その扉の向こう側に
遠くで風が吹く音が響き、それに合わせて竜巻が発生したのを目視する。
近づくとあれほどに恐ろしいのに、遠くからみるその光景は自然の神秘を感じさせ、飛び交う砂の粒子は大変に不便だというのに、サクヤはどうしても嫌いにはなれなかった。
天に向かって輪を大きく広げるように渦を巻くその様は、砂埃を発生させながら、真っ青な空にいくつもの柱を立ててく。
まるで海のように果てしなく続くこの砂漠の砂と竜巻の色が一体化したその瞬間に、それらはあたかも一つの建物であるかのように、地面と空とその間にいる全てのものを空間ごと、繋ぐのだ。
そうなると、その地面と柱の間に垣間見えるドームさえも小さなオブジェに過ぎなくなり、自分を含む、地球上に存在する全ての生物が、動くものが、同じ巨大な砂の神殿に住んでるかのような錯覚を引き起こす。
遠くで竜巻が発生した時だけしか味わえないこの特別な感覚をサクヤは気に入っていたが、今日はまるでそれが馬鹿げて感じて、そんなことを考える自分自身も先ほどの喧しい女と大差ないように思えてくる。
もしかしたら自分も日常的に毒ガスにやられているのかもしれない、と。
ふっと笑みを漏らし、色々なことがありすぎて、脳も身体も疲れているに違いないと、一度休むことに決める。
すると、そんなベージュと青しか映り込まない視界の中に、鮮やかなピンク紫の色を発見し、ソーラーバイクの方向を斜め右へと変更して、徐々に速度を緩めてその色へと近づいていく。
「有難い……アンジェリシカの花だ」
自身のソーラーバイクから出される空圧の砂埃でこの大切な花が埋もれてしまわぬよう、少し離れたところでバイクから降り、サクヤは歩き進める。
まだかなり遠くであるというのに、竜巻を中心とした風の音が全てを飲みこんで、他の音をかき消していく。
確かに自分の足で歩き進めているのに、砂を踏む音など分からずに、けれども足が砂に取られて重くなる感覚だけが、砂の上を歩いているというのを実感させる。
近づくとそこには4輪ほどのアンジェリシカの花があった。ピンクがかった紫の花弁は5枚ほどあり、中央部にほんのりと白が見え隠れする。その花弁ひとつひとつが飛ばされることなく綺麗な状態でくっついていて、本当に今日はラッキーであった。
「……僕だけが独り占めするわけにはいかないからな。……でもちょっと長旅になりそうなんだ。悪いけど今日は2輪分、もらっていくよ」
鞄から小型のナイフを取り出し、花の根を傷つけないよう、細心の注意を払って根元から十センチくらいの位置で切り落とす。
採り立てのまま、まずは花びらをひとつひとつ丁寧に切り離し、真空パックへと移す。それが済むと、今度は花びらと同じ要領で葉だけを保管し、最後に三十センチくらいになる茎の部分の切り口にタオルを巻き、その一本を保管。もうひとつを自身の口元へと持っていく。
「…………うまい」
アンジェリシカの花の茎は潤った水分が多く残っており、砂漠の貴重な水分源のひとつだ。
さらにこの葉には解熱作用があり、葉を湿らせて貼れば火傷の薬に、葉を煎じて飲めば熱中症の薬になる大変に有難い花でもあった。
そしてその花弁は甘い香りと蜜を残し、食べることもできる。
だから砂漠を移動する者の中で暗黙のルールがある。アンジェリシカの花は絶対に根から引っこ抜いてはいけないのだ。根元から十センチ以上を置いて採取することで、この強く、美しく、気高い花は、またそこから新たな命を芽吹いて、全ての生き物に愛を与えてくれるのだ。
気温差が激しく雨水の少ない過酷な砂漠地帯でも育つこの花は、多くの命を繋ぐ。
間違いなく、このアンジェリシカの花がなければ人類は滅んでいただろう。
水分を取り終え、証拠が残らぬよう今手に持っていたアンジェリシカの茎も持ち帰っておく。
先ほど、あのミーナという女に食料を譲ってしまったし、派手に色々と騒ぎを起こしている。この辺りをもっと詳しく調査したいのは山々だが、アトラントに向かわせたアンドロイドのことも、サクヤのこともバレては厄介だ。補給のため先ほどのアンドロイドと一度アトラントを目指してもよかったものの、アンドロイドで最短8日の距離であっても、生身のサクヤではそれは難しい。それも非常食のないままでは特に。
今は迅速かつ安全にあのアンドロイドをアトラントで保護してもらうことが最優先のため、サクヤはあえて、逆方向に進み始めていた。
ちょうど竜巻が発生しはじめた方向へと向かえば、大きな街のドームがひとつある。
けれど、メタルスーツを手放してしまった今、ドームに侵入すること自体も難しく、食料調達に頭を悩ませていたところだった。
「…………天が味方してくれてそうだな。さて、どっちに進む?」
サクヤはまた自分の足を引きずり込もうとする砂に抵抗しながら、ソーラーバイクの方へと戻り出す。
アンジェリシカの花を確保した今、ソーラーバイクの速度を最大にして突き進めば、先ほどのアンドロイドに追いつくだろう。
「あのスピードは身体にかなり圧がかかって後が大変だけどな……」
スーツも手放してしまったし、一度戻ろうか、そう考えたそのとき、突然に竜巻が速度を上げる。
「まずいな」
結局渋っていたものの、ソーラーバイクの速度を最大限にして、方向を行きたい場所へと選べぬまま、有無を言わさず竜巻の進路を逸れるように進み始める。
少しずつ、山側へと近づいていき、比較的緑の残るエリアへと幸運にも辿り着く。
「今日はついてる。こういう時は何かあるんだよな。……よし、休むか」
視線を横にズラしていくと、ちょうど洞窟のようになっている岩場をみつける。
手早くソーラーバイクを背景同化モードに設定し、洞窟の奥へと進みだす。
この辺りはまだサクヤたちの担当エリアであった範囲。今日一日でここまで捜査の手が伸びることは、まずないだろう。
自然が残る部分を本来ならアンドロイドは近づかないから。
滑りやすい岩場のゴツゴツとした感触を靴越しに感じながら、内心上機嫌でサクヤは一番奥まで行き、入り口までの距離と洞窟の広さを確認し、中央部手前側を拠点として休むことに決める。
これくらいの広さだと、万が一戦闘になると崩壊しやすい。そして、奥へと行きすぎると逃げ場がなくなるし、手前すぎるとサーモグラフィに引っかかってしまうのだ。
「ま、24時間くらいなら大丈夫だろうけどね」
太陽の光が十分に届く位置だというのに、サクヤはフードを脱ぎ、顔を出す。
もちろん、念のため、口元は覆っておくけれど。
洞窟の比較的ゴツゴツとしていない場所に背を預け、サクヤはゆっくりと目を瞑る。
あの女は、一体何だったんだろうか。
『サクヤ!』
誰かに名前を呼ばれたのはいつぶりだったであろうか。
「…………ミーナか」
身体はクタクタだというのに、多くが気になり過ぎて、サクヤの目はすっかりと冴えてしまった。
残った武器や備品を再確認しておこうとしたそのとき、柔らかな感触がサクヤの手を襲い、大きく目を見開く。
「……そうだった。珍しいものを手に入れたんだった」
久しぶりに触れた紙は、いつも機械と隣り合わせのサクヤに僅かばかりの安心感をもたらした。
試しに手前にあった本を開いてみる。ページを捲るたびに、紙が擦れる音と、ツンとカビっぽいような匂いが鼻をつき、ひどくそれが、サクヤは先ほどの戦闘を生き抜いたのだということを自覚させた。
日頃、自分が生き抜いた、などという感覚に襲われることはないというのに、機械ではないものに触れると、特に思い入れのないサクヤであってもここまで感情が揺れるのだから、人間がこういうものを求めるのもなんだかわかるような気がした。
「何だか、らしくないな、今日は」
自嘲めいた笑みを漏らし、本に書かれた文字に目を通してみる。
「あ、日本語だ」
サクヤの祖先は日本人らしく、子どもの頃、祖父に習ったことがありサクヤは少しだけ日本語を読むことができる。
この些細な偶然にさえも、心が逸るように、まるで何かが身体に反応するかのように、血が巡るのが感じられた。
ページを追っていくと、最初に書かれているのは『はじまりの物語』というものだった。
続く文字と内容は明らかにファンタジーで、まさにおとぎ話。
「ふうん。やはり子どもの読み物だったのか」
それで読む気が失せ、しまおうとしたそのとき、洞窟の向こうのその向こう、竜巻が離れようとしているのだと思う。流れた風がこちらにまでやってきて、その本のページを捲った。
サクヤに読む気はなくとも、アトラントまで戻れば誰かが喜ぶかもしれない。そう思うと、貴重な紙の一枚でも破れては困るため、慌てて本を閉じて鞄にしまおうとして、ふと、よく知っている文字をみつけ、思わずそのページを読み始める。
「交差の……物語……」
✵✷✵✷✵✷✵✷
太陽と月は交互にこの世を守っていた。
月が地上を照らしている時は太陽が地下を照らし、
太陽が地上を照らしている時は月が地下を照らしながら。
二人にとって、自分たちの光を浴びる全ての者が可愛い子ども。愛しい存在。
地上の者も、地下の者も、確かに、大切に大切に二人で守っていたのです。
けれども、悲劇が起こり、それらは一転します。
月が心配する中、太陽が地下世界の半分を照らすのをやめてしまったのです。
ある者はそれは、人魚が優しすぎて意地悪になったからだと
ある者はそれは、魔法使いが昼に生きるのを恐れて夜に生きるのを捨てたからだと
ある者はそれは、竜が強すぎて大泣きをしたからだと
ある者はそれは、鳥族が自由過ぎて森に引きこもったからだと
ある者はそれは、ケンタウロスが真面目過ぎて奔放になったからだと言うのです。
きっと、このどれかが真実で、このどれかが嘘で、この全てが事実なのでしょう。
世界はいつしか三つに分かれてしまいました。
三つに分かれた世のひとつは地下世界の太陽と月の両方の光を得ながら、全ての種族が心を閉ざし、寂しい世界でただただトキだけが過ぎ去りました。
三つに分かれた世のひとつは地下世界の太陽の光を得られず、地上世界の太陽と地下世界の月の光を得るも、地下と地上の愛と光を繋いでいた秘密の地下鉄の運行が刻と共に失われていきました。
三つに分かれた世のひとつは地上世界の太陽と月の両方の光を得ながら、ひとつしか種族がなく自由に恋をして愛を育めるというのに、その事実に気づかずに光だけを浴び、多くの愛を損なう時を過ごしていました。
きっと、それでも誰かは幸せで、それでも誰かは足りなくて、それでも時間だけは平等に過ぎて行くのでしょう。
ある魔法族の娘が恋をしました。
それは命がけの恋でした。
娘は魔法族の中でも、星詠みを捨てなかった、サンムーンに残る古の魔法使いでした。
どれだけ大地を歩いても、天を竜が飛ぶこともなければ、空を鳥族が舞うこともありません。
海から人魚の歌声が響くこともなければ、ケンタウロスが駆ける地響きも感じません。
妖精や精霊をみることもなければ、もうひとつの星詠みを捨てた魔法族のいるブライトアースへの行き方も知りませんでした。
そんな中、娘の一族は衰退の一途を辿り、滅びかけていました。
そこで、昼の星を詠むため、大地の巫女が選出されたのです。
だれも、本当は大地の巫女などしたくはありません。
日の光を浴びれない彼らにとって、それは即ち、死を受け入れるも同然だったからです。
けれどもその娘は、大地の巫女の命を受け入れました。
幼い弟と生きるには、それしか選択肢がなかったからです。
大地の巫女となった娘は皆が夜を生きる中、ひとり昼を生きました。
そんな娘が孤独と引き換えに得るのもまた、さらなる悲しみで、娘は美しさを封じられ、弟との時間までもが奪われていきました。
それでも娘は、大地に祈り続けました。
最愛の弟の幸せを。
あるトキ、その祈りはついに届きます。
ひとりの青年に。
その青年は誰もみつけることのできなかった、封じられた娘の本当の美しさに気づきます。
けれども運命とは皮肉なもので、その青年は魔法族ではなく、迷い人でした。
迷い人の青年は、ただただ、妖精と夢の中で入れ替わっているときにだけ、娘の前に現れました。
お互いが確かに存在するのに、青年がみる夢の中でしか、娘と青年は会うことができません。
それでも、二人は確かに愛を育みました。
ですが、長年、大地の巫女をさせられていた娘の命は尽きかけていました。
二人にはもう、時間がありません。
青年は娘を連れ出そうと試みますが、ただの人間の青年に魔法のような力もなければ、運命も味方しませんでした。
もしここがブライトアースならば、秘密の地下鉄に乗車することができたかもしれません。
もし青年が海中人であれば、海を渡ることができたかもしれません。
もし気まぐれに白い一枚の扉が現れたら、それをくぐることができたかもしれません。
でも、そのどれもが揃うことはなく、青年は涙を零しました。
するとその涙の分、運命が味方せずとも、悲劇を胸に刻んでいた者が味方し、手を差し出してくれました。
その手を握ったそのトキ
青年と娘は、たくさんのものと引き換えに、ほんの僅かの時間を、共に過ごすことができました。
きっと、その時間はトキであっても、刻であっても、時であっても、あまりにも短すぎて足りなかったでしょう。
けれど、その時間はトキであっても、刻であっても、時であっても、何にも代えがたい時間であったでしょう。
娘の命がけの恋は、確かに愛を残しました。
娘が捧げた愛は、青年が夢を追う支えとなりました。
娘が注いだ愛は、弟が再び愛をみつける礎となりました。
娘が示した愛は、次の大地の巫女の選出をやめさせました。
そして、青年が夢を掴んだその先に、ひとつの花が、世界に残ったのです。
青年が研究したその花は、愛しい娘のように気温差の激しい砂漠地帯でも気高く咲き誇り、解熱作用の薬として皆に愛を与えるものでした。
青年はその花に娘と同じ、アンジェリシカという名を、つけました。
その娘が命がけの恋をした時期と同じころ
とある魔法族の娘もまた恋に落ちていました。
それは勇気のいる恋でした。
娘は魔法族の中でも、星詠みを捨てた、ブライトアースに下った新星の魔法使いでした。
新星の魔法使いは引き継がれた魔法のみを使い、もう星詠みで新しい理を得ることはありません。どれほど優秀であっても、遠くの星を詠むこともありません。
長い歳月の中で、新星の魔法使いたちは魔力の衰えと引き換えに、日の光に耐性をつけていきました。
朝が来ると、繋がりの森の向こうから妖精や精霊たちが街へとやってきて、共に刻を生きました。精霊郷の者と姉妹精霊や兄弟精霊の契りを交わし、確かな友情を築き上げていました。
ある刻、娘は扉の試験に臨みます。
それは試験の日に限り許された特別な詠唱を行い、地上世界へと赴くものでした。
すっかりと秘密の地下鉄が運行されなくなった今、この扉の試験だけが地下世界と地上世界を行き来する唯一の手段でした。
ですが、運命のいたずらは突然に起こります。
ずっと安定していた扉の時空が、娘の試験の時にだけ、乱れたのです。
娘は予定していたロンドンから遠く離れた、日本という地へと飛ばされました。
理の違う地上世界では魔法は使えません。言語も通じません。娘は困り果てました。
そんな中、見ず知らずの娘を助けたひとりの青年がいました。
青年は優しく、娘の迎えが来るまで、手を差し伸べ続けてくれました。
その後、娘の無事に帰還することができ、扉は永久に封印され、使われることはなくなりました。
しかし、娘と青年が過ごしたたった数時間の逢瀬は、彼らの生涯を大きく変えます。
お互いに、その瞳が忘れられなかったのです。
娘が地下世界から来たとは知らぬ青年は彼女の名を聞き、次に会う約束を取り付けていました。
娘もまた、青年が地上世界の人間であることを知っていながら、約束を守ることを密かに誓っていました。
何年もの刻を重ね、娘は努力します。
何年もの時を重ね、青年は待ち続けます。
そうして、最初の運命が交差しました。
何十年も動いていなかった秘密の地下鉄が、動いたのです。
娘は勇気を振り絞り、地下世界の全てに別れを告げて、青年の元へと約束を果たしに行きました。
そして、娘の代わりに、ひとりの古の魔法使いが、ブライトアースへとやってきました。
それはかつての、大地の巫女が守りぬいた、成長した弟でした。
この久しぶりの秘密の地下鉄の運行は、大きな愛を地下世界と地上世界の両方で、実らせました。
さらに何年もの刻と時が過ぎ去り
再び秘密の地下鉄が運行されます。
乗車希望者は父と母を失ったとある兄妹でした。
彼らはこの秘密の地下鉄に乗らなければ、きっと離れ離れにされてしまうでしょう。
離れてしまえば、たとえ同じ世界を生きていても、二度と会えないことが彼らにはわかっていました。
そして……
✷✵✷✵✷✵✷
「ここからは……ページが劣化していて……読めない」
染みと破れで、それ以上は文字はおろか、まともにページさえ残ってはいなかった。
けれど、この物語を読み始めてから突然、身体に稲妻が走ったかのように、不思議な感覚にとらわれ、サクヤはもう一度、気になる部分を読み直す。
「星詠み……アンジェリシカの花……」
星詠みという言葉の響きにひどく懐かしさを覚え、鞄の奥底で無機質なサクヤの所持品に鮮やかさを加えるその花と物語の花が一致することが、心の奥底に深く引っかかる。
「一緒なんだ、花の特徴も、名前も……」
すると先ほどの消えた扉も白かったな、などと思い出され、まさにおとぎ話のような説が一瞬、サクヤの頭を過る。
「こんなの……馬鹿げてる……」
馬鹿げてるけれど、もう世界の全てが、馬鹿げている。
そっと、洞窟の外の砂嵐と、それらの粒子が、洞窟の岩々にぶつかる小さな音を聞きながら、呟く。
「だけど、僕の存在自体が馬鹿げてるから。だから僕は、本当は一番、馬鹿げてるものを否定したらダメなんだ」
音がやんだかと思うと、砂嵐がまるで飽きたかのようにその場を去り、静寂さがこの辺りを包み込む。すると、洞窟の外からサクヤがいる位置まで入り込むのは、砂埃ではなく、太陽の、光。
「ちょっと強めだから、まだBの光かな」
その光がサクヤの目元へとあたり、火傷なんてしないけれど、流石に眩しくてサクヤはゆっくりと目を瞑る。
サクヤは何故か、どちらの種類の太陽の光も浴びても平気な体質だった。
そんなサクヤはこの世界で、何者でもない。何者にもなれない、存在。
アンドロイドでも、人間でもない、ただの生ける者。
例えば、誰も知り得ない宇宙のどこかで不思議なことが起こっても、それはそうなのだろうと、誰もが理解はできなくとも知り得ないから納得はするのだ。
隕石が墜ちようが、月が割れようが、二つ目の太陽が、現れようが。
けれど、この地球で、同じ生きる場所で不思議なことをみつけたら、安心できる何かを提示しなければ、誰もが納得をしない。そこに存在すること自体の。
どれだけ害がないと伝えても、どれだけ強くなろうとも、どれほどの知識を身に着けようとも。ただ他の皆が浴びれない日の光を浴びれるというだけで、サクヤは途端に身分証明を失う。
サクヤの身体は機械ではできていないから、当たり前にアンドロイドの所属にはなれない。
動けば身体は疲れるし、食料がいるし、考えすぎると脳がつかれる。
けれどサクヤの身体には血が流れていて、当たり前に機械ではないのに、2つめの太陽の光を浴びられるだけで、人間からも弾き出されてしまうのだ。
自分のままでは。
だから、サクヤは悪く生きることに決めた。そして、ズルく生きることに決めた。
日々、アンドロイドではないのに、アンドロイドのフリをして。
日々、人間ではないのに、人間のフリをして。
あらゆる所に紛れ込む。
“レジスタンス“として――……。
それが唯一、この世界を生ける者として、何者でもないサクヤの役に立てる所属だから。
『応答可能か? 先ほど何があった?』
サクヤが受信をオンにしていた小型無線機が、音を発する。
こちら側の音声の設定も切り替え、その応答にサクヤは応える。
久しぶりのアトラントの司令部との連絡通信だ。
『大丈夫です。少し……アクシデントがあり正体がバレる前に二ホンのB基地を離れました。申し訳ありません。予定よりも数週間は早い……』
『そんなことはどうでもいい。……無事なんだな?』
『はい。バックアップを含む戦闘メモリーと戦闘プログラムを消去したアンドロイドを一体、そちらに向かわせました。予定通りに行けば8~10日で到着するかと思います。ご対応、よろしくお願いします』
確実に報告すべき現象に出会ったというのに、何故だかあのミーナという喧しい女のことを報告する気にはなれず、そのままにいつも通りのレジスタンス活動のことだけを、サクヤは伝えていく。
『よくやった。必ずアトラントで保護しよう。……それで? 次はいつ戻る気だ? そろそろ休め。身体がもたない』
『いえ。休ませてもらいます。少し気になることがあるので、休暇をください』
『はぁ。君の休暇はいつも休暇ではないからな。まあ、言っても聞かないのだろうが』
『……ロンドンへ行ってきます』
『ロンドン?』
『はい。かつてのイギリスの首都。そこで調べたいものを見つけたんです』
『おい! 遠すぎないか!?』
『大丈夫です。途中、大きな拠点が2つあります。自分たちにとっても、敵にとっても。……情報もしっかりと集めてきますよ』
『あ、こら。そういう問題じゃない。無理をす……』
プツッと良い音を響かせて、そこであえて無線を切り、サクヤは手早く荷物を纏めていく。
その際、みつめるのは先ほど目を通していたおとぎ話と日記帳。
一通り、読めるページだけ読み進めていたものの、気になる共通点を発見したのだ。
「よく登場する地名が、ロンドンと日本。日記とおとぎ話両方に共通するのが地下鉄とやらがロンドン、扉は日本とロンドンと両方。もし……」
さっきの扉が本当にここに書かれている不可思議なものだったら?
その不可思議がまかり通ったとき、このおとぎ話にある、光を浴びられる、浴びられないという記載はどんな意味をもつ?
例えば、日の光を浴びられる自分は、何者なのだろうか。
そして、日記帳の微かに文字が残るページに、こうも書かれていた。
「ナタリーとキースの魔法茶屋。……さっきの看板の文字、法の前が魔だとしたら……。日記によれば最初にこの店があったのは、ロンドン」
サクヤは洞窟を出て、入った時と全く同じ空を見上げながら、呟く。
「この世界の唯一の良いところは太陽光バッテリーが切れないことだな」
ロンドンへと行くには、海を渡らなければならない。
さて、どの拠点を通る?
to be continued……
✵✵✵キースのおとぎ話と日記帳✷✷✷
はじまりの物語 → その手に触れられなくても、太陽の子ども、月の子ども
交差の物語 → earth to earth、扉の試験、秘密の地下鉄
キースの日記帳 → ナタリーとキースの魔法茶屋、※HPのひみつメモ(これは読者様用)
『その扉の向こう側に』参考文献 → キースのおとぎ話、キースの日記帳、???
きっと、おとぎ話の基盤は真実で、時代と共に形を変えて伝わり、それでも何かを未来へと引き継いでいくのでしょう