれるのかとか、そういうことを聞くこともしなかった。

 否、出来なかった。そして、向こうもその件に関して何も言わなかった。

 きっとこのまま、あえて連絡しないで、私は待ち合わせ場所に行くのだろう。来てくれるのかどうか、分からずに。
 そして、あえて連絡をしないことで、彼が来てくれなかった時にそれを言い訳にして、また彼を想い続けるのだろう。

 彼が来よう来まいが、杏奈は待たずにはいられない。

 杏奈だけの、内緒の彼氏。

 内緒なのは、彼が年下だから。彼が異国の人だから。彼がいつの日か、自分の国へと帰ってしまうのが分かっているから。

 レインはとても有名なアンティークショップの一人息子。それこそ王族や有名人ご用達の店の子息だ。自分たちで目利きして仕入れ、それをさらに求める人の元へと最短で裁いていく。
 いつの日か、レインは家業を継ぐのだろう。もう、彼は家の仕事の重要な役を担っている。それもあって、今、日本に留学しているのだ。色々、日本の伝統工芸の品物を見定めて、学んでいるのだとか。

 片や、自分はここで、日本で生きていくと決めている。父が運営している女子大。それをいつの日か、杏奈は引き継ぐのだ。

 それは父の意志ではなく、自分の意志で。
 そう決めている。

 だから、成績は常にトップでなければならない。女子の憧れの的でなければならない。大学のイベントは主に企画・リーダーを任されている。全てを、完璧にこなさなければならない。

 そんな中で、声をかけられたモデルのバイト。

 オシャレが大好きで、可愛いもの、綺麗なもので溢れる生活が好き。それに、歩くのも好き。まさに、ここに自分の求めているもの全てがあるような、そんな気がした。

 そして声をかけられたその足で、モデル体験としてイベントの小さなランウェイを歩かせてもらった。そのランウェイを歩いた瞬間、重圧ばかりの自分の世界から、何かが吹き飛んだかのように、周りがキラキラと輝いて見えたのだ。

 杏奈の在学期間は残り僅か。もし、父の後を継ぐのならば順を追ってにはなるけれど、日本に留まり、自分のことなど二の次で働きだすのだろう。

 ああ、今だけでもいいから、自分のためだけに歩く仕事をやってみたい。強く、そう思った。

 大学の友達と勉強している、と嘘をついて始めた自分の好きなものが詰まっているモデルのバイト。父は別に、自分の娘だからという理由だけで、女子大の運営を引き継がせたりはしない。しっかりと、実力や適性を見る人だ。だからこそ、約束したのだ。トップの成績をとってみせる、イベント運営だって力を抜かない、女の子の憧れの的になるような人物になってみせる、と。

 だから、恋愛なんてしている余裕はなかった。………なかったの。

 それなのに出会ってしまったのだ。レインと、一度ならず、二度も。

 一度目の出会いは、数年前。将来有望そうな男の子。そんな程度の印象だった。大学の式典で花を飾るのに必要な壺を、レインは彼の父親と共に売りに来たのだ。

 正直、ただの悪徳商売だと思った。けれども、それはまごうことなき一品もので、杏奈の亡き母の家紋の入る、素晴らしいアンティークの壺だった。花の意味と大学の校訓と合わせて、大学に飾るのに相応しいと思える由緒のある壺。それらを、彼の父親ではなく、レインが全て説明してみせたのだ。

 値段はそれなりにした。けれども、それでも飾りたいと思う一品で、さらには不当どころか、何とか購入できる価格にまで抑えてくれたのだ。

 その真意を尋ねると、彼の父が答えた。こういう特別な一品は、然るべき場所に飾られてこそ美しい、と。

 この壺はもともと、亡き母の家系で代々受け継がれ大事にされていたものなのだが、戦時中に泣く泣く手放さねばならず、行方知れずとなってしまっていたらしい。

 母もまた異国の人で、きっと自国が懐かしかったのだろう。子どもの頃に馴染み深かった、その壺の話をよくしていた。だから父はどうしてもそれを取り戻したかったようなのだ。生前、女子大の運営は実は母が行っていた。故に、その母の形見として、母の代わりにあの壺を、大学のホールに飾りたかったに違いない。

 杏奈自身も、もしその壺が本当にあるのなら、是非ホールに飾ってあげたかった。

 そして、その想いと願いは夢物語に終わることなく、レインと彼の父によって現実にすることができたのだ。

 父はレインたちにとても感謝した。そして、杏奈自身も、感謝はもちろん、レインの仕事ぶりに感心したのをよく覚えている。

 でも、ただそれだけだった。とても綺麗な顔をしていて、博識で、ほんの少しだけ素敵な男の子だとは思ったけれど。だけど、彼は杏奈よりも年下で、当時はまだ、高校生だったのだ。

 だから杏奈にとって、大切な壺を購入した出来事のひとつで終わったはずだった。そのはずだったのに、あの強い眼差しだけは忘れられなくて、いつの間にか脳裏に焼き付いてしまっていたらしいのだ。

 そんな彼と、もう一度再会したのが、大学三回の春頃。

 驚いたけれど、すぐにあの男の子だと分かった。向こうも覚えてくれていて、近くの国立大に留学している、と簡単な挨拶をしてその日は別れた。けれど、その後も顔を合わす度にお茶や食事に誘われて。忙しいとかわしていたのに、ある時彼が言った一言に杏奈は心を奪われてしまったのだ。

「美しいものを見抜くのが得意なんだ。だから、俺は諦めない。自分の目に自信があるから」という、その一言に。

 抵抗していた最後の恋心も奪われて、もう、彼から離れられなくなってしまった。きっと、その予感はあったのだ。だからこそ、あんなにも避けて、年下だと言い聞かせて、お茶も断っていたのかもしれない。

 女子大の運営。それを目指す自分は、女の子の憧れの的でありたい。女の子たちのリーダーとなって、極論を言うなら、その子たちを守っていきたいと、そう思っていた。

 だから、ずっと男性には興味がなかった。持とうとしなかった。ただ、一人を除いて。

 だけど時折、弱い自分が問うのだ。女子大の子たちを守る、それが目標。だけど、ああ、私自身は誰に守ってもらうの?

 そんな誰にもうち明けたことのない弱さを、あの射貫くような瞳で暴いて、レインは杏奈の心を見事に奪っていった。

 そしてあの自信満々の表情。絶対に杏奈がレインに惹かれていることを分かっていたに違いない。初めて出会ったあの時から。

 それらが悔しくもあり、嬉しくもあり。そして今もなお、杏奈はレインに心を奪われ続ける。彼に惹かれ続ける。

 目が合う度に。逢瀬を重ねる毎に。

 恋をしたら、弱くなってしまうような気がして、怖かった。どうしても、怖かった。それなのに、杏奈はレインに恋をしてしまったのだ。

「杏奈、大丈夫? 疲れちゃったよね?」

 しほが顔を覗きながら、尋ねてくれる。その声でようやく、ぼんやりとしてしまっていたことに気づく。

 ああ、やっぱり、恐れていたことがおこってしまった。やはり自分は、恋をして、弱くなってしまったようだ。友達と一緒にいる時に彼のことを考えてしまうなんて。

 きっと、心ここにあらずな状態になってしまったのは、彼が先ほど、目さえも合わせてくれなかったから。

 情けない自分の心を振り払うように、首を振って言う。

「大丈夫。それに、ごめんね? 送ってもらっちゃって。後、店長さん大丈夫かしら?」

 すると、しほが目を細めてとびきり可愛らしく笑う。しほの笑顔はまるで、花が咲くかのように明るく、周りを照らすのだ。

「大丈夫! 今日はね、ちょうどバイト先に遊びに行こうと思ってたの。店長きっとオレンジ買い直すだろうから、それ手伝おうかな!」
「悪いことをしたわ。私、オレンジの代金、払うわ」
「うーん、その時は私が払うわ。私、ちょうどオレンジケーキを焼きたいと思ってたの。あのオレンジ、商品にはできないけれど、私個人が使うにはちょうどいいでしょ?」
「でも……」
「だーいじょうぶだって。それに、もう時間が……!」
「あ、ほんとだわ。また連絡するわね!」
「うん」

 しほの笑顔に癒され、気持ちを切り替える。

 私は杏奈。私はモデル。

 

 一人の女であることを忘れて、誰かの彼女である自分を忘れて、表情を作る。ただただ一人のカメラの前に立つものとして。

 極限まで美しく見えるように。どこまでも可憐に映るように。それでいて、ほんのり可愛らしさも残るように。

「いいね! じゃあ今度はこっちの青いのに着替えてきて」
「はい」

 言われるがまま、ピンクのニットワンピから着替える。今度は白のセーターに青のショートパンツ。アクセントに柄物のマフラーを巻いて。

 角度を変えて、何枚も、何枚も写真を撮ってもらう。

「うん! いいよ。今日、ノッてるね! じゃあ次は赤のドレスで」
「はい」

 シルクの生地のドレスに身を包み、花に囲まれて寝転がる。バラに埋め尽くされて、その香りに酔うかのように甘美に微笑む。ワインレッドの口紅に、強めに引いたアイライナー。妖艶な笑みが、決してそうは見えないのはドレスの光沢と、デザインのおかげ。

 ドレスの型はアメリカンノースリーブと呼ばれるもので、背中はもちろん、首元までしっかりと覆いつくされている。さらに床に就くくらいに丈も長いので、足のつま先だって見えはしない。そして、同じ色合いで作られた二の腕まである手袋が、ノースリーブなのに肌を出させず、まるで自分が大切に守られている一凛の花であるかのように、錯覚させる。その華と化したドレスを纏う自分に降り注ぐライトの光が、シルクの光沢を上品に輝かすの。

 ああ。赤で、妖艶だけれども、上品で清らか。

 そのまま黄色い膝丈のフワリとしたデザインのドレスに黒いファーを纏ったり、シルバーのセクシーな太ももまでスリップの入ったドレスでターンしたり。何枚ものドレスを着て、ライトとシャッターを浴びて、撮影をこなしていく。

 正面、右。少し斜め下。流し目で左。次はどっち、今度はそっち。

 自分であるのに、まるで自分でないかのような感覚で、表情とポーズを作る。

 私が主役だけど、私が主役ではない。これは服が主役なの。それで、このショットに憧れてくれた子たちがいつか、この服を着て、誰かの為に綺麗になって、本当の主役になるの。

 ピンクに青に、赤に黄色。いいえ、シルバー。いいえ、黒。あれ?

「今日はこれで終わり! 杏奈ちゃん、お疲れ様」
「お疲れ様です」

 ふと、思う。私って、何色が好きだったっけ?

「わからないわ……」

 帰り道の独り言が、誰に届くでもなく自分の心に返ってきた。

 色どころではない。杏奈は自分自身に何度も問う。

 何が好き?

 モデルの仕事が好きなのか、母の残した女子大の運営に携わるのが好きなのか。

 友達との時間は好き。勉強も好き。
 なるべく、しほや萌咲と一緒にいたい。成績は落としたくない。

 モデルの仕事がしたい。今度のファッションショーに出たい。
 父を尊敬している。父は別の仕事もしているから、杏奈がいつの日か母の残した女子大を運営していきたい。

 あれ、好きなものが選べない。

 それじゃあ、誰が好き?

 家族。友達。それから……。

 そう思ってスマホを見ても、連絡なんてやっぱり来ていなくて。画面にポトリと一粒の涙が落ちる。

 ああ、彼は誰が好き? 

 昇華しきれない気持ちを抱えて、杏奈は忙しい日の朝を迎える。正直、気分が乗らない。そう思うけれど、今の自分にはやるべきことをやる以外に、道はないのだ。

 今日は午前中に夏季休暇中の希望者のみの特別授業を受けて、午後からはしほと萌咲とランチ。そしてそのまま明日の大学のイベントの準備に取り掛かる。それで、夜は少しモデルのバイト。

 杏奈はしほたちとの待ち合わせのレストランで、イベントの企画書を見ながら二人の到着を待つ。

 明日のイベントは教育学部が主催となって、姉妹幼稚園の生徒たちを招き、縁日をするのだ。必要なテントの設営はもう業者に依頼済み。残るは提灯の設置や各種看板の配置だろう。ヨーヨー掬いの水風船は当日の朝膨らますので問題なく、後は各屋台ごとの景品や材料・調理器具の確認となるだろう。

「そうね、今のところ、問題はないかしら」

 そう呟いたところに、スマホが鳴る。彼かもしれない、思わず手が震えるも、それはモデルの事務所からだった。

「はい。杏奈です」
『あ!! 杏奈ちゃん!! すごいわよ!! この間の撮影、表紙飾る女優さんが体調不良でね。よく撮れてるってことで、今日発売の雑誌、そのまま杏奈ちゃんが表紙になることになったのよ!』
「ほ、本当ですか!?」
『そうそう、そうなのよ~。それでね、例のファッションショー! その会社もスポンサーで、すごく杏奈ちゃんのこと気に入ったって!! 直接面接してくれるって!!』
「ファッションショーの? 嘘でしょ!?」

 本来、いくつかの審査を受ける必要があるのに、直接スポンサーが面接をしてくれるなんて。こんなチャンス二度とないだろう。夢にまでみた、あのランウェイを、今度は体験ではなく、自分自身の力で歩けるかもしれない。

『嘘じゃないわよ~! 面接もちろん行くわよね!?』
「もちろんです! 絶対にスケジュールあけます」

 きっと、何とかなるはず。

「それで、面接はいつですか?」
『そうよね。そうこなくっちゃ。それがね、急なんだけど明後日なの。いける??』
「明後日……」

 明後日は彼との約束の日。約一カ月ぶりの約束。それで、あれから返信はなくって。だけど、約束を断られた訳でも、なくって。思わず、杏奈は固まってしまう。

「杏奈ちゃん? 明後日だと、厳しいかしら? もともと仕事もオフだったし、予定入っちゃってる??」
「あ、いえ。行きます。行かせてください。予定は……調整します」
「そうよね。きっと丸一日かかっちゃうと思う、だけどこんなチャンスないから。杏奈ちゃん頑張ってたから、私まで嬉しいわ~。それじゃあ、また集合場所とかメールするわね」

 慌ただしくマネージャーが電話を切った。嬉しさと、焦りで頭がおかしくなりそう。

 憧れのランウェイに近づいた。けれど、彼との距離が遠のいたまま、約束までが無くなろうとしている。それも、自分のせいで。また、自分の身勝手で。

 震える手で、彼に電話をかける。ずっと避けていた彼への連絡。断られるのが、振られるのが怖くって、送れなかったメール。かけられなかった電話。待ってもこなかった、メール。恋焦がれても鳴らないコール。

 早く、出てほしいという思いと、どうか出ないでという思いが交差する。

 そして3コール目だろうか。そのコールの後に馴染み深い、ぶっきらぼうな声がスマホ越しに響く。

『何?』

 出て、くれた。

 嬉しさと、複雑さが入り混じる。緊張して、声が裏返りそうになる。それを必死に抑えて、杏奈は声を絞り出す。

「私だけど……」
『うん』
「あの、明後日の約束なんだけど」
『ああ、いつもの待ち合わせ場所でいい?』

 ギュッと心臓が締め付けられる。約束、来てくれる気だったんだ。

 よくよく考えたら、断られない限り、約束に来てくれることなんて当たり前のはずだった。彼は優しい人だから。

 だけど、どうしてもどうしても不安になってしまう自分がいて。
 彼が来てくれないかもしれない、というのを言い訳に、自分はモデルの仕事を入れてしまったのだ。彼に断りもなく。

 ああ、予定が入ったなんて、言いたくない。でも、それでも、言わなくちゃ。

 ヒュっとなりそうな喉に無理やり唾を飲み込んで、一気に言う。

「あの、そのことなんだけど。ごめんなさい、外せないモデルの仕事が入ってしまって……」
『……そう。なら仕方ないな』

 少し不機嫌にも聞こえる声色に、ぎゅっと目を瞑る。今度こそ、完全に嫌われてしまったかもしれない。どう、返そう。何も言えずにいると、さらに彼が続ける。

『それで? 代わりの日は?』
「えっと、また一カ月くらい、予定が埋まってて」
『そ。なら、今は? 今、電話する余裕あるんだろ?』
「えっと。今からランチで、その後、バイトが……」

 友達とランチして、大学のイベント準備をして、その後にバイト。彼よりも優先するものが多すぎて、全てを言う勇気がなかった。バイトがある、というのが精一杯だった。そして、沈黙の後に返ってきた言葉もたった一言。

『そ、分かった』

 そしてそのまま、ブツリと切られてしまった。

 ああ、もう終わった。むしろ、私が終わらせてしまった。

 とうとう、次の約束もできないまま、彼との連絡が途絶えてしまったのだ。きっともう、彼から連絡は来ない。そして、自分の身勝手が招いたことなので、もうこちらから連絡することもまた、到底できない。

 杏奈はぼんやりと、黒くなったスマホの画面に映る自分の姿を見つめる。

 先日購入したピンクのブラウスに、お気に入りの赤い珊瑚のネックレス。下は午後からのイベント設営に合わせて、動きやすいスウェットタイプの淡い水色のスキニーに、ちょっと遊び心を入れた黄色のスニーカー。

 どれだけオシャレをしても、彼がいなくては、楽しくないし、意味がないのだ。

 再び、ポトリと涙の粒がスマホに落ちる。

「杏奈?」
「大丈夫?」

 そこにタイミングよく現れたのはしほと萌咲。慌てて涙を拭って隠そうとするけれど、間に合わなくて、萌咲がハンカチを取り出し、しほが手を握って、心配してくれる。

「ごめんね。大丈夫。ちょっと、目に……ゴミ、が……」

 ああ、本当に目にゴミが入ってしまったのかもしれない。

 上手く笑えないし、自分の世界が濁って見える。好きな色が分からないどころではない、もう何色だって綺麗に見えない。好きなものが分からない。今抱えている全部が嫌になりそう。

「何があったの?」

 しほに聞かれて、全てを話す。彼とすれ違ってしまっていたこと、久しぶりの約束をモデルの仕事でキャンセルしてしまったこと、それなのに今から会えないか聞いてくれたのを断って、怒らせたこと。

「もう私とは会ってくれないかもしれない」

 弱々しくそう言うと、しほがぎゅっと抱きしめてくれる。

「今から、会いにいきなよ!」
「でも、ランチが」
「そんなの、気にしなくっていいよ」

 萌咲が優しくほほ笑んでくれる。

「それに、午後からイベントの設営が」
「これがあれば十分! 私たちに任せて!」

 そう言って、しほはがばりと杏奈から離れると、先ほどまで見ていた企画書を手に持ち、ぴらぴらと振る。

「でも、私が……」

 やるって言い出したことなのに。自分勝手に予定を詰め込んでしまっただけなのに。

 それでも尚、躊躇する杏奈に萌咲が大きな小包を差し出す。

「ねえ、忘れてたんじゃない? 何で今日わざわざランチの約束をしてたのか」
「そうそう!」

 今度はしほが小さな小箱を差し出してくれる。企画書と交換だ、なんて言いながら。

「「お誕生日おめでとう」」

 やっぱり萌咲のハンカチを借りることにして、杏奈は涙を拭う。

「忘れてた。……ありがとう」
「うん!」
開けてみて?」

 まずはしほの小さな小箱を開けてみる。その中から、白や緑、黒といった色違いの真珠やコーラルピンクの珊瑚、青く輝くオパールといった色鮮やかな小粒のビーズで作られた円形のイヤリングが顔を覗かせた。

「きゃー、可愛い」
「うん。その珊瑚のネックレスに合うと思ったの。杏奈は好きな色が多いから、いろんな色が混ざってるデザインにしたんだよ」
「好きな色が、多い」

 コクコクと何度もしほが笑顔で頷く。

「私のも開けてみて」

 促されて、今度は萌咲から貰った大きな包を開けてみる。そこから飛び出してきたのは、萌咲がよく使っている麦わら帽子だ。

「私は白のリボン、しほは緑のリボン、杏奈はピンクのリボン。お揃いだよ」
「可愛い」
「あのね、杏奈は華やかで何でもできて、見える世界が広すぎるんだと思うの。だからね」

 そう言いながら、萌咲がスポリと麦わら帽子を杏奈の頭に被せる。鍔が視界を遮って、先ほどまで見えていたはずの、しほと萌咲の顔がよく見えなくなる。

「たまには隠れていいし、視野狭めてもいいと思うの。好きなものが沢山あっていいんだけど、どう? 視野を狭めたら、今すぐに会いたい好きな人しか見えなくなったりしない?」

 クスクスと笑う、しほと萌咲の声。

 ああ、私、行かなくっちゃ。このまま彼とお別れしたら、後悔してしまう。

「ありがとう! 行ってくる。後のこと……お願いしても、いい?」
「「もちろん」」

 こうして、杏奈はレストランから飛び出した。今日は、オシャレをしていても、ズボンにスニーカーで、走るのには適している。

 彼はきっと、今日は午前中が授業の日。まだ、駅の方へ行けば出会えるかもしれない。走りながら、スマホ片手に愛しい人へとコールする。もう、恐れたり逃げたりなんてしない。

「ダメ。繋がらない。もう、出てくれないの?」

 つい弱気になってしまうけれど、ここで諦めてはいけない。しほと萌咲の言葉を思い出して、走り出す。

 好きな色も、好きなことも、たくさんあっていい。だけど……

「好きな男性ひとはひとりしかいないんだから」

 全部大切でいい。でも優先順位が分からなくなったら、視野を狭めて考えなくっちゃ。失う前に。

 キョロキョロと彼の寄り道しそうな所をチェックしつつ、駅まで走り進める。その間、何度も何度もコールをして。
 自分からだけの連絡が多いとか、もう気にしない。そう言い聞かせて。

「あ、君、ちょっと待って!」

 すると、声をかけてきたのは先日の絡んできた男たちのリーダーらしき人物。こちらを追いかけてくる。

「今急いでるの。来ないで」
「違うんだ。もう君は追いかけないって、約束させられたんだ。それで」

 何を言っているかよくわからないけれど、追いかけないと決めたのなら何故追いかけてくるのか。

「私、急いでるんで!」
「違うんだ、君にじゃなくって、実は……」

 もう、こんな時まで何なの。

 男はやはり、追いかけてくるのだ。振り切ろうとスピードを上げて前を向いた瞬間に、よく知っている金髪の青年が視界に飛び込んできた。

 いた! 同じくこちらに気づいたレインと、目が合う。

「杏奈!」

 そう言って、彼がこちらに駆けてくる。

「待って! 違うんだ」

 すると、後ろの男に気づいたらしく、レインが舌打ちする。

「まだ追われてるのか」
「え? あ、そうみたい」
「走るぞ」
「え?」

 そのままレインが杏奈の手を引いて、走り出す。

 何故ここにいるの?
 どうして、手を引いて、一緒に逃げてくれるの?

 じわじわと繋いだ手から熱が伝わってきて、それが胸まで到達して、心臓を煩く高鳴らせる。頬が、嬉しさと愛しさでほんのりと染まる。

 ああ、やっぱり、彼が好きだわ。

 必死に走る中で、彼の髪が日に照らされて、キラキラと黄金色に輝く。その光で、私の目に入ったゴミを、取り除いてくれたみたい。

 走りながら、聞いてみる。

「何で、いるの?」
「迎えに来た」
「え、どういうこと? あと、怒ってたんじゃないの?」
「ん? 怒る?」
「だから、この間のカフェのこと……。あと、明後日のこと」
「ああ、怒ってたよ」

 やっぱり。もう、彼とはダメかもしれない。ただ困っているから、今助けてくれているだけなのかも。

 そう思い、杏奈は小さく呟く。

「ごめんなさい」

 すると、レインが盛大にため息をつく。

「それだよ。そうやって諦めて、お前が俺を頼らないことに怒ってるんだよ」
「え?」
「カフェとか。ムカつくけど、あんなの、不本意なのは一目瞭然だろ?」
「なんで?」

 レインが得意げな顔で笑いながら言う。

「美しく輝いてない。美しいものは、一番美しく輝かせなくちゃ意味がないんだ」

 杏奈の瞳が揺れる。少し潤んだ自分の視界に映る彼は、とても強気で意地悪な顔をしているけれど、杏奈にはやはり天使のように見えた。いつも杏奈を一番輝けるところへと導いてくれる、優しい天使。

 きっとそういえば怒られるし恥ずかしいから、本人には言わないけれど。

「何よ、それ」

 強がりでプイっと顔を背けて、震える声を隠しながら、精一杯にそう答えた。

「きゃっ」

 すると、突然立ち止まったレインの肩に勢いよく顔をぶつける。
 ちょっと、と言い返そうとすると、くいっと顎を持ち上げて、偉そうに言われる。

「下を向くな。笑え」
「何よ」

 怒って彼を見上げると、あの射貫くような強い瞳と視線がぶつかった。

「そうだ。上を向け。綺麗なんだから」
「な、何よ」
「知ってるか? 俺の家業は美しいものを仕入れて、それを輝かすことだ」
「そんなの知ってるわ。我が家の壺も取り戻してくれたんだもの」
「じゃあ、美しいものを手に入れるには何が必要か、知ってるか?」
「さぁ? 繊細さとか?」

 くくっとレインが堪えたように笑い、いつもあんなに意地悪に笑うくせに、とびきり優しい笑みで言う。

「強さだ。美しいものを手に入れる強さ、それを守る強さ、それを輝かす強さ」
「つよ……さ」
「だから安心しろ。俺は強い」

 背後で追いかけてくる足音が響き、こっちだ、と言うレインに引っ張られて、細い路地に入っていく。

「大丈夫だ」

 そう言って、杏奈を優しく抱きしめる。

 自分の心臓の音と、彼の心臓の音が鳴り響く。きっとこれは走ってきたからではない。彼の温もりに包まれているうちに、追いかけてきた男の足音が遠ざかっていく。

 本当は、毎日毎日、怖かった。しつこく声をかけられて、後をつけられたり、バイト先や家まで来られないように撒いたり。だけど、泣く暇もないくらいに忙しくって、ずっと、ずっと会いたかった人にも会えなくって。

 彼の胸にそのまま顔を埋める。シャツにほんの少し、涙が滲んでしまったのは、気づかないフリをしよう。男の足音が完全に聞こえなくなり、彼の心地良い心臓の音だけが杏奈の耳にまで届く。

 そっと、レインが杏奈の頭を撫でる。まるで、自分を慈しみ、守るかのように。

 麦わら帽子越しでも、彼の大きな掌の感触が伝わってくる。

「もう大丈夫」
「うん」

 そうして抱き着いたまま、数分の沈黙が流れる。それが恥ずかしくなってきたのか、レインがわざとらしく話し出すのだ。

「あいつだけは本当にしつこいな。もっかい、ボコボコにしとく」
「それって……アメフトの試合のことよね?」
「さぁ? 色々だ」

 顔をあげると、またレインが優しく笑っていた。とても眩しく、彼の黄金色の髪と同じようにキラキラと。

 目の前にいてくれるのが、幸せ。守ってくれて、嬉しい。自分に向けられる笑顔が愛おしい。

 でも、そんなこと言えなくて、いつも見たいにクスっと笑ってごまかす。

 だって、やっぱり私の方がお姉さんなんだもの。

「その色々は聞かないでおくわ」
「さ、バイト先まで送る」
「え?」

 思いがけない言葉に、杏奈は戸惑う。

「もう隠さない。だから、俺が毎回、送る。俺が必ず、守る。今からバイトって言ってたから、迎えに来たんだ」
「そうだったの?」
「そっちは、何で?」
「友達が色々、大学のイベントの仕事を変わってくれて。本当はモデルのバイトは夜からなのよ」
「そっか。それなら、今からデートして、それでまた夜送るよ」
「本当?」

 嬉しくて、嬉しくて舞い上がりそうになる。けれど、はっと、思い出す。何のために付き合っているのを隠していたのか。

「でも……」

 もし、異国の彼と噂になれば、誰が女子大の運営を引き継ぐのか、きっとそれも噂になる。もし自分が海外へいくというのなら、大学運営の仕事を引き継ぐのは難しくなるだろう。今まで自分が継ぐ気で動いてきたので、きっと父は困るし、他の人に亡き母と父が守ってきた大学を任せられるだろうか。

 一瞬でそれらが頭をよぎり、杏奈は返答を渋ってしまう。レインがまた小さくため息をつきながら、言う。

「どうせ、家のこと気にしてるんだろ」

 図星をつかれ、杏奈は再び顔を背ける。そして、大学のことはもちろん、それを天秤にかけてしまう自分がこのキラキラとした人の相手ではやはりダメだと、言い聞かせる。

「ええ、だから……」

 そう言って、レインから一歩離れようとしたその時、もう一度強く抱き寄せられる。

「俺は、家業を継ぐ。留学期間を終えたら、国に帰る」
「……うん」
「それで、お前も自分の国で、やりたいことやれ。モデルも、女子大の仕事も」
「……うん」
「それで、俺がやっぱり、お前を貰う」
「……うん?」

 この流れはお別れしかない、そう思って涙を滲ませながら聞いていたのに、予想だにしない言葉に驚いてしまい、ピタリと涙が止まる。そっと見上げると彼は珍しく、少し頬を染めて顔を背けていた。

「どういうこと?」
「だから、別に。離れててもいいじゃん」
「だって、お互いに家業を継いで、それで、あなた結婚だって……」

 杏奈が将来、女子大の運営を引き継ぐということは、彼の国へは行けないということ。彼は長男で、店の跡取り。彼の両親はきっと結婚を望んでいるだろう。

「だから、それだって、離れててもいいだろ? 俺が通う。美しいものは世界各国にあるんだ。店は自分の国が拠点だ。それで、世界各国、周る。だけど、俺が帰る美しい場所はお前だ」

 溜まっていた涙が、別の意味で溢れ出す。

「通うって……そんな」
「心配するな。このことで、悩んでたんだろ?」
「……うん。だけど、レインのお店……」

 通うには遠すぎる。嬉しいけれど、やっぱり難しい、そう思ってしまい、自然と顔が俯むきそうになる。すると、俺をみろとでも言うようにレインが杏奈の顔を包み込んで、クイッと上を向かせる。

「あのなぁ。お前は一人で何でもため込みがちだけど、今日だって友達が助けてくれたんだろ?」
「そう、ね。二人がイベントの設営、してくれるって」
「だから、そういうことだ。俺は俺で信頼できる仲間を見つけて、今もそういう人脈をつくってる。絶対に、お前をかっさらう時には、帰る場所がここにできるくらいの体制を整えとく。だから……」
「だから?」
「安心して、輝け」

 堪えきれない涙が零れ落ちて、杏奈はそっと目を瞑る。気が付くと優しい温もりが頬に触れ、伝う涙を彼が拭ってくれていた。

 そして、杏奈が落ち着くまで、ずっと抱きしめて待ってくれた。もう彼のシャツは涙で軽く滲むどころではないけれど、きっと、今の彼なら怒らない。心地良い心臓の音が子どもをあやすかのように杏奈の心を落ち着かせてくれる。

 そうして涙が落ち着いた頃、レインがごそごそとポケットから何かを取り出す。

「これ、やる」
「え?」

 そう言って、レインは杏奈の足元に跪いて、杏奈の細くその指先まで美しく磨き上げた手をとる。

「代々受け継がれてる家宝の指輪だ。俺が新しく目利きして仕入れた宝石で、デザインとサイズを直してもらったんだ」
「でも、これって……」

 壺を取り返してもらった時に、レインの父が言っていた。我が家にも代々、受け継がれる指輪があって、店を継いだものが継承し、それを贈るのだと。自分の、配偶者に。

「特別な一品は、然るべき場所に飾られて美しい」

 そう言いながら、薬指に指輪をはめて、その指輪越しにレインがキスを落とす。

「まだ攫えないけど、約束。お誕生日おめでとう」
「……うん。ありがとう」

 まだ涙が零れるけれど、精一杯に笑って見せる。

「杏奈、好きだ」

 いつも見上げるばかりの彼が、自分の視界の下にいて、とても大切そうに杏奈の手を握ってくれている。

 色んな色が好き。友達との時間が好き。モデルの仕事が好き。それで、女子大の運営に携わるのも好き。だけど……

「私も、レインが好き」

 きっと、彼が一番好き。

 レインの視線に合わせて、今度は杏奈がしゃがみ込む。あの射貫くような瞳とぶつかって、愛しい人に向かって優しくほほ笑む。
 そして、クスっと思いついたように笑うと、首を傾げるレインの顔にそっと近づいていく。麦わら帽子の鍔を引っ張り、通路側から自分たちの顔が見えないように隠しながら。

「好きよ」

 もう一度、そう呟いて視野を狭めた世界でそっとキスをかわす。

 もう間違わない。好きなものは全部、大切にする。相手を頼って、周りを頼って。時々、視野を狭めて。

 私の世界はたくさんの好きで溢れている。

 

コレスキ、アレスキ、アナタスキ

 

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