その手に触れられなくても~episode4
目の前の丸く大きな水晶の中に、リアと尋問官の顔がまるで深海魚のように、奇妙に形を変えて映り込む。
リアの声に合わせて、尋問官が広げる本の文字が淡く青く光り、それが尋問官の顔に反射し、不気味に感じさせた。
眉はしっかりとあがり、少し釣り目ぎみの瞳は凛々しく、けれども穏やかに笑む表情や清潔感のある雰囲気は、いかにも年上の男性というような、包容力のありそうな顔をしている。リアくらいの年頃の女子ならば、優しくされればうっとりとしてしまうような、そんなスマートな話し方と知性を醸し出している。
……醸し出しているけれど、その表情が、どこかリアには胡散臭くみえ、むしろ不自然だった。
笑い方が、あまりにも完璧なのだ。尋問官として厳しくするけれど、仕事には真面目に取り組むけれど、それ以前に一人の紳士であることを忘れず話を聞く誠実さもあると、わざとらしく、言うように。
こういうタイプは危険。少しでもこちらに不利な情報を渡してしまったら、きっと、それを口実に誠実に接する理由がなくなったと、あっさりと拷問を容赦なくするような、そんな気がする。
リアは特別に誰かの表情を汲み取るのに長けている訳ではないが、エネルギーの不快感というのには敏感だった。
ここでの唯一の救いはパナトリアの存在だ。彼女は本当に、真のエネルギー。ただただ、リボンや自分の興味のあることに集中する。良くも悪くも何にも左右されないのだ。本当に何かを追及するには、物事の良い面と悪い面の両方を平等に見なければならないから。
そして、彼女はその心を研究者として誰に疑われるでもなく、不自然なく貫くことができる。
そのリボンには絶対に、誰かを害そうとするような意図はない。
だから、パナトリアの研究心を信じ、それが解明されるまで、リアは持ちこたえなければならない。
「……呼ばれている、とはどういうことかな?」
……かかった。やっぱりこの人は恐ろしいほどに頭が切れるし、本心を隠すタイプ。
ひどく優しい笑顔でこちらをみているのに、漏れ出るエネルギーは殺気など到底感じさせないのに、エネルギーに敏感なリアにはどこか底の見えない冷たさまでもが優しさの向こうに感じられるのだ。
そして、思う。
いくら海の中で閉鎖的な生活をしていたとはいえ、ここまでに力の強い人がいて気づかないだろうか、と。
そんなことを考えていたからか、リアの表情やエネルギーにブレが生じたのだろう。本当にこの人は頭も切れれば、魔力も強い。
僅かなリアの変化を感知魔法や観察力から、見事に言い当てる。
「こんな人、海の中にいた? とでもいうような表情をしているね」
またさらに笑みを漏らし、その違和感がひどくリアの心をざわつかせた。全くもって、作り笑いのようには見えない自然な笑みのはずなのに、これは絶対に、笑顔ではないのだ。
作り笑いが上手いなんて域ではなく、本当に笑顔なのに、絶対に笑ってなどいないのが、エネルギー的に感じ取れて心底恐ろしくなってくる。
「ははは。そんなに委縮しなくても大丈夫。正直に言うよ。私はパナトリア殿と同じくらいの時期にレムリアに合流したんだ。だけど戦士の職についたから、すぐに戦に行くことになってね。このレムリアでちゃんと過ごし始めたのはここ最近からなんだ」
ああ、そろそろ返事をした方がいい。
「……はい」
躊躇いがちに瞬きをして、しっかりとその違和感の正体を掴むために、目の前の尋問官を見る。
すると、ほんの少しだけその人の口角が本当の意味であがり、全身に鳥肌が立ち、目を見開く。
「……驚いた。君は真っすぐにこちらをみるんだね。自分で言うのもなんだけれど、私の能力はフェロモン体質でね。女の子はうっとりするか、男は私を畏れるか、なんだ。もちろん、戦士としての実力はフェロモンなんかに頼らず、磨きあげた自分の技だけれどもね」
たくさんの考えが頭を過るけれど、わざわざ自分の手の内を明かすのは、きっとリアに気を許させるため。
リアはほんの一瞬、素直にそのまま、表情をあえて出し、視線を左から右へと泳がせる。
これはリアが普段考えるときに、つい、してしまう仕草。
その仕草にあわせて、表向き尋問の回答に悩む素振りを、心の中ではリア自身の本当の考えを巡らせる。
誘導だと気づいていないフリをして、そのまま誘導に乗ってみるか。
誘導だと気づいていると、警戒心をみせるか。
……ダメ。この尋問官には嘘は通用しない。
答えを出す前に、それが強く頭に過り、どちらでもない答えをとる。
「……はい。日頃から、あまりフェロモン体質の方にも惹かれることはありません」
誘導だとは気づいているけれど、尋問が怖いから、誘導に乗るべきかどうか悩んでいる。そう見えるように、迷っている感情をそのままに、正直な内容を、警戒心も添えて、余分なことは話さない体でいくことにする。
事実は言うけれど、本質はみせぬような、そんな回答を尋問に戸惑う人魚をふるまいながら続けるしかない。
それに対し、向こうも満足そうに頷くのをみて、今までの違和感の正体に気づく。
この人はきっと、本当に笑うという感情が、ないのだ。だから、作り笑いというものがなく、状況に合わせて、感情がないままに笑い、満足感や高揚感、好奇心といった別の感情と笑みを結び付けて、自分の感情を感情のないままに、操るのだ。
だからきっと、この人の感情は誰にも読めない。
ぞっと怖くなり、血の気が引く。
そしてリアは、これらの感情を隠す方が不自然だと思い、素直にそのまま恐怖に屈するように顔を俯かせ、相手の表情を見ずに水晶玉を見据えながら、付け加える。
「で、ですがっ。う、噂で聞いたことがあるのを思い出しました。新しく来た兵士の方が一人、異例の副隊長への抜擢で、大変にモテると」
すると、本当の感情が何か分からないまま、目の前の男性は作り笑いではない笑みで、完璧に笑ってみせる。
それは傍から見れば、褒められて照れ笑いしているかのよう。
ぞわっと鳥肌をたて、リアも自身の感情をそのままに、そういうことにする。
モテることで評判の尋問官の機嫌を損ねたのではないかと、恐れ慌てているかのように見えるように。
「まあね。自分で言うのもなんだけど、出世するのは当たり前だと思ってたよ。自分の腕には自信があったしね。モテる自覚もあるんだけど、フェロモン体質だからね。きっとこの体質がなくてもモテる気がするんだけど、この体質だから、どの意味でモテてるのか分からなくなるんだ」
尋問官の視線を感じ、おずおずと顔をあげると、ひどく視線が絡みあい、ブラウンの瞳が淡い紫に揺れていて、この人は自分に好色の力を使っていると、判断する。
どうしよう、かかるフリをした方がいいのかしら。
すぐには判断がつかず、反応に困っているとでもいうような瞬きをして、あえて沈黙を貫いてみる。
「だからね、君みたいに好色にかからない子がいると、すごく気になってしまうんだ」
「…………」
そう聞くと、つい、きっと好色にはかかっていないのに、本当にかかってしまったら怖いと反射的に目を瞑り、勢いよく顔を突っ伏す。
けれど、絶対にそこに優しさなんてないのに、とても優しい声色で、惨いことを言っている自覚なんてないのだろう、容赦なく、その尋問官は言ってのける。
「こっちをみなさい」
「……あの、その……」
「君に拒否権はない。尋問中なんだから。さあ、こっちをみるんだ」
水晶の上に手が伸びてきたかと思うと、みんなが忌み嫌う緑の自分に躊躇うことなく触れ、顎を掬うや否や、無理矢理に顔をあげさせる。
途端に強く、私の心は私のものだと、叫びたくなった。
何故だか分からないけれど、こういうことが前にもあったような気がして、激しい恐怖感に襲われる。
けれど、兵士の中でも驚異的なスピードで出世したという副隊長の手など、自分の力で拒めるわけもなく、再び視線が絡み合う。
目の前で淡い紫の瞳が、どんどんと濃くなり、瞳の中で何かが渦巻くように、何重もの円を作り上げては、揺れている。
怖い、こわい!
顔を逸らそうとするも、顎を掴むその手がそれを許さず、リアの顔を固定する。
息が切れ切れになりながら、酷く気分が悪くなるのを感じつつ、リアは目を瞑り、反射的に叫ぶ。
「いやっ、いやっ、いやっつ!!!」
その声に合わせて、扉の向こうで音がした気がして、ああ、助けてと思って反射的に視線をそちらに向けてしまう。けれど当たり前にそれはテトではなくて、音の主は真横でリボンのまじない検証をしていたパナトリアだった。
顎を掬われたままのリアをほんの一瞬みて、普通に気分が悪いとでもいうように、表情を隠さずに、言う。
「いや~ズルくないかい? 私情は挟むなって私に言ったところだろう? 私だってみどりちゃんを研究へと勧誘したかったんだけどな~」
そっち? 普通に好色魔法にかけられそうなのだから、助けて!
……いいえ、それでいいわ。好色魔法にかかるくらいなら研究所に連れて行って。
すると、少し痛いくらいに掴まれていた顎が解放され、もう研究材料にされてもいいと、衝動に任せてパナトリアの背後へと飛んで泳いでいく。
け、研究材料でいいから助けて!
そう言おうとすると、それよりも先に、不気味なくらいに穏やかな尋問官の声が響く。
「やっと取り乱したね。うん、すごい慌てようだ。嘘のない証拠だね」
パナトリアの背後から視線は向けないままに、けれども尋問中ではあるため、気持ち尋問官の方に身体の向きだけを向けてみると、頭上からパナトリアの大きな溜息が聞こえてくる。
「はああ。お前のような奴が好色の能力を持っているのはもったいない。私が持っていたら、とても優しく友好的に研究所へと全ての物や人を誘導し、丁重に研究した後に、元居た場所に返すのに」
「人を悪く言わないでほしいな。本当に好色の能力なんておまけで、日頃から使わないよ。みんな、勝手に惚れるだけだ」
「どうだかな。ほら、これがリボンの検査結果。で、みどりちゃん、もう目を開けていいぞ」
会話的にリボンの検査は終わったらしい。結果が気になるけれど、どうしても好色魔法が怖くて目を開けることができない。固まったままでいると、明らかにパナトリアのものではない大きな手がリアの腕を掴み、ぐいっと引っ張る。
「さて、目は瞑ったままでもいいけれど、もう一度席にはついてもらうよ。尋問の途中だからね」
「……もう、いやです……」
嘘をつくことが叶わぬのなら、せめて本当に言ってもよい本心を言おうと、リアは口を動かす。
「まあ、いい。怖いのならそのまま目を瞑ったままでいいよ。私がこうやって触れても心酔の初期症状さえないのだから、君は絶対に好色にはかかってないからね」
「……それでも、いやです……」
尋問官の声が、ワントーン明るくなり、笑い声が響いてくる。
あれ?
目を瞑っているし、もっともこの人は元々に表情はあるようでないから、本当の感情は分からない。分からないはずだけれど、この笑い声だけは偽りなく愉快だとでも言うように、笑っているかのように感じられた。
「ふうん。面白いね。まあ、結論から言うと、君のリボンを用いての女王陛下への危害の企てに関しては、無実の判決を下す」
「……え?」
予想外の言葉に、先ほどの笑い声の変化の驚きさえ忘れ、思わず気の抜けた声をあげてしまう。それでも、絶対に目だけは開けなかった。
すると、尋問官はさらに声をあげて笑いながら、続ける。
「へぇえ。じゃあ、もう少しだけ尋問を続けよう。なぜ無実なのかの解説を含めてね」
「…………」
嫌です。無実なら帰してください。そう言おうとして、無実の判決が下るのならば大人しくしておこうと、沈黙を貫くことにする。
「それだよ。その反応なんだ。それが好色にかかっていないという以前に、好色にかからない子の反応なんだ」
「……え?」
「さすがに、尋問で本当に好色にかけたりなんてしないよ。だけどみんな、本当に好色の力を使われたかなんて、実のところ、分からない。私はフェロモン体質で、好色の力が使えると宣言してから少し色味を変えた瞳を揺らすだけで、好色にかけられたと勘違いして、こっちは力なんて使っていないのに、勝手にみんな惚れるんだ」
「…………」
「だけど、好色にかからない子はね、既に強く恋をしているんだ。だから、心底、嫌がる。そして、好色にかけられたかもしれないという心理的な恐怖にも打ち勝つんだ」
「……恋……」
「あのリボンは、男除けのまじないがされていた。そこにさらに危害を加える者が近づいたら弾くようにと、二重に守りのまじないが絡まってね。……当たり前だけれど、女王陛下は女性。男除けのまじないで害すのは難しい。……そして、本当に君は恋をしている」
リアは驚いて今度こそ目を開けそうになるも、やはり好色への恐怖感が勝り目は瞑ったまま。代わりにポカンと口をあける。
「誰にリボンを貰ったんだい? 恋人かな?」
途端に、これが真の尋問だと判断し、頭の中をリボンではなく、会話の流れから不自然ではない思考、誰に恋をしているのかの考えでいっぱいにする。相手にアヴァロンのことを悟られないように。
けれど、恋について考えた瞬間に、紅い瞳と、黒い瞳と、少し高めの優しい声と、少し低めの意地悪な声が交差して、たくさんが分からなくなった。
私は、恋をしているのだろうか。
だから、もう駆け引きができなくて、そのままに、言う。
「言いたくありません」
「これは尋問だよ? 君に拒否権はない」
答えて、答えないようにしなくてはならない。
だからリアは、恐怖に打ち勝とうと、しっかりと目を開けて、再び目の前の尋問官の瞳を見据えながら、言う。
「男性からもらいました。ただ、誰に恋をしているのかが、自分でも分からない。だけど、緑の私はご存知の通り、嫌われ者。だから相手が男性だからとか、恋をしているとか、そういうのを一旦おいて、純粋に嫌われ者の緑の私に素敵なリボンをくれた人を、危険な目にあわせたくない。緑の私に関わるだけで、その人まで怪奇な目でみられ、その人の手柄や優しさや全てを、私のせいでなかったことにされてしまうから」
アヴァロンは海の中にはいないから、そういう意味では関係はないけれど、緑の自分に優しくする人はそう扱われる。それに本当に、リアはまだ、誰に恋をしているのか、自分で分からない。
私は男性からリボンをもらった。緑の私に優しくしてくれた人を傷つけたくない。
嘘のない、答えだけれども答えではない真実を、貫く。
目の前の尋問官の瞳は今はブラウンで、もう紫に揺れることはなかった。そして、本当に完全に表情を消して、言う。
「無自覚の、強い恋心か。それは確かに、どの魔法にだってかからないだろうね」
「…………」
「まあ、いい。これ以上はお互いに何の利益もないだろうしね。……もう、尋問室になんて来ないようにね。リアと呼ばれている、記憶のない緑の髪の人魚姫」
そう言い残すと、尋問官はあっさりと本をもって、部屋から退出していく。
残されたパナトリアとリアはしばらく沈黙のまま、その様をみていた。
完全に扉が閉まり切った音がし、尋問官の気配が消えたのを感じ取ったところで、ようやくにリアは肩の力を落とす。
そんなリアから零れ出るのもまた、心の奥底からの、本音。
もう、誰に聞かれたってよい、独り言。
「私は、恋をしているの?」
泡となって消えたこの独り言を、パナトリアは珍しくからかったりなんてせず、聞き流してくれた。