開け切った広大な大地のど真ん中に、一本の巨木が聳え立っている。ぐんと広く枝を伸ばし、そこから青々とした健康そうな緑の葉が瑞々しく生い茂っている。まるで果てしなく続く大地を優しく包み込むかのように。
この木は生命が誕生する遥か昔からあったに違いないと私たちは信じて疑わない。私たちはこの恵みの少ない地で生きる全ての者を守ってくれるこの木を敬愛し、大切に祭っている。
この日差しの降り注ぐ中、今日もいつも通りの義務的な挨拶をして、一人、この木の前で星詠みを開始する。といっても、フリをするだけなのだが。
毎日の報告では何も詠めなかったとしか伝えていない。
では星を詠まずに何をしているのかというと、ただ、祈っている。
私は一日中、手を組みこの木に祈りを捧げる。
身体があげる悲鳴に気づかないようにして、絶望的な思いを抑え込んで、ただ祈ることに集中する。
今日も耐えなくては。そう思った時、背後から視線を感じた。
ああ、今日は、いつもの誰かがいる日だ。
目を瞑ったまま、アンジェリシカの頬は自然と緩んでいった。
姿を見たことはないけれど、いつ頃からだろうか。突如、背後に誰かの視線を感じるようになったのだ。
始めの頃は、怖くて仕方がなかった。村の誰かが見張りに来たに違いないと。けれども、その誰かは声をかけることなく、いつの間にか消え去ってしまう。そして、いつもの村の者から向けられる冷ややかな視線とは違い、背後から感じるこの誰かの視線はどこか、温かいのだ。確信的にその誰かは優しいと、信じて疑わないくらいに。
何故そう思うのかは分からない。けれど、アンジェシリカにとって説明は出来なくとも、とても安心できる不思議な感覚があるのである。
思い切って何度か振り返ってみたことはある。けれども、いつもそこには誰もおらず、何もない。ただただ砂と時折地面から顔を覗かせる草花が風に揺られるだけであった。
けれども、アンジェリシカにとって、姿が見えるかどうかはどちらでもよかった。この誰かの温かな視線を感じる時、アンジェリシカはとても呼吸がしやすくなるからだ。
自分はしっかりとやっていると、立派に生きているとそう言われているような気がして。
そして、この誰かのことをあれこれ考えるのもまた、楽しみであり、救いであった。
もしかしたら、妖精や精霊かもしれないし、あるいは、本当に迷い人かもしれないと。確か言い伝えでは、迷い人は夜眠る時、妖精たちと入れ替えで、夢の中から来るとか来ないとか。
そんなことを考えていると、ジャリっという音がして、アンジェリシカは反射的に目を開く。すると、前方から深く黒いローブを被った者が近づいてきたのだ。
「キース。来てはいけません」
すぐに誰だか分かった。こちらに向かって駆けてくるのは、アンジェリシカにとってこの世で一番愛しい男の子。
『嫌だ』
キースに注意するとほぼ同時に、背後から声が聞こえたような、そんな気がした。慌てて振り返ってみるものの、いつも通り、そこには何もなく、誰もいなかった。
風が吹き、砂埃がこちらへと向かってくる。白いワンピースから覗く手足にそれらがあたり、チクりと小さな痛みを与える。まるで怒るかのように。気づくのが遅いよと言うかのように。
気のせいかもしれない。けれど、確実に耳に彼の音が、声が残っている。そう、いつも後ろにいるのは、彼だったのね。
そう思い、長いまつ毛を震わす。彼の声を思い出すだけで、全身がブルリと震えた。
「姉さん!」
呆然とするアンジェリシカの前に、満面の笑みでこちらを見つめている弟の姿があった。はっとして、目の前の悪気のない弟の背丈に合わせ、屈んで言う。
「キース。ここに来てはいけないの」
「……誰にもバレてないよ。こっそりと来た」
アンジェリシカは無言でゆっくりと首を振る。
「そうじゃないの。いい? 日の光を浴びてはいけないの」
「大丈夫。今日はちゃんと日よけのローブを被ってきた。それにほら、姉さんの分も持ってきたよ」
「キース……」
アンジェリシカは弟をぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう。でも、私は行けないの。一人で戻りなさい」
抱きしめていた手を緩め、そっと離れるも、キースは動こうとしない。そして、ギュッと自身のローブの裾を握り、俯きながら小さな声で言う。
「もう、一人で眠るのは嫌だ」
「……キース、ごめんね」
「でも、姉さんが戻ってきてくれるなら、一人で眠るし、もっと勉強だってするし、昼間に外に出たりなんてしないって約束する」
「……本当に、ごめんね」
「嫌なんだ。姉さんが、辛い思いをするのも! しんどい思いをするのも! 嫌なんだ!」
「……ごめん。ごめんね」
「謝らせたいんじゃない、姉さんを笑わせたいんだ。もう、こんなことしなくたっていいじゃないか。昼に星を詠むなんて無理だ」
「うん、うん……。ありがとう」
アンジェリシカは涙をにじませながら、精一杯笑って見せた。自分とお揃いのキースのダークブラウンの瞳が大きく揺れる。涙を溜めて、泣くまいとしているのが見て取れるのに、その頬に涙が伝っていく。
「早く大人になりたい! 俺にもっと力があったら、こんなところ……うっうっ」
「いいの。ゆっくり大人になったらいいの。キースはそこにいてくれるだけでいいんだから」
ぎゅっともう一度キースを抱きしめる。こんなにも二人で喋ったのは、キースを抱きしめたのはいつぶりだろうか。
随分と背丈も、髪も伸びた気がする。いつの間にか膝を折ったアンジェリシカよりもキースの方が、視線が高くなった。ローブから出る一本に束ねた黒髪の長さは鎖骨を超えただろうか。
『急いで。今日は抜き打ちチェックがある』
星を詠んでいないのに、どこかでそんな声が聞こえた気がした。先ほど初めて聞いた、いつもの彼とも違う、誰かの声。
「キース。今日は日が沈むのが早そうだから、もう戻りなさい。見つかったら大変よ」
「でも……」
「大丈夫よ。今日も手紙を書いてくれる?」
「……うん! 約束する」
「約束よ。見つからないように気を付けて」
そっとローブ越しに頭を撫でて、愛しい弟を見送った。何度も何度も振り返る弟を。
来てはダメだと言うのに、キースはこうやって、危険を冒し、村人の目を盗んでアンジェリシカに会いに来る。
キースに会えるのは、嬉しい。でも、昼間、ここに来てはいけないのだ。喜びを素直に伝えることができず、そしていつも寂しい思いをさせて、胸がぎゅっと苦しくなる。
「キース。気を付けて」
小さく呟いて、アンジェリシカはもう一度、巨木と向き合う。星を詠むためではなく、祈るために。心からの感謝を込めて。
今日はキースに会い、そして、あの誰かを感じることができた。二人ともの声まで聴けて、キースに至っては抱きしめることもできた。
本当は息が切れそうなほど辛いけれど、今日は十分に耐えられるだけの思い出をもらってしまった。
弟の成長と思いやりと、あの彼の声。数少ない幸せな思い出のひとつに刻まれるだろう。
そう思いながら、夕刻までのトキをアンジェリシカは祈って過ごす。
そして夕刻、上質なローブを深く被った族長が本当に抜き打ちチェックに来たのだ。正面から、冷ややかな視線を向けて。
キースは村にとっての数少ない男手だから、きっとそこまで酷い扱いはされない。けれど、何かあった時にアンジェリシカはすぐに駆け付けられない。
だからどうか、見つかっていませんように。
そう心から願いながら、族長の冷ややかな視線を見て見ぬフリをして、アンジェリシカは完全に日が暮れるまで祈り続けた。
キースの幸せを。